27.決戦の金曜日 準備運動

 校舎から出ると、競い合うような蝉とひぐらしの鳴き声と、賑やかに談笑しながら下校する生徒たちの声に包まれた。見上げた空はまだ明るくて、夏を感じる帰り道だ。
 もうすぐ夏休みに突入するので、夏服の制服姿の生徒たちの姿や楽しそうな声がなくなってしまうのは少し寂しいが、それはそれで夏を感じる一幕だ。

「相澤先生、今日どうしてわざわざ執務室まで来たんですか」

 隣を歩く相澤先生にじとっと恨みがましい視線を送れば、相澤先生はニヤリという表現が適切な笑みを浮かべた。

「どうしてって、仕事のことで確認したいことがあったからだろ」
「内線一本で終わる内容だったような」
「顔が見たかったから直接会いに行ったんだが、迷惑だったか」

 狡い言い方をする。きっと「顔が見たかった」の前段には、「名前の慌てふためく」と言う枕詞が付くに違いない。けれど心臓にぐっと来るような言い方をされて案の定、この胸は高鳴っている。悔しいが完敗だ。どんな意味があろうとも、顔が見たかったなんて言われれば、わたしはただただ嬉しくなり、体温が上がってしまうのだ。

「迷惑じゃないんですけど……分かっててやってますよね」
「さて、なんのことか」

 肩を竦めた相澤先生には、やっぱり全てお見通しなのだろう。もう、とわたしはむくれて、そんなわたしの頭を相澤先生はぽん、と撫でたのだった。
 帰りの道すがら、スーパーに寄って買い物をする。相澤先生の家には当然のように調理器具なんて言うものは揃っておらず、包丁とまな板とフライパンがひとつあるだけだった。そのため、惣菜を買い込むことにしたのだ。それからお酒も買って、金曜ロードショーに向けて準備万端だ。
 そして大きな買い物をぶら下げて、相澤先生のおうちにやってきた。

「お邪魔します」
「はい、いらっしゃい」

 いつぞやと同じように挨拶を交わしてお邪魔する。相変わらず相澤先生のおうちは必要最低限のもので構成されていて、当たり前であるが相澤先生の匂いで溢れていて、胸がこそばゆくなる。
 早速一緒に買ってきたご飯を食べながら、他愛ないことを話した。相澤先生の受け持ちの生徒の除籍を解いたこと、夏休みは必殺技編み出しの特訓で毎日様子を窺いにTDLへ行くこと。(トレーニングの台所ランド、略してTDL)
 わたしはわたしで今度同期会があること。ヒーロー仮免試験の申し込み手続きが待っていること。そのあとのインターン関連の仕事もやらなくてはならないこと。
 お互い仕事内容は違うが、密接に関わり合う仕事だ。それ故、共通の話題である仕事の話をよくするが、教師でありプロヒーローである相澤先生のお話は、自分の知らない世界の話みたいで、とてもワクワクして楽しい。

「同期会どこでやるんだ?」
「あ、駅前のあの小洒落た居酒屋です」
「帰りは迎えに行く」
「……え! あ、あの、そういえばなんですけど」
「ん?」

 以前気になったこ疑問が首をもたげてきたので、わたしはおずおずと話を切り出す。

「同期会でもしも聞かれたら、相澤先生とお付き合いしていることを伝えてもいいでしょうか」
「別に構わないよ。前にも言ったが、俺は別に隠すつもりはない。必要であれば伝えればいい」
「ありがとうございます」
「俺も結構聞かれるし、そのときは伝えてる」
「聞かれるんですか!?」

 驚くわたしに、相澤先生は至極当然とばかりに頷いた。

「まあな。さすがに生徒には濁してるが」
「生徒にも!?」
「ん。仲の良い同僚と言っている」 
「なんか熱愛報道された芸能人のコメントみたいですね」

 夜ご飯を食べ終えると、まだ金曜ロードショーまでは時間があるためにお風呂に入ることにした。ついに、先日買ったお泊りセットを使う時が来たのだ。相澤先生は寝室から先日買ったわたしのお泊りセットを持ってきてくれて手渡した。

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。ついにこれを着る日が来ました……」

 受け取った寝間着を広げてしみじみと呟いた。

「そんなしんみり言うことか」
「いやあなんか感慨深くて……」
「いいから風呂入ってきなさい」
「はーい」

 言われてわたしは脱衣所へと向かった。洗面台には色違いの歯ブラシとコップが並んでいて、胸がきゅんとなる。二度目の相澤先生の家でのお風呂。湯船に浸かり、一息つく。

(今日は、ついに、やっぱり……)

 湯に沈めた己の裸体を見れば、そこに相澤先生の逞しい身体が重なる姿がよぎって、息が止まりそうになる。そうでなくても同じベットで寝ると考えたら、もはや寝れる気がしない。その前にすっぴんを晒すと言うイベントも待っている。相澤先生と付き合ってから数ヶ月。今日はイベント盛りだくさんで、歴史的な日になる、はずだ。
 相澤先生のシャンプーやボディソープを使うと、そこからやっぱり相澤先生を感じて、いちいち身体が熱くなる。そんな火照りを鎮める意味も込めて、いつもよりも丁寧に、入念に身体を清めていく。
 風呂から上がってバスタオルに包まれると、そこからも相澤先生の匂いがして、初めて身を包む寝間着からも相澤先生の匂いがして……。とにかく、どんどんとわたしは相澤先生に包まれるような錯覚に陥り、再び身体が火照りだすのを止められなかった。変態めいているが、どうにもそう考えてしまうのを辞められないのだ。洗面台の鏡に写ったわたしの顔は、締まりの無い顔をしていた。

「お風呂ありがとうございます」

 スキンケアをして、髪を乾かすと、相澤先生のいるリビングへと戻る。初めてすっぴんを晒すわけだが、どんな反応をされるのか少し怖い。俯き加減でわたしは礼を述べると、相澤先生はわたしのもとへと赴いた。そして両頬に手を添えられてくいっと顔を上げられると、あっという間に相澤先生の目の前にすっぴんの顔面が晒される。反射的に身体ごと反らすが、相澤先生の手でガッチリと固定されていてそれは叶わない。
 そして次の瞬間には、相澤先生の薄い唇がわたしの唇に重ねられた。今日初めてのキスは、わたしの動きを完全に停止させて、直立不動で動けなくなる。
 唇が離されると、今度は隙間なく抱きすくめられた。

「……俺と同じ匂いがする」
「あ……ふ……」

 心臓が急速に動き出して、密着している相澤先生に心音が伝わってしまうかもしれない、と思った。抱きしめられながら告げられた言葉は、心地よい低音で、細胞一つ一つに響くようだった。これだけでわたしの身体がきゅっと切なく熱くなることを、相澤先生は知らないだろう。
 相澤先生は頭を一撫でして離れると、再度キスを落とした。

「俺も風呂行ってくる」
「はい……」

 スタスタと脱衣所へと向かっていった相澤先生。残されたわたしは、脱衣所の扉が閉まる音が聞こえてきて、ようやっと魔法が解けたように自由を取り戻した。