オールマイトが雄英の教師として赴任してくるらしい、という噂は、まだ公にはなっていないものの、職員の間ではほとんど確定に近い形で囁かれていた。
―――そんなまさかね。でも万が一、いや億が一、雄英に赴任してきたら、死ぬ間際まで自慢しますよね。オールマイトが後輩として入ってきたんですよって。あはは。
なんて同僚たちと言っていたら、ある日の朝礼でオールマイトが来年度から赴任することが正式に発表された。途端に執務室では、悲鳴のような歓声が上がった。わたしもそのうちの一人だ。だってあのオールマイトですよ、あのオールマイトが同僚になるなんて。しかも名誉職とかでなくて、本当に教職員として任用され、教鞭をとられるとのことだから、わたしも接することがあるかもしれない。そんなことを考えて、暫くはオールマイトのことばっかり考えていた。
当然、機密事項なので、このことは家族にも友人にも絶対に漏らさないように、箝口令が敷かれた。だがわたしたちの場合は、お互いが雄英高校に勤めているため話は別だ。
オールマイトのことが発表された日、お昼休みに入った瞬間連絡を入れた。
『消太さん、今日お家泊まっていいですか』
『いいよ』
その日の夜、消太さんの家でわたしは持て余していた感情を思う存分発散した。
「どうしましょう、オールマイトと同じ校舎なんて……!」
「どうもしなくていいだろ」
対する消太さんは大した感慨もなさそうだ。消太さんらしいと言えば、消太さんらしいけれど。
しかし、次の春……もっと言えば、数十日後には同じ校舎にあのオールマイトがいて、生でオールマイトを見る―――いや、寧ろ浴びることができるということだ。一緒に写真を撮ってもらいたいし、握手もして欲しいし、サインも欲しいし、生『私が来た!』を聞きたい。別にオールマイト推しと言うわけではないが、あのオールマイトだ。推しでなくても、国民、いや世界中の誰もがオールマイトを目の前にしたら虜になってしまうと言うものだろう。それが世界的ヒーローというものだ。
などと考えていると、消太さんがじいっとこちらを見ていることに気付いた。
「どうかしましたか」
「別に何も」
消太さんはわたしの後ろに回り込むと、大きな身体で包み込むように抱きしめた。
「え、え、なんですか」
「別に何も」
そして首筋に顔を埋めた翔太さん。え、絶対何かあるよね。まさか、オールマイトのことではしゃいでいるのが気に食わない、とか?
回された腕に手を添えると、「消太さん」と呼びかける。
「オールマイトのことは好きだけど、消太さんへの好きとは全然違うからね」
わたしの後ろに消太さんがいるものだから、目の前に誰もいない状態で話すのはなんだか変な感じだ。なんて思っていたら、急に首筋に生暖かい感触が這わされて、わたしは変な声をあげてしまう。
「ひぁッ!」
消太さんは舌で首筋を舐めたのだ。そしてそこに唇を押し付けて、ちゅっと吸い上げた。
「ちょ、やめ……て、よ」
「やなこった」
大きな甘えん坊が、抱きしめる力を強くする。耳元で聞こえる声があまりにも妖艶で、腰から砕けてしまいそうだ。それを見透かしてか、消太さんは素早くわたしをお姫様抱っこをすると、スタスタ歩いていく。
「しょ、たさん……? どこいくの?」
「寝室」
お姫様抱っこされた時のアングルで見る消太さん、新鮮だなぁ。なんて思いながらも尋ねれば、消太さんはまっすぐ前を見据えながら、キッパリと言った。寝室へと連れ込まれると言うことは、つまりそういうことだろうか。瞬間、体中を流れる血液が熱をもったみたいに熱くなる。
「でもまだお風呂入ってないよ」
「一緒に入る?」
「は、恥ずかしいです」
「じゃあ、いいよな」
「でも汚いよ……!」
「汚くないよ。全身にキスしてもいい」
「結構です!」
そのあと消太さんは宣言通り、至る所にキスを落とし、あるいは舐め上げ、自分の匂いを擦り付けるような交わりをした。まるで猫が嫉妬してるみたいだ、なんて思いながら、そのさながらマーキングのような情交に溺れていった。
+++
仕事は年度末に向けて苛烈さを極めていた。この時期は生徒たちの進路ごとのサポート、進級準備、入試、卒業式、入学式準備などなど、大切なイベントが盛りだくさんだ。当然、帰る時間も遅くなっている。
去年と違うことといえば、帰りは必ず消太さんと一緒に帰っていると言うこと。どうしても時間が合わない時は、タクシーで帰っている。
そしてこれには一波乱あった。最初の方、仕事が終わって消太さんに連絡すると、毎回同じタイミングで終わっていた。すごい偶然だな、なんて思ってそれ以上は深く考えていなかったのだが、それはどうやら偶然でもなんでもなかったのだ。マイクのうっかりでそれは判明した。
「この時期は色々立て込んでるしやっぱり忙しいよなァ。昨日なんて二十二時くらいにイレイザーが目薬切らしてイライラして、大変だったぜ」
マイクと廊下で立ち話をしている時だった。マイクがポロリと零した言葉に、わたしは違和感を感じて脊髄反射の勢いで言葉を発していた。
「えっ……昨日は相澤先生と十九時には校舎を出たんですが」
「あっ」
やられた、消太さんの合理的虚偽! と一瞬で合点がいった。一度わたしと一緒に帰った後、雄英に戻って仕事をしていたのだろう。マイクの顔がどんどんと青ざめていく。
いつだってそうだ、消太さんは優しさを悟らせない。香りひとつ残さないから、きっと今までだってわたしが気付けていない優しさがたくさんあるはずだ。こうして気づくたび、わたしの胸はたまらなく苦しくなって、どうしようもなく好きだと言う気持ちでいっぱいになる。
どれだけわたしは消太さんの見えない優しさに守られてきたのだろう。そしてこれから守られるのだろう。わたしも同じ分だけ、返せているだろうか。
「マイク、ありがとうございます」
「俺絶対イレイザーに怒られるヤツ!」
「マイクのことは怒らないでくださいって言いますから」
寧ろ、わたしとしては感謝したいくらいだ。こうして気づけたのだから。
それからは、消太さんの帰りが遅くなりタイミングが合わない時はタクシーで帰るので、どうか、何卒、そのまま仕事を続けてください。と土下座する勢いで頼み込んで、渋々ではあるものの認めてもらった。
こんな具合に、時々消太さんは驚くほど非合理的だ。そしてその理由にはわたしがいたりする。そのことについて申し訳なく思うけれど、それ以上に胸が嬉しい気持ちでいっぱいになって、心臓がきゅうきゅうと押されて幸せな苦しさで包まれる。
わたしは念を押して消太さんに言う。
「マイクのこと、怒らないでくださいね」
「善処するよ」
+++
そして今日の仕事もなんやかんやで最後の一人になってしまった。今日は消太さんと一緒に帰ることになっていた。
事務室までお迎えに来てくれた消太さんと一緒に職員通用口から外に出れば、世界は美しい夜のカーテンに包まれている。そこに敷き詰められた星々はいつも変わらずそこにいてくれて、冬の澄んだ空気がより一層星を輝かせていた。
校舎をぐるりと回って正面玄関までいくと、前方に広がる海の方から生暖かい風がやってきた。ふわり、風が届けたのはかすかに潮の香りが混じった春の匂い。三月に入ってからはツンとした冬の匂いに、花や緑を感じる柔らかな春の匂いが時折混じるようになってきた。
もうすぐわたしがフラれた日から一年が経つ。あの日もこうやって、月や星に見守られながら消太さんにフラれたのだ。
「もうすぐ一年だな」
消太さんが立ち止まってそんなことを言うので、わたしも立ち止まり、隣の消太さんを見上げる。消太さんはポケットに手を突っ込んで夜空を見つめていた。
「ビックリした、同じこと考えてました。フラれた記念日からもうすぐ一年」
ここはまだ学校だけど、もう残っているのはわたしたちぐらいだから、気持ちも口調も仕事モードから徐々にプライベートモードへと切り替わっていく。
「そこは付き合って一年だろ。なんだよフラれた記念日って」
消太さんの視線が、わたしに向かう。春風みたいな柔い微笑み。
「あの日消太さんにフラれたから、今こうして隣にいられるわけですし。だから、わたしの人生を変えた記念すべき日です」
星と星がぶつかり、砕けて、閃光を放って何かが生まれるように。
「俺の人生も変えたな」
ぶつかって、砕けてよかったんだ。だからこうして、新しい星になれた。
消太さんは微笑みを浮かべて、言葉を続けた。
「こんな俺を好きになってくれてありがとう」
その顔があまりに優しくて、わたしは何もかもを忘れて消太さんに見惚れてしまいそうになる。
「……それはわたしの方です。わたしのことを好きになってくれてありがとうございます。諦めないでよかった」
「名前は、ずっと俺を好きなんだな」
「はい。大好きですよ」
自分で聞いたくせに、わたしが大好きだといえば、驚いたように目を見開いて、また目を細める。
「今日まで一緒にいてくれてありがとう」
「え、な、なんですかわたし、フラれるんですか……?」
急速に雲行きが怪しくなってきたので、わたしの心臓が早鐘を打つ。今日まで、って。明日からは一緒にいられないのだろうか。
消太さんはおもむろに跪いた。見慣れない光景、見慣れないつむじ。戸惑いながらも、まるで大きな黒猫が座っているみたいだ、なんて思っていたら、ポケットから何かを取り出して、それをわたしの前に差し出した。
「俺と結婚してください」
手のひらに収まった小さな箱の中、月光を受けて光り輝くそれは指輪で、真ん中でダイヤモンドが煌めいている。一体何が起きているのだろう。あまりに唐突で、わたしの思考は追いつかない。
「けっ……こん?」
心臓が早鐘を打つ。結婚? 視界がぼやけて、瞬きするとぽろりと雫がこぼれ落ちた。頭より先、身体の方が理解したみたいで、涙はぽろぽろとこぼれ続ける。わたしは、プロポーズをされているのだろうか。
涙でぼやけた視界で、消太さんが立ち上がる気配がした。やがて目元に柔らかな感触。どうやらハンカチで抑えてくれたらしい。とんとんと涙を拭われると、視界が幾分クリアになった。
消太さんの瞳、ブラックホールみたいな引力を持ったそれがわたしを包み込むように見つめている。
突然のプロポーズに、堪らずわたしは尋ねる。
「いいんですか? わたしで」
「名前と結婚したいからプロポーズしたんだろ」
さも当然みたいに消太さんは言ってのけ、柔らかく微笑んでいる。
「でもわたしたち、まだ一年くらいしか付き合ってないし、わたし、結構面倒くさい女ですよ。結婚して、やっぱ思ってたのと違うとか、あるかもですよ」
この幸せが壊されるのが怖くて、先に自分で予防線を張ってしまう。だって怖いじゃないか、やっぱりごめん、違ったみたいだ、とフラれるなんて。そしたらわたしは、立ち直れない。
「そんなのお互い様だろ。俺だって、自分で思うよりも自分が結構面倒な男だって最近気づいてウンザリしているところだ」
「そんなことないです。消太さんは素敵です、こんな素敵な人、ほかにいません」
「あのな、同じなんだ。俺だって同じこと思ってる。俺にとっては、こんな素敵な人は名前しかいないんだよ。全部ひっくるめて、名前じゃなきゃ駄目なんだ」
ぐっと喉の奥に力が入った。消太さんの声は諭すような、子どもに絵本を読み聞かせるような、そんな優しいものだった。
わたしはその手を取っていいのでしょうか。優しくて、思慮深くて、気がつけばひとりでたくさん抱えてしまおうとするその手を。
「何もすぐ入籍をしようってわけじゃない。一年後、名前の気持ちが変わらなければ入籍しよう」
わたしの気持ちが変わるわけがない。この先どんなことがあったって、それだけは変わらない。だからきっと、一年後も笑ってこうやって言うに違いない。
「変わるわけ、ないじゃないですか」
だってこんなにも、好きが積もり続けている。離れられない理由のひとつひとつが一輪の花だとしたら、それはもう花束になって、両腕で抱えきれないくらい増え続けている。
「だが、前にも言ったとおり、俺は大事な時にそばにいてやれないかもしれない。怪我して心配をかけることだってあるかもしれない。悲しませることもあるかもしれない」
付き合いたいと言われた時、告げられた言葉が蘇る。プロヒーローと付き合うということ。この一年、苦悩もしたけれど、きちんと受け入れている。大丈夫、わたしは―――わたしたちなら。たくさんの祈りを、願いを込めて幾度となく結び続けた糸は、解けることはないはずだ。
消太さんは言葉を続けた。
「それでも俺は、名前の唯一の存在になりたいし、俺の唯一の存在になって欲しい。わがままだって分かってる。だが俺に名前の一生を背負わせて欲しい、一番近くで守らせて欲しい。それが俺の願いだから」
わがままなんかじゃないよ、というわたしの言葉はしかし、喉を震わせることができなかった。消太さんが先に口を開いたからだ。
「名前を、愛してる」
瞬間、すべての音が消えた。風のさざめきも、遠くで車が走る音も、全部全部。
「愛してる」なんて言葉、曲でもよく歌われているし、恋愛漫画でもよく見る。使い古された陳腐な言葉だと思っていたけれど、好きな人から言われる「愛してる」は、こんなにも意味を持つものなのか。胸をついたその言葉に、体中の細胞が歓喜に打ち震えるのを感じた。
「……このタイミングでそんなこと言うの、ズルすぎですって」
「言うなら今だろ」
合理主義者の消太さんが、あえて言葉にしてくれたということ。涙腺を緩めるには十分すぎる事実で。一筋溢れた涙を拭って、消太さんをまっすぐに見つめる。
「言ってくれてありがとうございます。わたしも……愛してます」
言い慣れない言葉を舌に乗せたらなんだか恥ずかしくて、わたしははにかむ。想いのすべてを伝えられないと分かっていても、それでもわたしは今この瞬間、消太さんへの気持ちをできる限り伝えたいと思った。
相手の幸せを願わずにはいられない。降り注ぐ火の粉をすべて払ってあげたい。健やかな横顔をずっと、ずっと見つめていたい。―――こんな気持ちを愛と言わず、なんと言うのだろうか。
「……急に言うなよ」
気がつけばなんと、消太さんが、面映い顔をしているではないか。滅多に見られないその照れた様子に、わたしは得意げに口角を上げた。
「言うなら今でしょう?」
「……そうだな」
今日で地球が滅亡してしまっても、まあ仕方ないか。と思うくらいには消太さんから沢山のかけがえのない言葉をもらった。今際の際まで語ってしまいそうなほど、甘やかな夜の話。これから先、どんな夜が待っていても、この夜を思い出しては乗り越えていける気がした。
「指輪、もらってくれるか」
「いいんですか」
「うん。左手、出して」
先程までキーボードを打ち込んでいた左手。その左手薬指に消太さんが指輪をはめてくれた。ひんやりしていて、少し重い。
改めて、夢のようだと思った。わたしは今、大好きな人からプロポーズをされて、婚約指輪をはめてもらっている。でも薬指の慣れない感触が、これが現実だと教えてくれるようだった。
「きれいです……しかもぴったり」
婚約指輪は驚くほどわたしの薬指にぴったりはまった。
「入らないなんて論外だし、ブカブカなのをサイズ調整しに行くのも合理的じゃないだろ」
サイズ調整はよく聞く話だけど、それすらも非合理的だと言ってのける消太さんは、なんとも消太さんらしいと思った。
消太さんはわたしの頭を撫でて、そのまま抱き寄せた。
「とりあえずお義父さんに殴られる用意はしておくよ」
「あはは、ないですよ。むしろ、貰ってくれるんですかって大喜びです」
結婚すると言うことは、家族になると言うこと。それは、家同士の結びつきでもある。わたしの家族と消太さんの家族が出会い、そしてわたしたちは家族になる。なんて素敵なことなんだろう。
人生は思いがけないことの連続だ。少しの勇気と、強い思いが引き寄せる。わたしは消太さんの背中に腕をまわして、ぎゅっと抱きしめた。ありがとう消太さん、好きになってくれて、一緒にいてくれて、これからも一緒にいたいと言ってくれて。
春が近づいてきたとはいえ、まだまだ冬の気配は色濃い。冷たい風が頬を撫でたので、わたしたちはどちらともなく離れる。目が合って、微笑み合った。
「プロポーズがまさかの雄英高校とは思いませんでした」
「俺たちが出会った場所だからな」
消太さんが振り返り、雄英高校の校舎を見る。この世界を支えるヒーローがどっしりと立っているかのような大きく力強い校舎。よく磨かれた窓ガラスには今宵の月が映っている。
ここでわたしたちは出会い、別れ、巡り、こうして今、二人で立っている。
わたしはこの日の夜のことを、一生忘れないだろう。
「……帰るか」
「ですね」
どちらともなく手を繋いで歩き出す。おうちへ帰ろう。今は別々の家に帰るけど、その寂しさも今だけだ。それすらも楽しんでしまおう。
「そのうち一緒に住むか」
呟くような消太さんの言葉に、わたしは驚きを隠せなかった。
「やっぱりエスパーですか? 同じようなこと考えてました」
「まぁ順序的にそうなるよな。……色々あるかもしれんが、少しずつ合わせていこう。俺たちのペースで」
「そうですね」
誰かと一緒に住むって、不安なこともあるけど、今はワクワクしている。わたしたちは違う人間同士だから、ぶつかることもきっとある。でも、たとえこの先どんなことがあっても、握ったこの手を決して離さない。そんな今この瞬間の気持ちを忘れなければ、きっと大丈夫だ。
「もうすぐ春だな」
「今年はお花見しますか」
「花見の何がいいんだ」
「うわー、情緒ないなぁ」
「俺に情緒があると思ったか」
明日も、明後日も、一緒に生きていこう。そうやって日々を重ねて、一緒に年を取ろう。時に花を見て、時に星座をなぞって、わたしたちは同じ軌跡を描いていく。
祝福するかのように吹き抜けた風は、変わらぬ想いを乗せて季節を春へと押し進めていく。次の春も、その次の春も、隣にいられますように。
消太さんを見上げれば、同じタイミングで消太さんもわたしを見てくれて、目が合ったわたしたちは再び笑い合った。
