隣ですやすやと寝息を立てる彼女の姿を見下ろして、相澤はわずかに口角を上げる。いつも一人で寝ているベッドに今日は二人が並んでいる。それはなんだか不思議な光景だった。シングルベッドに二人なんて狭くて仕方ないのに、悪くはないと言ったところだ。隣から伝わってくる体温は温かくて、微睡に浸かっていくような心地よさがある。
自分の隣に当たり前のように彼女がいることをたまに不思議に思うこともあるが、かつて当たり前ではなかったことが当たり前になったことをその度に噛み締める。
忘年会のあの日、彼女の有無について問われた時、『そんな非合理的な存在はいらない』と言った。あの時は確かにそう思っていた。教職者であり、プロヒーローである自分にとって、彼女という存在がプラスに働くことはないと思っていたからだ。それが今や、彼女のひとつひとつが原動力となって、相澤を動かしている。なんとも不思議な因果だ。
そうして相澤の思考は、今に至るまでの道辿る旅へと向かう。
始まりは高校時代。彼女のことはその頃から認知していた。山田が可愛い後輩だ、と目をつけていて、通りすがる度に目で追って、格好をつけていたからだ。くだらない、と思いながらも、彼女のことはおかげさまで認知せざるを得なかった。
彼女は普通科で、ヒーロー科のような華やかさはないものの、だからこその魅力があった。らしい。
『男っつーのは元来、守りたい生き物なんだぜ!』
なんて、高校生の山田少年が言っていた。
だが彼女と直接関わり合ったことはなかった。廊下ですれ違ったとか、視線が混ざり合ったりとか、食堂で近くに座ったりなんてことはあったが、それでも二人が直接的に混ざり合うことはなかった。同じ学校の先輩と後輩、そしてそれを隣で見ている自分。ただそれだけだった。
それから時は流れ、雄英高校で教鞭をとることになり、彼女も事務として働いていることを知った。同じ学校に勤める教師と事務員、ただそれだけだった。
ところが去年の年末に開かれた忘年会で席が隣同士になった時から少しずつ変わっていった。彼女は話題を探しては色々と振って、自分はただそれに答える。暖簾に腕押しだっただろうに、それでも熱心に話しかけられて、変わった女だ、と失礼ながら思った。
今から思えば、あの日あの時隣同士になったときから、砂時計の砂が止めどなく落ちて積もっていくのを止められないのと同じように、少しずつだが確実に近づいていったのだろう。そして砂時計を動かしたのは、彼女の力だ。彼女の行動が相澤を引き寄せたのだ。
忘年会の日から、二人の距離は少しずつ縮まっていった。彼女と重ねる時間は、縁側で日向ぼっこしながら猫を撫でているような穏やかさで満ちていた。だからだろう、一人で過ごす時間の快適さの裏で空虚な寒さを感じるようになった。それはきっとひだまりの暖かさを知ってしまったからだ。
そんな日々を過ごす中で、彼女が不審者に襲われた。その時、決死の思いで連絡をした相手が相澤だった。彼女から“救けて”と言う電話がきたときに、相澤は目の前の景色から色が消えて、心臓は痛いくらい早鐘を打っているのに、指先から徐々に感覚が消えていくのを感じた。
白んでいく頭の片隅で、“彼女を絶対に救ける”という思いが種火となり、瞬く間に烈火の如く大きな思いとなった。気がつけば走り出していた。
無事に彼女を守りきり、彼女の体温をこの手で確かめたとき、“彼女を絶対に失いたくない”と強く願った。それはプロヒーローとしてではなくて、先輩としてではなくて、それらをすべてひっくるめた相澤消太の個人としての想いだった。
それから仕事終わりは彼女のことを送っていく日々が続いた。その中で彼女から想いを伝えられた時、本当のことを言えばとても嬉しかった。その感情の赴くままに行動ができたらどれほど良かっただろう。
だが相澤の中の芯が崩れることはなかった。自分は教職者で、プロヒーローで、一番大事なときに傍にいてやれない男だ。彼女のことを大切に思うからこそ、彼女の隣にいるのは自分では駄目だと思ったのだ。
だから、相澤は己の感情に蓋をした。
彼女の告白を断ったあと、はっきりとした拒絶の言葉を告げられた。
『本当に。―――大丈夫です、送ってもらうのは辛いです』
彼女が、自分との間に超えてはならない赤い線を引いたのだ。その線の先は不可侵領域。その線を引かれることは何となく分かっていたはずなのに、いざ引かれると相澤は歯痒い気持ちになった。
だが全ては当然の帰結なのだ。彼女が求めていることに、相澤は応えられない。それならばこれ以上二人でいることはできない。分かっているのに、胸がジリジリと焦がれていくのを感じた。
そして二人は、以前のような関係に戻った。ただの職場の同僚。それ以上でも以下でもない。それを望んだのは自分なのに、彼女から距離を感じるたびに、身体の中が虚無で満ちていくようだった。
そんな相澤を山田は呼び出して、ずけずけと核心をついてきた。さすがは腐れ縁というところか、痛いところを遠慮なく突いてくる。そうして山田は相澤が見ないようにして隠していたものたちを無理やり引っ張り出して、目の前に並べ立てたのだ。
『もしもよ? イレイザーが嫌な気持ちになったとしたら、それってやっぱり、気になってるってことじゃねーの、って思うわけよ。アンダスタン?』
山田の言う通りだった。そうだ、いつしか相澤は名前のことを憎からず思っていた。彼女と過ごすあのひだまりのような時間にいつまでもいたいと願ってしまった。
それを確信したのは彼女のことを不審者から守った時だった。彼女のことを守りたいと強く思ったのは、プロヒーローの性分だけではなくて、一人の男としての庇護欲が確かにあった。分かっていた、分かっていて気づかないふりをしていた。
しかし、それでも相澤は目を瞑った。
頑なだった。けれど、どうしても自分が隣にいることで彼女が幸せになる未来が見えなかったのだ。
それから数日が経ち、昼休みに自動販売機で飲み物を選んでいる時だった。ふと視界に彼女が入ってきた。彼女は自動販売機の横で男と二人で喋っていて、相澤には気づいていない。彼女の表情は相澤に見せる表情よりも幾分気の抜けた楽しそうな表情だ。そのことから、喋っている相手との仲の良さが伺えた。途端にちりちりと焦げ付くような痛みが胸を襲うが、それは無視する。
スイッチを押して飲み物を取り出したそのときだった。昼休みの学生たちの喧騒を潜り抜けて、やけに鮮明に二人の会話が聞こえてきた。
「大丈夫、名前はあの頃のままぜーんぜん変わってないから。ずーっと可愛いまま」
男の言葉だ。瞬間、相澤の中に急速に膨れた感情で胸が苦しくなった。
彼女のことを下の名前で呼び、更に可愛いと誉めそやしている。会話の内容から、昔からの知り合いなのだろう。自分の知らない名前のことを知っている男が、親しげに話している。相澤には関係のない話であり、気に止めるようなことではない筈なのに、男のことが無性に気になって、何もかもが神経を逆撫でするようだった。
その感情の名は、独占欲だった。
「みんなも変わってないと思うけど。ってか絶対思ってないでしょ」
彼女が明るい声で答える。相澤には敬語を使うので彼女のなんの飾りのない言葉遣いがやけに新鮮で、それがまた相澤の中の独占欲を膨らませる。その顔は夏に咲く向日葵のような眩しい笑顔で、相澤の胸が鷲掴みにされたかのように鈍く痛んだ。
彼女の想いを拒絶した時から、彼女が他の男と道を歩いていくことは分かっていたはずなのに。どうしてか相澤の中でそれが抜け落ちていたようだった。そしてそのことに気づいた瞬間、どうしようもなく彼女のことを求めている自分がいた。何度も見ないふりをして、気づかないふりをして、蓋をした感情は、こうして再び相澤の目の前に現れた。目を瞑っても、逸らしても、もうその感情は消えてくれなかった。
そして気づいた。自分は散々言い訳を並べ立てて大きな壁を作り、彼女と向き合うことを、大切な存在を作ることを避けて己の中にじっと閉じこもっていた。切って落とせない大切な一部となってしまえば己の弱さになると思ったから。けれど逆だ、本当は全部知っていた、解っていた。本当に弱いのは、全てを拒絶して閉じ籠っていた、独りよがりの自分だ。
怖かったのだ。自分が自分でなくなることも、彼女がかけがえのない存在になって、それを失ってしまうことも。失う辛さが怖いなら、初めから何も抱えなければいいと思っていた。
けれどそれは違った。彼女はもう相澤の胸の中に棲みついていて、追い出すことができなくなっていた。既に欠けては困る相澤の一部になっていたのだ。そしてそれは弱さなどではない。彼女の眼差しが、言葉が、存在が、相澤に力を与えて、相澤を強くする。彼女を守るために、強く在りたいと願うからだ。
ーーー自分は教職者で、プロヒーローで、一番大事なときに傍にいてやれない男だ。
だから何だ。
ーーー彼女のことを大切に思うからこそ、彼女の隣にいるのは自分では駄目だと思ったのだ。
だから何だ。
彼女を守るのは、俺しかいないだろ。
俺が、傍にいたいんだろ。
俺が、守りたいんだろ。
相澤の独善的なエゴだ。けれどそれが本音だった。理性で押さえつけられていた感情は、いつしか枷がなくなったかのように相澤の中に満ちていく。自分で自分に驚くが、彼女が知らない男と話していて心が掻き乱されるくらいには想っているらしい。
大事なときに傍にいてやれないかもしれない。寂しい思いをさせることも、悲しい思いをさせることもあるかもしれない。それでも、彼女には申し訳ないが誰にも渡したくない。彼女の隣で、自分の手で彼女を守りたいのだ。
『男っつーのは元来、守りたい生き物なんだぜ!』
長い時を経て、深い記憶の底に埋もれていたかつての山田の言葉が不意に浮かんできた。
そうみたいだな、と胸の内で高校生の山田に語りかける。
自分の中でずっと燻っていた感情を認めてしまえば、憑き物が取れたように軽くなった。
彼女はずっと手を差し伸べてくれていて、相澤はそれを拒んだ。今度は相澤が手を差し出す番だ。もう間に合わないかもしれない。その手は他の誰かと繋がれているかもしれない。けれどもしも名前がこの手を取ってくれるのならば、固く握った手は決して離さない。
そして二人の気持ちが繋がった。幾分遠回りをしてしまったが、決意を固めるために相澤には必要な時間だった。それくらい真剣に己の気持ちと、それから彼女と向き合ったつもりだ。だからこそ、この決意が揺らぐことはないだろう。
だから名前も、相澤の殻をこじ開けて、“非合理的な存在”になったのだから、責任を取ってそれを全うしてもらおう。離してやるつもりは毛頭ない。
彼女が隣にいることが当たり前になったが、この当たり前はたくさんの決意と想いの上で成り立っている。その軌跡と奇跡に感謝しながら、相澤は当たり前がずっと続くようにと柄にもなく考えた。
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思考の旅を終えた相澤は、肺の中の空気を入れ替えるように息を吐くと、自身の身体もシーツと毛布の間に滑らせて、彼女の寝顔を見つめる。幸せそうな顔で僅かに開いた口、呼吸に合わせて一定のリズムで上下する胸。どんな夢を見ているのかわからないが、きっと楽しい夢を見ているのだろう。
相澤は毛布の中で手を滑らせて、そして目的のものを見つけて握りしめる。繋いだ小さな手から、温かい体温が雪崩れ込んできた。
確証はないけれど、今日はよく眠れそうな気がした。
