星と星との距離は、地球から見れば指でなぞれるくらいとても近いのに、本当はとても離れている。人の一生を何回繰り返しても辿りつかないくらい、途方もない距離だ。
消太さんとの距離を、少しずつ縮める日々。それは地球から見たら動いたかどうかなんて分からないくらいの微かな距離だけれど、わたしからしたら途方のない距離を一生懸命動いている。そうやって少しずつ近づいて、パズルのピースを集めるみたいに消太さんのことを知っていく。好きなこと、嫌いなこと、大事にしていること、興味のないこと、柔いところ、脆いところ。それらに出会うたび、消太さんのことをどうしようもなく愛おしく思うし、もっと知りたいと思う。好きが、降り積もっていく。
落ち葉が地面を彩り、踏みしめれば乾燥した葉の奏でる音が耳に秋を届ける。通り抜ける風に落ち葉が舞い上がればその風の冷たさに首を竦めて、変わりゆく季節を思う。もうすぐ冬が来て、そして今年も終わる。とはいえ年度で働いている人間にとっては一年の変わり目はそこまで重要ではないものの、それでも一つの節目で、区切りだ。
そんな、秋も深まり冬の気配が日毎色濃くなる今夜は、消太さんがうちに来て鍋パーティをする予定だった。大体消太さんの家で会うことが多いけれど、消太さんの家には鍋なんていうものはないので、今回はわたしの家で会うことになっていた。鍋の準備も完了し、いつきてもいい状態になっている。
よく煮えた完璧な鍋を見ていたら、不意にスマホが震えた。確認すれば消太さんからだ。今から向かうという連絡か、もしくは―――
『今から出動になったから行ってくる。申し訳ない』
出動要請。教師といえどプロヒーロー。ヒーロー事務所所属のヒーローたちと比べればそこまで多くはないものの、消太さんの『抹消』と言う個性の汎用性は高く、授業のない夜間や土日に出動要請がかかることは決して少なくない。特に夜は犯罪が起こりやすいため、寝入ったところにスマホが鳴ることもしばしばだ。そして今みたいに、出動することになったので予定がキャンセルになることも稀にあることだ。仕方ないとは言え、会えなくなってしまったのは純粋に寂しい。しかしこれだって覚悟の上で付き合っているのだ。わたしは返信を打ち込む。
『わかりました。お気になさらず。気をつけて行ってきてくださいね』
送信したのちに完璧な鍋を見遣り、息を吐く。けれど仕方がない。愛しいプロヒーローは、わたしだけのプロヒーローではない。みんなのためのプロヒーローだ。分かっている、分かっているけれど、寂しいものは寂しい。世の中のプロヒーローの彼女というのは、一体どんな気持ちで過ごしているのだろう。わたしの気持ちを言ったら、わかる! と共感してもらえるのだろうか。
ソファに座って煮込まれた白菜のようにくったりしていると、再びスマホが震えたのでぞんざいに見遣る。
『そんなに時間はかからないはずだから終わったら必ず会いに行く』
そして黒猫がヨシヨシと撫でてくれるスタンプが送られてきた。途端、きゅっと心臓が締め付けられる。こんな文面見たら、早く会いたくなってしまった。消太さんがうちにきたらまず、おかえりなさい。って言って、抱きしめよう。そして消太さんの大きな手で頭を撫でてもらいたい。
『待ってます、消太さん』
『ん。じゃあまたな、名前』
単純にも気を取り直したわたしは、チラチラと時計を気にしつつもいつも通りの生活を送る。まだかな、まだかな、と逸る気持ちとは裏腹に、日付を回っても消太さんからの連絡はなくて、何の通知もないスマホを見てはため息をついた。こんなにも時間がかかるのは珍しい。もういっそのこと眠ってしまって、消太さんが帰ってくるまで時間をスキップしたい。時間は有限で、無為にするようなことを消太さんは好まないだろうけれど、今何したって結局手につかないのは目に見えている。
わたしの心の真ん中には消太さんがいて、消太さんの不在によって、他のことを考える余裕がなくなるくらい大きく膨らんでしまっている。付き合いが長くなったらそんなこともなくなるのだろうか。あるいは、こういうことが多くなればなるほど心が慣れて、いつしか何も感じなくなるのだろうか。それは精神衛生的には良いのだろうけれど、寂しいことだと思った。
もういい時間になってきたので、寝てしまおうとベッドに入り込む。
「……おやすみなさい、消太さん」
わたしの声はひどく頼りなげで、明かりを消した夜の部屋の藍色に吸い込まれ、誰に届くこともなく消えていった。
それから浅い眠りを繰り返した。起きては自分以外の温もりのないベッドにため息をつき、スマホを見てまたため息をついて再び眠りにつく。そうしてとうとう朝日がカーテンの隙間から差し込む時間になった。
そんなに時間はかからないと言っていたのに、時計の針は随分と進んでしまっている。嫌にこびりつく不安が背中を這い上がってきて、普段ならまだ眠っている時間だけど、居てもたってもいられなくて起き上がる。
何か、あったのだろうか。考えたくもないのに、嫌な想像ばかりが頭をよぎって、物音ひとつしない静謐さをたたえたこの部屋でわたしの心臓の音だけが聞こえてくる。
スマホで事故や怪我の情報がないかニュースを見るが、そのどこにも消太さんの名前はなくて、束の間安心する。
そこでわたしはふと気づいてしまった。わたしは彼女だけれど、万が一消太さんに何かあって病院に搬送されたとしても、病院からはわたしに連絡がこないのだということを。わたしは消太さんの彼女だけれど、家族ではない。身内ではない人間には情報を開示できない。その事実に、胸が軋んで痛みを訴える。
消太さんの確かな存在になりたい、とこんなにも強く願ったのは初めてだった。彼女だって特別な関係だが、所詮は他人。何かあった時に、わたしは蚊帳の外なのだ。
何かあったときに、一番最初に連絡が来るような存在になりたい。何もわからないのが、何も知らせてもらえないのが、こんなにも辛いなんて、初めて気づいた。
容量オーバーした感情が溢れでるみたいに静かに零れた涙を拭って、ひとつ息を吐く。
そのときだった。玄関の方から鍵が開く音がして、肩が震えた。誰? と一瞬警戒するが、鍵を持っているのはわたしと消太さんだけだ。跳ねるようにベッドから飛び出して、玄関へ駆けていく。
そこにはやっぱり消太さんがいた。
「消太……さ、ん」
心臓がぎゅっと、痛みを伴いながら深く深く縮こまって、次の瞬間にはどくどくと早鐘を打つ。
「悪い、遅くなった」
「そんなことより、どうしたんですか! 怪我……ボロボロじゃないですか?!」
ヒーロースーツはところどころ破けていて、頬には絆創膏が貼ってある。一目見て何かあったのは明らかな姿に、わたしの中で燻っていた不安は一気に膨れ上がる。
「とにかく、入ってください」
消太さんは右足を庇うように動きながら、リビングのソファに腰掛けた。きっと足も怪我をしているのだろう。わたしは床に座り込んで、消太さんの話に耳を傾けた。
―――敵との交戦中、一般市民を庇うのに、敵の攻撃を喰らってしまった上に着地の際に変な態勢になってしまって足を挫いてしまったらしい。敵の制圧には成功したものの、消太さんが庇った市民の方から、自分を庇って怪我をして、万が一何かあったら本当に申し訳ないので病院に行って欲しいと懇願されたため、渋々行ったのだという。そこで検査をして、捻挫と診断されたが、そのほかは問題なかったため、処置をしてもらって病院を出れたのがつい先ほど。タイミング悪くスマホの充電も切れていて連絡も送れず、今に至る、と。
「捻挫も安静にしてれば治るから俺は問題ないんだが、本当にすまなかった」
消太さんの言葉に、鼻の奥がツンと痛くなる。怪我をして大変な思いをしたのは消太さんなのに、尚も消太さんはわたしのことを気にかけて、謝ってくれる。わたしは唇を噛み締めたが、堪え切れなくて涙がぽろぽろと溢れ出てきた。泣きたくなんてないのにどうして涙は出てくるのだろう。拭き取っても拭き取っても、壊れてしまったかのように涙が出続ける。
わたしの中には、たくさんの言葉が、思いが、溢れ出そうなくらいある。わたしは痛いくらい噛み締めていた唇を開いて、からからに乾いた喉を震わせた。
「生きてて、よかったです……」
結局わたしの思いは、この一言に帰結するのだ。とにかく、何よりも、生きていてよかった。無事と言っていいのかはわからないけれど、わたしのところへ帰ってきてくれて、本当によかった。
安心したら、消太さんが恋しくて堪らなくなった。大好きな人が、手を伸ばせば届く距離にいる。夜の暗闇の中、どれだけ待ち望んでも得られなかったこの時間は、当たり前ではない。
「心配かけたな」
床に正座するわたしの頭を大きな手が撫で付けて、黒猫が撫で付けるスタンプが脳裏に浮かぶ。そうだ、わたしには一番最初に言いたかった言葉があったのだ。
「おかえりなさい、消太さん」
「ただいま、名前」
おかえりなさい、という言葉を声に載せると、帰ってきたのだという実感が湧いてきて、それを噛み締める。
あの日、消太さんから想いを告げられたとき。消太さんは、いつかわたしに悲しい思いをさせるかもしれないと言った。それでも付き合ってくれるか、と。わたしは、ちゃんと覚悟していると言って、真っ先におかえりなさいと言えるような存在になりたい、と月に見守られながら確かな願いを口にした。あの日の覚悟は、誓いは、嘘ではない。
これからもきっと、こんな夜を何度も重ねるだろう。生きた心地のしない、色彩を失った灰色の夜。それがプロヒーローと付き合うということで、逃れられない宿命だ。少しでも気を緩めれば、行かないで、そばに居て、なんて言葉が内側からせり出てきそうだし、本音を言えば今だって言ってしまいたい。
「消太さん……」
ぎゅっと、握った拳に力を入れる。こんな気持ちは勿論言わないけれど、思わずにはいられない。今回は無事だった。けれど次は? その次は? 考えれば考えるほど不安に陥るし、まるで消太さんの実力を軽んじているみたいでそんな自分が嫌になる。ごめんなさい、消太さん。わたしは本当に、弱い。もっと強くならなきゃ。
わたしは拳から力を抜いて、身体の中の空気を入れ替えるように大きく深呼吸をすると消太さんを見た。
「隣、座ってもいいですか?」
「当たり前だろ、寧ろなんで床で正座なのかずっと気になってた」
立ち上がれば、慣れない正座に足が痺れている。イテテ、なんて呟きながら変な歩き方で消太さんの隣に腰掛けると、顔にできた小傷や、顔に貼られた絆創膏がより一層リアルに感じて胸が抉られる。ぼろぼろになった恋人の姿というのは、心にくるものがある。
視線が交われば、どちらからともなく吸い寄せられて唇を重ねた。唇のかさつきが、伸びた髭が、彼の疲労を色濃く表しているようだ。
そこで漸く、部屋の寒さを感じて身震いした。秋の朝の冷たい空気に今の今まで気づかなかったのは、それだけ余裕がなかったのだろう。外を歩いてきた消太さんはもっと寒いに違いない。
「消太さん、お鍋食べますか?」
「食べる。でも一眠りした後でもいいか?」
「勿論です」
「敬語」
鼻先をつんと指先で突かれる。
「……つい癖で。そしたらお風呂入る?」
「うん、ありがとね。足がこんなだし、シャワーだけ借りる」
「わかった。何か手伝えることある?」
「大丈夫、なんかあったら呼ぶ」
やっぱり敬語じゃないとむず痒いなぁ、なんて思いながらもわたしは脱衣所にタオルと消太さんのお着替えセットを準備する。消太さんは怪我した足を庇いながらひょこひょこと脱衣所へ向かっていった。
徐々に白く眩くなっていく部屋で、少しでも何か消太さんに安らぎを提供したくて布団乾燥機をセットして布団を暖める。布団乾燥機で暖めた布団に入り込む瞬間の至福感といったら、疲れた時ほど沁みるというものだ。それから何をするでもなく待っていると、消太さんが上がってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
二人でソファに座ると、横から消太さんに抱きしめられた。シャワーで蓄えた熱が寝巻き越しに伝わってくる。同じシャンプーを使っているはずなのに、消太さんそのものの匂いと混じり合って、消太さんからしか感じられない匂いになる。この匂いが大好きだ。
「あー……」
消太さんがしみじみと呟いた。
「どうしたの?」
「癒されると同時に、自分が疲れていることを自覚した」
「なるほど、じゃあ寝よっか。わたしも一緒に寝ようかな」
「その前にシたい」
「……えっ?」
あまりにも直接的なお誘いに、逆に違う意味かもと思うくらいだった。したい……寝るのをしたい、とか? そんなわけないか。わたしは正直に尋ねた。
「し、したいって、あの、どういう意味ですか」
「セックスがシたいって意味だよ。一仕事終えた後にシたくなるのってなんなんだろうな」
後半は自分に向かって言うように、消太さんがしみじみと呟く。確かにこれまでも、出動した後に求められることは結構あった。すると、今度は「あー……」と残念そうな声色で言うと、身体を離した。
「でも足がこれじゃあな。やっぱ大人しく寝るよ」
「まって!」
わたしは思わず静止をかけていた。今にもソファを立ち上がろうとしていた消太さんの肩に手を置く。
「しましょう、わたしがします!」
「するって?」
「手とか……口、で? あとは、上に乗ったりとか……?」
正直言えば、技術に自信はない。基本的にセックスは消太さんの主導で行われるから、わたしはそれに甘んじている。けれど消太さんが自由に動けない今、わたしはわたしにできることを積極的に頑張りたい。ていうかわたし朝っぱらから何を言っているんだ。
「いや、いいよ。なんか申し訳ないし。足がよくなったらしよう」
「しましょう。させてください。消太さんのこと、気持ちよくさせたいんです」
わたしは何を懇願しているのだろうか。だがわたしと謎の熱意が通じたのか、困惑を浮かべていた消太さんの表情が徐々に変化していく。
「……そんなに言われたら、断れるわけねぇだろ。ほんとにいいのか」
「はい。したいです」
消太さんを気持ちよくさせたいです。と言いながら、決意を示すように手を消太さんの下腹部へと這わせれば、服越しにも分かるくらい消太さんのそれは固くなっていた。ストレートに伝わってくる欲情に、わたしの心臓は飛び跳ねて、顔に熱が集中する。
そして唇が重なる。二度、三度と食むようにされて、四度目に舌が唇の隙間から入ってくる。火傷しそうなほど熱いそれと絡み合い、わたしと消太さんの唾液が混じり合う。気持ちよくて、あらゆる雑念が濾過されて、わたしは消太さんのことだけしか考えられなくなった。ちゅく、ちゅく、と水音を立てながら舌同士の交歓に夢中になっていると、存在を主張するかのようにわたしの手の中で質量を増してどんどんと固く大きくなっていく。
