21.レグルスに着地

 シトシトと降り注ぐ春の雨を一身に受けながら、足元に泥水が跳ねるのもお構いなしにわたしたちは走っていた。
 わたしたちが雨の中を走り抜ける足音ばかりが聞こえてくる。まさかラーメン食べたあとに走るとは思わなかった。なんだか面白くて、わたしは笑いがこみ上げてくる。前をゆく相澤先生の背中に向かってわたしは叫ぶ。

「食べたばっかで走るのつらすぎです!!」
「あともうちょっとだから頑張れ」

 顔だけ振り返って相澤先生が言った。歩いて5分は走ればすぐの距離で、案外すぐに相澤先生のアパートまでたどり着いた。変なテンションで走っていたからすっかり忘れていたが、今から相澤先生の部屋にお邪魔するのだ。息を整えながら、併せて雨と風で乱れた髪を整える。鏡を見ていないのでわからないが、この雨で化粧がだいぶ剥がれ落ちたことは確かだろう。雨をしのげる軒の下で、相澤先生は犬や猫がやるみたいにふるふると頭を振って水滴を飛ばした。

(かわいい……)

 どんな姿もどんな仕草もわたしにはとても尊いことのように思えた。ずぶ濡れの黒猫みたいな相澤先生がわたしを見る。

「先に言っておくが、なにもないからな」
「あ、お、お、おかまいなくッ!」
「とりあえず中入るか」
「はいッッ!!!」

 ド緊張がわたしを襲う。今から相澤先生の部屋に、お邪魔する。その事実で心臓がすごい勢いで動き出す。相澤先生の後ろをついていき、自分の部屋であろう扉の前で立ち止まると、鍵を差し込んで扉を開けた。相澤先生が部屋に入り、そのまま扉に手を当てて開け続けてくれているので、わたしも滑り込むように相澤先生の部屋にお邪魔する。入った瞬間、相澤先生の匂いが一気に鼻腔をくすぐって、これまたドキドキを加速させる。相澤先生のお部屋は、当たり前だけど、相澤先生の匂いでいっぱいだった。扉がパタンと閉まり、相澤先生は施錠した。

「タオルを持ってくるからちょっと待ってろ」
「ハイ」

 相澤先生は靴を脱いでペタペタと歩いていく。わたしは玄関で立ち尽くし、緊張で殆ど何も考えることができない状態になっていた。どれくらいの時間が経ったのかもはやわからないが、やがて相澤先生がタオルを持ってやってきて、玄関で立ち尽くすわたしの頭にタオルを掛けて、ガシガシと拭いた。

「いま湯船にお湯溜めてるから、とりあえず風呂入ってこい。だが、名前の着替えがない。悪いが、俺のスウェットでも大丈夫か?」
「もも勿論です!」

 あああああ相澤先生のスウェットを着ることができる神イベントはこちらですか!? タオルから顔を出して相澤先生を見上げる。相澤先生はタオルを肩にかけている。ていうかお湯まで溜めてくれて、こんなに至れり尽くせりでよいのだろうかと恐縮してしまう。

「さすがに下着は代用が効かないから、もし濡れているようなら乾燥機で乾燥させるが」
「下着は着れないほど濡れてないと思うので、同じもの着ますデス」

 乾燥機で乾燥させている間ノーパンノーブラであることを想像し、わたしは即座に答えた。しかもわたしのために乾燥機を使うなんて、恐れ多すぎる。その結果、変な日本語になってしまった。

「ん。それじゃあ湯が溜まるまでリビングでゆっくりしてけ」
「ハイ、オジャマシマス」

 履物を脱ぐと、相澤先生のあとに続いてわたしは部屋の中を進んでいく。案内されたリビングは、生活感を感じない、シンプルでモノの少ない部屋だった。あるのは必要最低限のもので、さっぱりとした相澤先生らしい部屋だ。

「……そう緊張するな、座れよ」

 立ち尽くしているわたしに、相澤先生はダイニングテーブルに備えられた2脚の椅子のうち1つを引いてくれた。

「ハイ!」

 わたしはその椅子に座らせてもらうと、相澤先生はキッチンに向かい、ケトルでお湯を沸かす。座っている場所からは見れないけれど、何か飲み物を用意してくれているのかもしれない。相澤先生のことを眺めていると、目が合った。

「コーヒー飲めるか」
「あっはい、飲めます」
「砂糖とミルクは」
「大丈夫です!」

 程なくして、コーヒーのいい香りが漂ってきて、カップを一つ、わたしの前に置いてくれた。もう一つは向かいの席において、相澤先生も腰掛けた。カップは二つ、違う種類のものだ。わたしのはシンプルな白いカップで、相澤先生のは黒猫が描かれていて、黒猫の尻尾が取っ手になっている。誰かからプレゼントされたのだろうか。じーっとカップを見て考察している間に、相澤先生がコーヒーを飲む。すると、相澤先生は視線に気付いたのか、わたしの方を見た。

「ジロジロ見て、どうかしたか」
「あ、いや、可愛いマグカップだなって」

 相澤先生はマグカップを置くと、「あぁ」と合点がいったようにマグカップ視線を落とし、尻尾の部分を指先でなぞった。

「誕生日にマイクからもらった」
「なるほど」

 なんとなく想像がついたから、わたしは小さく笑う。それから、「いただきます」と白いカップを持ち上げて一口、コーヒーを飲む。暖かくて苦いコーヒーが口の中に広がっていく。

「美味しいです」

 わたしは素直に感想を口にすると、相澤先生は、

「それはよかった」

 と、淡々と言った。それから相澤先生は席を外して、別室へと行った。リビングで一人、コーヒーを飲みながら、まさか初めて相澤先生のお家にお邪魔して、お風呂を借りるとは思わなかったな、と改めて思う。そして今のこの状況を、夢でも見ているみたいに思う。少し前のわたしが知ったら、相澤先生と付き合っていることだって夢の出来事なのに、お家にお邪魔してるなんて、夢のまた夢の出来事だ。そう思うと、なんだかくすぐったい気持ちになった。
 それから程なくして、相澤先生は着替えのスウェットを持ってきてくれた。ただ、相澤先生は背が高いため、わたしの身体に合わせてみると、とてもぶかぶかだった。下に至っては、ウエストのサイズ的に履いてもすぐに落ちてしまいそうだ。見かねた相澤先生が提案をする。

「今着てる服は、帰るまでに乾燥機で乾かそう」
「そ、そんな。濡れてても着て帰れますよ!」
「それで風邪引いたら元も子もないだろ。んじゃそういうことで」

 ちょうどよく、お風呂が沸いた音がリビングに鳴り響く。なんだか申し訳ないが、ここは甘えさせてもらうことにする。相澤先生に脱衣所に案内されて、新しいタオルとスウェットを手渡された。

「それじゃごゆっくり」

 と言って相澤先生は脱衣所の扉を閉めた。

 湯船に浸かりながら少しずつわたしは落ち着きを取り戻していく。脱衣所もそうだが、お風呂もとても綺麗で驚いた。今日お邪魔したのは本当に偶然だし、このことを見越して掃除していたわけではないだろう。ということは、いつも掃除しているのだろうか。すごいな、と感心する。自分の家のお風呂は……と考えたが、すぐに考えるのを辞めた。
 ゆっくりと湯船で身体を温まらせてもらって、お風呂から上がった。先ほど渡されたバスタオルで身体を拭いて、相澤先生のスウェットを着させてもらう。途端、ぶわっと広がる相澤先生の香り。落ち着いた心が再びかき乱される。相澤先生の匂いに包まれていると、まるで相澤先生に抱きしめられているみたいでドキドキが止まらない。
 脱衣所に備えられている洗面台の鏡で自分の姿を見れば、相澤先生の大きなスウェットはもやはワンピースのようになっていた。これが彼シャツというやつか、とひとり納得して、ニンマリとする顔を引き締めながらわたしは脱衣所から出て、リビングに向かうと、相澤先生はソファに座っていた。わたしの姿を見ると、相澤先生は立ち上がる。

「おかえり。……髪が濡れてるな、ちょっと待て」

 相澤先生はわたしをもう一度脱衣所に連れていくと、ドライヤーを取り出して、わたしの髪の毛を乾かしだした。洗面台の鏡には、相澤先生のスウェットを着たわたしと、その後ろに背の高い相澤先生がいて、ドライヤーでわたしの髪の毛を乾かす姿が写っている。一緒に住んだら、たまにはこんなふうに髪を乾かしてもらえるのだろうか。わたしの髪の毛に触れる相澤先生の手は優しくて、とても気持ちいい。やがて髪の毛を乾かし終えると、ドライヤーが止まる。

「ありがとうございます」

 わたしは振り返り、相澤先生を見上げてお礼を言うと、相澤先生は「ん」と短く返事をした。それから相澤先生はてきぱきと、わたしが使ったバスタオルを洗濯機に入れて、濡れた服を乾燥機にかけ、わたしたちはリビングに戻った。

「それじゃあ俺も風呂に行ってくるから、適当にくつろいでいてくれ」

 そう言い残して、相澤先生はお風呂に入りに行った。わたしはソファに座って待っていると、相澤先生はすぐにお風呂から出てきた。髪を一つにしばって、スウェットを着ている。そしてわたしの隣に座り込んだ。相澤先生の重みでソファが沈み込む。重力の導くまま相澤先生の方へと倒れこみ、肩と肩が触れ合うと、慌てて姿勢を正す。お風呂上がりの相澤先生の身体はポカポカと温かくて、触れ合った肩が熱い。
 相澤先生の方をチラリとみると、相澤先生と目が合う。

「……やっぱり大きいな」

 相澤先生の視線は、わたしの上半身に向けられた。大きいと言うのはスウェットのことだろう。襟ぐりは広く、裾は太ももまである。袖は腕まくりをしてやっと手首が出てくるくらい長い。わたしは頷く。

「でもこれ、相澤先生の匂いがしてすごくいいです」
「さらっと変態発言をするのはやめなさい」

 変態とは心外であるが、変態なのか。ひとまず「はあい」と返事をした。それにしても、隣同士というのは、当たり前だがとても近い。それを改めて感じる。相澤先生の顔を見ると、嫌でも近さを感じてしまうので、わたしはドギマギと視線を前方に移す。

「今度買いに行くか、うちに置いておく着替え」

 相澤先生の言葉は、つまり一緒にお買い物に行けて、わたしの私物を相澤先生の家に置いていいということだ。些細なことだけど、そういうことにいちいち幸せを感じる。

「……いいんですか?」
「一着くらいあってもいいんじゃないか」
「嬉しいです。うちにも相澤先生のお着替え置いておかないと」
「名前」 

 突如名前を呼ばれて相澤先生の方を見れば、視線が絡み合う。まるで一本の糸がピンと繋がっているように、わたしは相澤先生から目が離せなくなる。相澤先生がわたしの腰に手を回して、あっという間に大きな相澤先生に包み込まれた。それから相澤先生の顔がゆっくりと近づいてきて、わたしたちはまるで最初から決めていたみたいに、目を閉じる。それから、唇に柔らかい感触が降り注ぐ。前にしたときは唇がカサカサしていたけど、今日はとても柔らかい。そして一度離れると、再び角度を変えてキスが落とされる。まるで啄むみたいな優しい口づけ。
 わたし、相澤先生の部屋で相澤先生とキスしている。心臓がすごい速さで動いていて、空気の振動でこの高鳴りが相澤先生に伝わってしまうんじゃないかと思うくらいだ。目をつぶっていると、感覚が研ぎ澄まされて、より一層相澤先生を感じる。腰に回された手や、唇の感触、とにかくすべてが敏感なくらい相澤先生を感じる。音のないこの部屋では、布が擦れる音と、ちゅ、ちゅ、とキスの降り注ぐ音だけが聴覚を支配している。
 何回も何回もキスが降ってきて、やがて相澤先生の舌が唇の間をなぞるように動く。頭が痺れて、とろけてしまいそうだ。このまま、今日、致すのだろうか。どろどろになりそうな思考の隅で、そんなことを考える。
 と、そこに、機械音が鳴り響いてわたしたちがお互いパッと目を開ける。一気に現実に引き戻された。相澤先生はわたしから身体を離し、恨めしそうに脱衣所の方を見る。

「乾燥が終了したらしい」

 その言葉でわたしは自分の服を乾燥機にかけてもらっていたことを思い出した。

 機械音によって突如二人の世界から現実に放り出されたわたしは、ドキドキを持て余しながら視線を交わしあった。すると相澤先生はぽん、とわたしの頭に大きな掌を乗せたのち、脱衣所に向かっていった。残されたわたしは身体に中に燻った熱を持て余していた。このあと、さっきの続きをするのだろうか。だとしたら心の準備が……いやいい大人が何を言っているのだ。でもでも……と心中で悶えていると、脱衣所から相澤先生が戻ってきて、乾燥が終わってホカホカに暖まっている服を渡された。

「着替えたら送ってく」

 送ってく……つまりは先程のいい感じの雰囲気はさっきでおしまいということだ。少しだけがっかりしたが、安心もした。なんとも複雑に気持ちが入り混じる。元は雨宿りのために身を寄せただけだ、変な期待なんてするほうが間違っている。

「……ありがとうございます、着替えてきます」

 悶々とした気持ちを抱えながらも、わたしは脱衣所で着替えた。
 アパートを出ると、雨は相変わらずしとしと降っていた。わたしたちは大きな一つの傘に身を寄せて雨空の下歩いていく。交わす言葉もなく、ただ雨が振り付ける音だけが聞こえてくる。そんな雨音を切り裂くように、歩きながら相澤先生が口火を切った。

「……悪かったな」
「え?」

 まさか謝られると思わず、わたしは素っ頓狂な声を上げる。相澤先生は前方を見つめたまま言葉を続けた。

「急にキスして、がっついてると思っただろ。……余裕がなかった」
「そっんなことないです!!」

 自分でも驚くほど大きな声を出してしまい、わたしは慌てて口を閉ざして、落ち着いた上で言葉を続ける。

「むしろ……嬉しかったです」

 相澤先生に求められるなんて、何にも代えがたい幸せだ。思い出すだけで身体の真ん中が熱くなるような相澤先生とのキス。泣きたいくらい優しい相澤先生とのキス。

「そうなのか……あそこで乾燥が終わらなかったら、俺は止まれなかったかもしれない」

 相澤先生は理性の塊だと思ってたけど、そんなことあるんだ。傘の下、肩が擦れてなんだか熱い。

「……止まらなくても、よかったですよ」

 ポツリと漏れ出たのは本心だ。しかし、わたしこそがっついているような気がして、慌てて言葉を連ねる。

「なんて言ったら、はしたないと思われますか」
「思わない。……今の言葉、覚えておけよ」

 わたしの問いに、相澤先生はニヤリと口角を上げて、零すように囁いた。わたしは顔に熱が集中するのを感じる。……準備をしっかりせねば。
 他愛ない会話を繰り返しながら歩き、家につく頃にはすっかり暗くなってしまったが、雨はあがっていた。傘を畳んでわたしたちは向かい合う。

「送ってくれてありがとうございます」
「ん。それじゃまた明日」
「あ、あの、また……相澤先生の家に遊びに行ってもいいですか?」

 相澤先生はふっと優しげに目元を細めて、春の雨みたいな優しいキスを落とした。

「当たり前だろ」

 そう言うと、頭をクシャッと撫でつけて、相澤先生は帰っていった。

+++

 それから少し経って、今日はなんと、マイクとミッドナイトと飲み会をすることになっていた。マイクにこの話を持ちかけたときに、もうすでにマイクはなんとなく察しているようで、ニヤニヤと親指を立てていた。
 いつものお店で三人が集まると、早速乾杯をした。わたしの前にまるで面接官のように座るマイクとミッドナイト。今から例のことを言うと思うと、心臓がバクバクと早鐘を打つ。ミッドナイトが早速飲み干したビアグラスを置くと、縁の尖ったメガネをくいっと上げて、「で」と身を乗り出す。

「報告ってなによ、名前?」

 ニヤニヤと先を急かすミッドナイトに促されて、わたしはまだビールの残っているグラスをテーブルの上に置き、両手を膝の上に乗せ、ぎゅっと握る。

「じ、実は……あの、相澤先生とのことなのですが」

 4つの好奇に満ちた瞳に見つめられて、ごくりと生唾を飲み込む。言え、言うのだ、名字名前。

「お……お付き合いをするこーーー」
「Fuuuuuuuuuu!!!!! やぁーっと聞けたぜぇ!!!」
「遅いわよ名前!!! もうっ、焦れったいのなんのって!!! 青臭いのよ!!」

 わたしが言い切る前に、マイクが、ミッドナイトが、興奮をそのままに叫ぶように言った。わたしは若干圧倒されつつも、二人が喜んでくれてることに嬉しさを感じる。そしてやっぱりバレていたみたいだ。わたしはポツリと「ありがとうございます」と言えば、なんだか涙が出てきた。大好きな人とお付き合いができて、大好きな人がこんなに喜んでいる。こんなに幸せなことってあるだろうか。ミッドナイトはわたしの隣に移動すると、ヨシヨシと頭を撫でてわたしを抱きしめてくれた。

「よかったわねほんと。随分と遠回りしたけど、それがまた青くてたまらなかったわ」
「お二人のおかげです。ほんと、よかったです」

 わたしのモゴモゴとした言葉は、豊満なミッドナイトの身体に飲み込まれていくようだった。ミッドナイトはわたしから離れると、素早くマイクに注文の指示をする。わさびとか、からしとか、恐ろしい単語が早速聞こえてきて、わたしは顔が引きつるのを感じた。