もう夕方だというのに、校舎を出た瞬間むせ返るような熱気がわたしたちの身体を包んだ。毎年思うが、夏ってこんなに暑いんだっけ? 8月になったらもっと暑いんだっけ? 暑さが過ぎ去るのはいつだっけ? そんなことを思う7月の中旬。
隣を歩く相澤先生は今日も捕縛布を首に巻き付けていて、黒の長袖に身を包んでいてなんとも暑そうな出立ちだが、涼しい顔で歩いている。
「暑くないんですか」
たまらず聞けば、
「暑いわ」
と、一言。よかった、相澤先生もわたし同じ人類で、恒温動物らしい。と、安心する。そのまま相澤先生は言葉を続けた。
「夏用で涼しい素材で作ってるとは言え、こうも暑いとキツイな」
言われてみれば、冬と夏とで若干素材が違う気がする。とは言え、言わなければわからないほどの違いだ。
暑いと言う相澤先生を見ていても、あまり暑がっているようには見えないけれど、この気温で暑くないというのはよもや人間ではないため、きっとちゃんと暑いのだろう。未だ余力を残して大地を照らし続ける太陽の最後のあがきを肌身で感じつつ、「あ」とわたしは声を漏らす。
「そういえば今週の金曜ロードショー、見たいなーと思ってたらいつの間にか上映が終わっちゃった映画なんです!」
話題がコロコロ変わるのは女子だから仕方ないのだ。と、己に己で言い訳しつつ言えば、いつも通り関心のあるようなないようなどちらとも分からない声で、
「まあ映画ってそういうもんだよな」
と、相槌を打ってくれた。
「そうなんですよ。でも最近は地上波でやるの本当に早いですよね」
「なんてやつだ?」
言われて名前を思い出そうとするも、はて。タイトルが全く出てこない。それはそれは驚くほど、だ。無言で考えを巡らせること数秒、「まさか」と隣で低い声が聞こえてきて、わたしは苦い顔をする。今から何を言われるのか手に取るように分かるからだ。
「見たかった映画のタイトル忘れるとか、ないよな」
「まさかぁ。それにしても暑いですね」
「話のすり替え強引すぎるだろ」
横断歩道に差し掛かり、信号が赤だったので足を止める。「と、とにかく」とわたしは仕切り直し、
「今週の金曜日、楽しみなんです!」
「一緒に見るか?」
「あたりまっ! ……え? なんて言いました?」
反射的に言ったものの、相澤先生が言った言葉を反芻して恐る恐る聞き返す。聞き間違いだろうか、一緒に見る? と聞かれた気がする。
信号が青に変わり、相澤先生が歩き出す。わたしも一拍遅れてついていく。
「金曜日、映画、一緒に見るか」
今度は一言一言区切って相澤先生が告げる。それがわたしには幸運を知らせる調べに聞こえて……と、いうか実際そのとおりだ。だって今、金曜日のお誘いを受けているのだ。しかも金曜ロードショーを見るということはつまり、終わる時間も遅い、ということはつまり、だから、その……
「見ます……」
熱に浮かされた声でわたしは相澤先生の横顔に呟いた。
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そして金曜日はやってきた。空は雲ひとつない晴天で、今日も今日とて太陽は絶好調に地上を照らしていて、朝からジリジリと肌を焼き付けている。
いつも通りの夏の朝であるが、いつもと違うことがある。今日はいつもの通勤鞄だけでなく、お着替えとか化粧品とかの入った鞄も持っている。なぜなら仕事終わりに相澤先生の家にお邪魔して、一緒に金曜ロードショーを見るのだ。そして、そのあとは、一緒のベッドで、ね、寝るわけだ。
つまるところ、先日買ったお泊りグッズを、ついに活用するときが来たというわけだ。ただそれだけ、ただそれだけなのだ、とずっと自己暗示しているのに、そのことを考えるだけで動悸がする。
執務中もちょっとでも気を抜けばお泊りのことを考えてしまい、その度にイカンイカンと現実に意識を引き戻す。そしてそういう日に限って相澤先生がわたしの事務室にやってきたりするわけだ。
「名字さん、お願いしてるヒーロースーツの仕様変更の件なんですけど」
「へっ?! あ、はい、少々お待ち、わっ!」
今日に限って急に現れるな相澤消太! 声をかけられるまで気づかず、慌ててその件についてまとまった書類を取り出そうとして、他の書類を無様にも床に落としてしまった。なんとも虚しい音を立てて散らばってしまった書類を慌ててかき集めていると、相澤先生もしゃがみ込んで、一緒に書類を集めてくれた。
「すみませんすみません……」
消え入るような声で言えば、「いえ」と淡白に一言。相澤先生は集めてくれた書類の角を丁寧にも揃えて渡してくれた。その時、指先と指先が触れて、まるで雷に打たれたような衝撃がわたしに奔り、思わず書類を離してしまった。またまた書類が散らばって、わたしは慌てて拾い直して、イスに座りなおす。
「……失礼しました。それで、なんでしょうか」
「仕様変更後のヒーロースーツはいつ届きますかね」
「ああ、ええと……来週中には届きます」
「ありがとうございます」
最後に唇の端に笑みを浮かべ戻っていった。内線一本で済む話をわざわざ執務室までやってきて確認するなんて普段なら嬉しくて舞い上がっていたに違いない。しかし、今は違う。そして導かれる結論がある。……おそらく相澤先生はわざとやっている。わざと直接会いにきて反応を見にきたのだ。あの最後の笑みは完全にそれを物語っていた。合理主義者にあるまじき蛮行である。わたしは書類を片付けると、無意識に深いため息をついた。
そしてチャイムが鳴り、本日の業務終了を告げる。仕事の拘束から解き放たれた途端、ざわめく執務室内。飲みにいくであろう楽しそうな職員たちがいたり、まだ仕事をするであろう職員がいたりして、思い思いの金曜日の夜がこのあと待っている。
わたしはと言うと、これからこの後の時間を共にする相手に連絡を入れた。
『お疲れ様です。定時で上がれました』
すぐに既読になり、返事がくる。
『お疲れ。こっちも問題ない』
心臓がドキドキと早鐘を打ち始める。わたしは、承知しました。と言うスタンプを送ると、荷物をまとめて職員室へ向けて歩き始めた。わたしの金曜日はここから始まるのだ。
