調査兵である以上、壁外で人知れず巨人に食べられる、などということはとうの昔、それこそ入団を決めたその時に覚悟をしている。しかし、覚悟しているからと言って怖くないわけではない。
何度だって食べられかけたし、目の前で仲間を食べられたことだってある。ナマエにもその順番が回ってきたのだというのだろうか。
目の前で巨人が大きく口を開けている。身じろぎひとつも許してくれないほどの力で巨人の手に拘束されていて、恐怖はとうに振り切れたが、やはり今からこの巨人に咀嚼されるのかと思うと、怖い以外何も考えられなかった。
しかし生き延びるためには考えなければ、どうする? 噛み千切られないように体内に侵入し、ブレードで項側から突き破るか? しかしブレード自体は薄いため突き破るには相当な力と勢いがなければ難しいだろう。ではほかに方法は? もう、食べられることしか選択肢はないのか?
「ッ離してよ!!」
巨人はナマエが言った言葉など意にも介さず、ナマエを掴んだ手をどんどんと口に近づける。真っ白になった頭の片隅で、やっぱり巨人との意思疎通はできないんだな、と冷静に思う。
「うわああああああ!!!」
突如人の声が聞こえてきて、次の瞬間にはナマエの身体は落下感に見舞われ、やがて地べたに身体を打ち付けた。痛い、と思う間にナマエを掴んでいた巨人の手から力が無くなり、拘束が解けた。見れば手首のあたりで切り裂かれた巨人の手が草むらに転げていて、切り口から蒸気を上げて消えて行っている。
見上げれば、ひとりの調査兵が物凄い勢いで巨人を切り刻んでいる。腱を削ぎ、倒れた巨人の目を潰し、それだけでは飽き足らず、顔中の筋肉を切り刻んでいる。この方は命の恩人だ。そしてナマエは、この助けてくれた調査兵の正体に一つ思い当たる節があった。
「ねえ、痛くないんでしょ? だったらどれだけ傷つけたって構わないよねえ! あははっ! お前はダメだ、お前は細切れになるまで切り刻んで、最後の最後に項を削いであげるよ。どれだけ刻んでも身体を修復できるのかとか、修復に至るまでにどれくらいの時間を要するのかとか気になるけど、お前は私の可愛い被検体にはなれない! ばーか!!」
巨人に叫びながらどんどんと宣言通りに全身を刻んでいく。その調査兵は、間違いなくハンジ・ゾエ分隊長だ。ナマエはハンジのことだったらちらっと見ただけでも判別できる。好きな人はほかの人とは違う、何かキラキラしたオーラがあるのだ。それを五感で感じる。
なんと、ナマエは密かに慕っているハンジに命の危機を救ってもらったらしい。
助かった―――と呆けながらハンジが巨人を切り刻んでいる姿を見ていると、後方から男の声が聞こえてくる。
「ハンジ分隊長~~~~~!!!!」
声のした方を見れば、馬に乗った副長のモブリットが、もう一馬率いて駆けてきている。ナマエはモブリットの登場を受けて、漸く呆けて座り込んでいたことを思い出し、立ち上がった。
モブリットは馬から降りると、慌ててハンジのもとへ駆け寄った。モブリットが率いていた馬は、ナマエの馬と酷似していた。試しに愛馬の名を呼べば此方を見て、頭を垂れる。やはり、ナマエの馬だった。生きていてよかった、と嬉しくなり、たてがみを撫でつける。
「何をしてるんですか分隊長!」
倒れた巨人を切り刻むのに夢中だったハンジは漸く顔を上げた。その顔は巨人からの返り血を浴びていて、ゴーグルについた血を軽く拭い声の主を確認すると、再び巨人に視線を戻す。
「やあモブリット、見ての通り、巨人を倒してるんだよ」
「巨人を倒すのならば、項を削ぐだけでいいのでは?」
「それじゃあ足りない。こいつはそこのナマエ・ミョウジを食べようとしたんだ。相応の報いを受けないと」
巨人は見るも無残な程切り刻まれていて、その様を改めて目の当たりにしてぞっとした。ナマエを食べようとした報いでこんなズタズタにされているのだとしたら、先ほどまで自分を食べようとしていた相手にも関わらず同情をしてしまう程、無残な有様だった。
「……ミョウジ、君の班は?」
ハンジを見ていた表情のままナマエに視線をやり、モブリットは問う。
「ハッ! 奇行種が現れ、退治はしたものの、班は壊滅状態です。わたしは馬とはぐれ、捜しているところで通常種の巨人に捕まってしまい、ハンジ分隊長に助けていただきました」
「そうか……」
モブリットに報告をし終えると、どちらともなくハンジへと視線を向ける。首を切断し、その首を蹴り飛ばしたところだった。空き缶が蹴られて舞うように、軽やかに巨人の頭は弧を描いて舞った。
ハンジは漸くブレードを収めると、ナマエやモブリットのもとへとやってきた。
「無事かい? ナマエ」
「お、お陰様で無事です。ありがとうございました」
怒ると怖いとは聞いていた。普段、明朗なイメージがあるからこそ、怒った時の怖さが増すのだとは思うが、そのギャップをまだ呑み込めずにいた。礼を述べて勢いよく頭を下げると、頭上から「それならよかったよ! 顔を上げて」と声が降りかかった。言われた通り顔を上げれば、いつものハンジの顔だった。
「実は私も奇行種を見かけたから追いかけてきちゃってね。恐らく、ナマエたちの班が倒した子だと思うんだけど、そう言う訳で隊列から離れてしまってるんだ。ひとまず私たちと一緒に行こう」
「この馬はミョウジの馬か?」
「はい、わたしの馬でした。何から何まで本当にありがとうございます、助かりました」
多少の恐怖はあるも、間違いなくハンジは命の恩人で、ナマエのヒーローだった。ハンジを慕う気持ちが、より強くなった。
その後は巨人に襲われることもなく、壁外調査から帰還することが出来た。やはり今回も多大の犠牲が出たため、班の再編や班員の見直しが行われた。その際の人事で、ナマエはハンジの率いる第四分隊に所属することになった。
ナマエはハンジのことを慕っていたため嬉しい反面、あの時の激昂したハンジのことも脳裏にあり、少し怖くもあった。と同時に、一調査兵の危機に対してあそこまで怒ってくれるハンジに対して、上官としての信頼はとても厚くなったのは確かだ。
「あの時はヒーローかと思いました。し、初めて怒っている姿を見ました」
第四分隊に配属され、そしてハンジと恋人同士になってから何度目かの壁外調査前夜。
分隊長はとても忙しい。訓練だけでなく会議、支援者との交渉、更にハンジは研究者としての仕事もあるため、巨人の実験、対巨人兵器の開発などもやって退ける。睡眠時間や休暇を犠牲にして仕事をしているため、徹夜も辞さないわけだが、壁外調査前夜だけは必ず寝るようにしてもらっている。壁外調査は肉体を使う上に、神経をすり減らす。きちんと睡眠をとって臨まなければ、それが原因で命を奪われる危険性もあるからだ。
だから、今夜はハンジの部屋で共に夜を過ごしていて、今は同じベッドで布団にくるまっていた。ふと“あの時のこと”を思い出してその話をする。
「そんなに怒ってたっけ?」
「かなり怒ってたように見えました。でも、一調査兵の危機に対してあそこまで激昂してくれるなんて、ハンジさんはすごい部下想いなんだなって思ったんです」
「はは。部下に対してと言うより、ナマエだからって言うのが大きいよ」
「そうだったんですか?」
予想外の回答に、ナマエは目を丸くする。
「ナマエが食べられかけているのを見て、そいつのことを許せないって思ったし、食べられるかもしれないと思ったら肝が冷えた。勿論、誰が危機に瀕していても多少怒るとは思うけどね。ナマエを失うことだけは絶対にしたくなかった。だから、あの後すぐにエルヴィンにナマエを配属するように言ったからね」
あの時もう、私はナマエを気になっていたし、私のものにしたかったからね! と事もなさげに言ってのけるので、ナマエは再び驚く。まさかそんな昔から自分のことを好いていてくれたなんて、全くの予想外だし、気が付かなかった。
「……全く気づきませんでした」
「ナマエは能力的にも私の班にきてほしかったしね! エルヴィンも賛成してくれた」
嬉しいのと、驚愕とが共存していて、自分でもどんな表情をしているのか分からない。ナマエも第四分隊に配属してもらえるようにかなり努力はしたため、その努力は報われたということか。巨人を討伐するために能力を高める人は数多くいても、捕獲するための能力を磨く兵士はそこまで多くない。上手に巨人の自由を奪い、身動きを封じることは時に倒すよりも難しい。見本も正解も分からないまま、ただひたすら闇雲に進んできた。
「思い出したらまた怖くなってきた。明日も絶対に私の傍から離れないでね」
ぎゅっと横から抱きしめられる。ハンジが随分前から自分のことを好いていて、危機に駆け付けてくれて、そして一緒の班になることを所望してくれた。あの時巨人に襲われなかったらこんなことにはならなかったかもしれない。ハンジのぬくもりを感じながら、過去に思いを馳せ、そして今の幸せをかみしめる。
「ハンジさんこそ、勝手に奇行種のお尻追いかけていかないでくださいね」
「あははっ、追いかけるときは一緒だよ」
