相澤先生の顔がゆっくり近づいてきて、そしてキスが一度、二度、三度と角度を変えて降り注ぐ。わたしの思考がどんどんと溶けていき、ただただ相澤先生だけを感じて体が熱くなっていく。
そして相澤先生の手がわたしのブラウスのボタンに触れたその時だった。清々しいほどの大音量でこの静寂を切り裂いた。わたしの腹の虫が。
「……」
「……」
相澤先生の動きがピタリと止まった。と同時に身体の熱さが別の熱さに変わった。この状況でお腹が鳴るって、恥ずかしすぎる。確かにお腹は空いているけど! 空気読んでよわたしのお腹。
わたしは咄嗟に両手で顔を覆う。終わった。相澤先生の顔が恥ずかしくて見れない。何か言わなくてはと言葉を絞り出す。
「相澤先生、あの……」
「メシ、食べに行くか」
「いや、あの、お構いなく……うう、このまま消え去りたいです……」
情けないわたしの言葉に、抜けるような笑い声が聞こえてきて、指の隙間から相澤先生を覗く。すると優しい顔でわたしを見てくれていた。お付き合いするようになってから、相澤先生のこういう優しい表情を見ることが増えた気がする。胸が締め付けられる。
「消えられたら困る」
「でも……」
尚も泣き言を言わんとするわたしを制するように、「だいたいな」と相澤先生は言い、
「先生って言われたら、なんだかイケナイコトをしてるような気分になるからやめなさい」
そう言うと相澤先生はわたしの上から退いたので、わたしも上体を起こして再びソファに並び座る形になった。イケナイコト、か。先生と生徒的な感じのあれか。やめなさい、っていう言い方も先生感が溢れていて結構好きなのは内緒だ。改めてわたしは相澤先生に問う。
「なんてお呼びすればいいでしょうか」
「好きに呼べ」
「……相澤さん、消太さん、消太先生」
“消太先生”と口にした瞬間、エプロンを着て小さい子の相手をしている保育士さんバージョンの相澤先生の姿が思い浮かんだ。控えめに言って尊すぎる。お母さんから大人気だろな……おっと、思考が逸れてしまった。
わたしはうんうんと悩みつつも、結局結論を出すことができなかった。
「少し、時間を貰ってもいいですか。相澤先生が染み付いちゃって」
「もちろん」
相澤先生の大きな手のひらが頭に載せられて、ぽんぽんと撫でて、そのあとに優しいキスを頬にされた。
それからわたしたちは先日行った中華屋さんに行ってご飯を食べると、相澤先生はわたしの家まで送ってくれた。家の前で向き合って、別れの挨拶。この瞬間が一番寂しくて、名残惜しくて、一秒でも長くいれればいいのにって思う。そんな気持ちを悟られないように、努めて明るく言う。
「今日もありがとうございました。すっごい楽しかったです」
「ん。帰ったら連絡するな。おやすみ」
「おやすみなさい」
最後に相澤先生はぽん、とわたしの頭を撫でて帰路に着く。帰っていく後ろ姿を、見えなくなるまで見守り、家に入った。はあ、終わってしまった。いくら同じ時を過ごしても、寂しさが紛れるわけではなく、むしろ過ごしたときの分だけ寂しさが積み重なり、増えていく気がする。
お腹の虫のせいで不完全燃焼になってしまったが、正直なところ少しホッとしていたりもする。きっといくら準備しても準備したりないのだろうけど。ちょっとずれた例えかもしれないけれど、雄英高校を受験する時に似ていると思った。いくら勉強しても、いくら個性を磨いても、試験当日はもっと準備できたんじゃないか、と後悔するあの感じ。だって相澤先生に裸を見せるんだよ? 相澤先生の身体は間違いなく引き締まっているのだから、そんな相澤先生の目に触れると考えたら……。と、己の身体を見遣り、無意識にため息が零れた。
それからお風呂に入り、ベットにごろりと寝転がり天井を仰ぎながら、相澤先生の呼び方について考えを巡らせる。
「消太さん……」
口にして、その感触を味わいを確かめるように舌先で溶かす。途端に忙しなく動き出す心臓。なんて甘やかな響きなのだろう。相澤先生を名前で呼ぶ日が来るなんて、誰が想像しただろうか。あの日、あの時、交わったことですべてが変わった。
やっぱり消太さん、かなあ。相澤さんだと他人行儀だよね。よし、とひとつ頷いた。
とは言え、なかなか名前で言う勇気が出ない日々が続いた。相澤先生と言って怒られるわけでもないし、その方が呼び慣れているから自然なのだ。それに学校でうっかり消太さんなんて呼んで他の人に聞かれでもしたら大変だ。と、己を納得させる理由を見つけては正当化し、ひたすら相澤先生と呼び続けている。
そんなこんなで日々は過ぎ、季節は夏へと移り変わろうとしていた。どこを歩いていても蝉の鳴き声が聞こえてきて、じっとしていれば汗が滲む。アスファルトからは陽炎が立ち込めて、毎日テレビでは30度超えを報じている。暑くて暑くてたまらないけれど、その代わり明るい時間が長くて、仕事が終わって外に出てもまだまだ明るいので、飲みにでも行こっかなと浮き足立つ季節だ。
外の暑さとは無縁の執務室でお昼休憩中、スマホをいじりながらなんとなく時間を過ごしていると、同期から連絡がきていた。
『暑い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。同期会の件だけど、GWは過ぎちゃったけどやろうぜ』
触りの丁寧な文章が気になるが、そんな話もあったなと思い出す。少し前に自販機の前で話していたことだ。あれから特に話にも上らなかったので、てっきり企画倒れかと思っていたが、まだやる気はあるらしい。思い出したら急にやりたくなってきた。最近の気温のせいもきっとあるだろう。
『ビールが美味しい季節ですね。やりましょう』
そう返事をして、わたしは無意識に口角を上げる。同期には相澤先生とのことをお話ししてもいいだろうか。あとで聞いてみよう。
