意識が浮上する。重たい瞼を開けば、薄明るく見慣れない天井が見えた。寝返りを打つとカーテン越しに部屋に差す太陽の光に照らされながらこちらを向いて寝ている相澤先生の寝顔が見えるのに、加えて相澤先生の側にある手が緩い力で握られていることに気づいた。一瞬、状況が理解できず、ドキリとすると同時に一気に覚醒するが、すぐに昨夜のことを思い出す。
そうだ、昨夜は相澤先生の家で映画を見て、相澤先生と身体を重ねたのだ。思い出すだけで寝起きだと言うのに顔に血液が集中して熱くなり、胸が疼く。それと同時に幸福感に包まれて、わたしは自然と口元が緩んだ。結局映画はほとんど見なかったけど、実質相澤先生の家に行くための口実みたいなものになっていたので、それはそれで良いのだ。
それにしても、とわたしは相澤先生をまじまじと見つめる。白い肌には無精髭が生えていて、これがまた相澤先生らしいなと思う。髪の毛はシーツに散らばっていて、規則的に上下する胸の動きとともに、小さく寝息が聞こえてくる。それだけでなんだかわたしは、世界中に感謝したい気持ちになるのだ。この場所でこんなに無防備な相澤先生を見ることができるのはわたしだけだ、その喜びを噛みしめる。
すると、何の前触れもなく相澤先生の腕が伸びてきてわたしの身体を捕えると、ぐっと抱き寄せられる。あっという間にわたしたちの距離はゼロになり、何が起こっているのかと混乱する。
相澤先生の腕が首の下に回されて腕枕されるかたちになり、もう片方の腕は背中に回されている。そして顎がわたしの頭に載せられた。物理的近さに心臓が急速に動いて、ドッドッドッとものすごい速さで血液を送り出しているのが分かる。
「おはよ」
近い距離で降り注いだ声は少し掠れていて、とっても色っぽい。顎がくっついているからか骨伝導のように響いてきて、相澤先生の声がわたしの身体の中に溶けていったみたいだった。
「おはようございます、相澤せん―――」
「俺はお前の先生じゃないっつうの。何度も同じこと言わせんな」
「消太さん消太さん消太さん」
顔が見えないことをいいことに、上書きするように名前を呼びまくれば「聞こえてる」と優しい声が降り注いできた。わたしは、あいざ……消太さんの声に包まれるだけで、頭が甘く痺れるような心地になる。本当に、わたしは消太さんのことが大好きなんだと感じる瞬間だ。
「大好き、消太さん」
わたしの声が、言葉が、こんなに近くで届けられる幸せを噛み締めて、目を閉じた。
+++
そういうわけで、職場では相澤先生と呼び、プライベートでは消太さんと呼ぶことになった。職場で消太さんと呼ぶことはまずないが、プライベートで相澤先生と呼ぶことは結構あり、その度にじろりと充血した瞳で見られる。今日も仕事が終わり送り届けてもらう道すがら、相澤先生と呼んでしまった。仕事の帰り道はほぼ職場だから許してくれてもいいのに。そんな気持ちが顔に出てしまったのだろうか、消太さんが言う。
「今、仕事の帰り道くらい見逃せって顔したな」
「エスパーですか」
「エスパーじゃなくても分かるわ」
夕方だと言うのに夏の暑さはまだまだ余力を残しているらしく、鬱陶しいくらいまとわりついてくる。隣を歩く消太さんは当然のように全身黒装束の上、捕縛布を首周りにぐるぐると巻いているので、この夏いつか熱中症で倒れるのではないかと心配していたが、今の所大丈夫そうだ。涼しそうな顔で歩いている。
と、夏の暑さに導かれてわたしは明日の予定を思い出す。明日は同期会なので一緒に帰れない日だ。
「そういえば明日、前に言っていた同期会なので帰りは一人で帰りますね」
「ああもう明日か。どこでやるんだっけ」
「あそこです、駅前の」
「あぁ。タイミング合えば送ってくよ」
「え、いいですよ。申し訳ないし。―――いっひゃァッ!!」
突如頬をつねられて、反射的に悲鳴を上げて立ち止まった。涙目になりながら見上げれば、消太さんの充血した三白眼がじとっとわたしを見下ろしていて、どことなく怒りすら感じるものだった。
「お前は、襲われたことを、忘れたのか」
「わふれて、まへん」
やはり怒っていたようだ、一文一文を噛み締めるように言われる。そうだよな、とわたしは頬をつねられながら納得する。襲われた実績があり、間一髪のところを助けてもらったのだから、危機意識は持つべきだ。会場から家までは歩いて帰れる距離だから本当は酔い覚ましも兼ねて歩いて帰りたかったが、タクシーで帰ることにしよう。流石に遅い時間にお呼び立てしてしまうのは申し訳ない。ということで、その旨を伝える。
「たくひーでかえりまふ」
それならいい、とばかりに漸く頬から手が離された。控えめに言って、頬が千切られるかと思った。じんじんと痛む頬を擦りながら今度はわたしが消太さんをじとっと見た。
「躾ですか……」
「生憎そんな趣味はない」
ニヤっと意地悪そうな笑みを浮かべた消太さんを横目に歩き出そうとすると、わたしの手を消太さんが掴んで止めた。振り返ればその顔から意地悪さは消えて、至って真剣な表情でわたしを見ている。
「こういうときこそ、俺を頼るんじゃないのか」
わたしは息が止まるような心地がした。本当に、消太さんの言うとおりだ。けれども消太さんに頼りたい気持ちと、申し訳ない気持ちとがせめぎ合う。大好きだからこそ、大好きな消太さんに迷惑をかけたくない。マイクからも前に甘え下手だなんて言われたけど、全くもってそのとおりだと思った。
何も言えないでいるわたしに、消太さんは言葉を続ける。
「勿論、出動要請があったらそっちに行かなくちゃならない。そんときはタクシー使って帰れ」
「でも、わたしの家に送った後帰ったら消太さん寝るの遅くなっちゃいますよ」
「それなら俺の家に泊まればいいだろ」
きっと、わたしの心を読むのが得意な消太さんには、わたしが消太さんの言葉を聞いてどんな気持ちになったのか、全てお見通しだったに違いない。
「……泊まります」
気がつけば先程までの葛藤が嘘のように、わたしは魔法にかけられたかのようにそう言っていた。
+++
そうして迎えた久々の同期会は大盛りあがりだった。ちなみにここでいう同期とは同じ事務職の人たちのことで、事務職だけでもそれなりの数がいる。ヒーローを養成するための最高峰の教育には、それなりの敷地と、それを管理し運営していくためのマンパワーが必要なのだ。そして同期の殆どが同じ雄英高校出身で、同級生だ。学生時代から今日に至るまで、決して少なくない時間を過ごしてきたため、気心の知れた大切な仲間たちだ。
幹事のわたしは最初こそみんな楽しめているかとか、お酒は足りてるかとか気を張っていたものだが、ひとつの話題が降り掛かったことにより、見事にわたしの堤防は決壊した。
「名前ってさ、相澤先生と付き合ってるって本当?」
なぜそれを知っているのだと思ったが、毎日のように一緒に帰っていたら噂にならない方がおかしいとも思った。相澤先生からは二人の関係について隠さなくてもいいと言われているので、わたしは素直に認める。
「まあ、実は」
途端にわたしの周辺の席は大盛り上がり。歓声が湧き立った。そこからは根掘り葉掘り聞かれて、のらりくらりと交わしているうちに酔いが回り、同期会が終わり店を出る頃には真っ直ぐ歩くのが難しいくらいには仕上がっていた。
わたしは共同幹事をしている同期の男の子の肩を借りながら、夏の夜の生温い空気を感じていた。次の店はどうするか、飲み直すかカラオケに行くか、とまわりが盛り上がっているのを聞きながら、わたしは何か大切なことを忘れているような気がした。
「なんか忘れてる気がするなぁ。なんだっけなぁ」
独り言のように疑問が口から吐き出される。ぼんやりとした頭で思い出そうとするが、頭の中は靄がかかったように何も掴めなかった。
「俺への連絡じゃないか」
それだ! 突如後ろから降り掛かった声に、頭の中に広がっていた迷いの森から急速に靄が晴れていったのを感じた。
「あっ、そうそう! あいざわ……せん………」
そして靄のなくなった森の中に一人の男が現れた。その正体を確かめるために振り返る。そこにいたのは、夏の夜よりももっと色濃い黒と、そこから切り取るように巻かれた白を纏った相澤消太その人であった。周りの同期たちも突然の消太さんの登場にどよめいている。まさかの展開にわたしは惚けた声しか出なかった。
「エ……スパー?」
「帰るぞ」
空いている方の腕を引かれてわたしは消太さんに連れて行かれる。歩きながら消太さんは、
「どうもお世話になりました」
と周りに言ったので、わたしも「おやすみなさい」と通り過ぎていく同期たちに挨拶をする。同期たちの好奇心に満ちた視線と、見送りの言葉を聞きながらわたしたちはその場を後にした。
駅前の喧騒から離れて静かな住宅地に入ると、腕を掴んでいた消太さんの手はわたしの手に絡められて、ぎゅっと握られる。そして消太さんが言った。
「スマホ。着信気づかなかったのか」
「着信?」
慌ててスマホを見れば、消太さんからの着信とメッセージがいくつも並んでいる。わたしは正直に申し上げた。
「気づきませんでした。すみませぬ」
「ったく。お前な、なんかあったんじゃないかって心配しただろうが」
「うう……ごめんなさい」
「言い訳はあとでじっくり聞いてやる」
「はあい」
まるで頭の中が棒でかき混ぜられているかのように、ぐるぐると回るのを感じながら歩いていくと、不意に足がもつれて転びそうになる。短い悲鳴をあげた瞬間には華麗な身のこなしで消太さんはわたしの前に躍り出て身体で受け止めてくれた。短い嘆息が聞こえた後、
「危ないから乗れ」
と言って消太さんがわたしの目の前でしゃがみこんだ。普段のわたしならば躊躇うところだが、そこは酔っ払い。わたしは吸い寄せられるように消太さんの背中に乗った。
「合体!」
「静かにしなさい。……酒クセェな」
首に抱きつくと、消太さんは軽々立ち上がって歩き出した。さすがプロヒーロー、鍛えられている。今だけは、わたしだけのプロヒーローだ。消太さんが歩く度に揺れが背中から伝わってきて、心地が良い。
わたしは消太さんに頬擦りをすると、無精髭がじょりじょりと当たって消太さんを感じる。あぁ、好きだ。大好きだ。頭の中が消太さんへの気持ちで一杯になる。
「消太さん好き〜」
「はいはい。……さっき、男と肩組んでたよな」
ぼんやりとした頭で思い返す。共同幹事の同期のことだろうか。確かに先程、店先で肩を借りていたような気がする。
「うんー。でもあれは、仲良しの同期だから」
「前に自販機の横で喋ってたのもアイツだよな」
自販機? 前に? そのキーワードをもとにじっくりと記憶を掘り返してみれば、思い当たる節があるような気がした。あれは確か、今回の同期会の幹事の話を持ちかけられたときのことだ。言われてみれば確かに、あのとき一緒にいたのも彼だ。消太さんの記憶力の良さに感心しつつ、同意を示した。
「うん、そうです。よく覚えてますねえ。すごいですねえヨシヨシ」
そう言って今度は消太さんの頭を撫で付けると、指の間を癖のかかった柔らかい髪の毛が滑る。普段は撫でられる方だから新鮮だ。対する消太さんは不快そうに舌打ちをした。
「酔っ払いめ。帰ったら覚えてろよ」
「忘れちゃいますな」
「安心しろ。酔っ払いには何言ったって無駄だからな。身体で教える」
「安心とは」
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季節感!!!!(アップした日、冬至)
