20.木星を告げる雨

 家に帰ったわたしは、突如決まった初めてのデート(仮)のため、ここらへんの飲食店で評判がいいところを血眼で探していた。相澤先生は普段固形物を口にしないので、嫌いな食べ物はおろか好きな食べ物すらわからない。付き合いも浅いので仕方のないことだが、まだまだわたしは相澤先生のことを知らないんだなと感じる。スマホをテーブルの上において、ため息をついた。

「何がいいかなぁ」

 イタリアンとか、フレンチとか、デートっぽいところに行ってみたい気もするけど、らしくない気もする。肩肘張らず、仕事帰りに気軽に食べられるものが今回はいいかな……と、思考を巡らせて、一つ思い当たる。そうだ、ラーメンだ。ラーメンだったら気軽に行ける。ちょっとデートっぽくない気がするけど、ただご飯食べに行くだけだし。男の人はラーメン好きなイメージだし。ということで、早速相澤先生にメッセージを送る。

『お疲れさまです。明日なんですが、ラーメンどうですか』
『お疲れ。ラーメンでいいのか』
『ラーメンでよいです。ていうか相澤先生と行けるならどこでもいいんです!』
『了解。んじゃ俺んちの近くのラーメン屋いくか』
『いいですね! 楽しみにしてます』

 俺んちの近く……相澤先生の家の近くに行けるのか。それだけでなんかソワソワしちゃうな。わたしの家の近くにはたくさん来てもらってるけど、相澤先生の生活圏に入るのは初めてだ。そもそも家がどこにあるのかもわからない。相澤先生とお付き合いしていくうちに、きっといろんなことを知っていくんだろう。パズルのピースを一つ一つはめていくみたいに、地道に、丁寧に。それってすごく楽しみだ。
 翌日、仕事を定時で終えると相澤先生と連絡を取り合って合流して、早速ラーメン屋に向かって歩き出した。桜は既に散って、新緑が目立つ並木道を歩いていく。

「相澤先生さよならー」

 同じように帰路についている二人の女子生徒たちが物珍しそうに相澤先生とわたしとを見比べ、帰りの挨拶を述べた。

「さようなら」

 相澤先生は表情を変えずに挨拶し、わたしも「さよなら」と小さく挨拶する。女子生徒たちはそのままわたしたちを足早に追い抜いて行って、少し先で楽しそうに会話をしている。『まさかあの女の人と相澤先生ってそういう関係?』とか会話してるのかな。自意識過剰だろうか。なんて考えていたら女子生徒たちは振り返って、わたしと目が合うと慌てて視線を戻していった。
 相澤先生と一緒に帰っていると、時折今みたいに生徒たちの好奇の視線にさらされることがある。だけど特にわたしたちの関係について聞かれたことはない。あまりに堂々と一緒にいるものだから、逆に聞きづらいのかな。知らんけど。それに、わたしたちの間の空気感というのは、恋人のそれとは少し違う気がする。どちらかと言うと、同僚同士の色が強いと思う。だからこそあまり噂になっていないのかもしれない。多分。いやでも噂になっているのかな。噂って当事者には回らないようにうまくできてるからね。とまあ、そんなことを考えるのはあとだ。

「あーお腹すきました」
「そうだな。久々に固形物を食べる気がする」
「ゼリー飲料だけじゃ栄養とか心配だから、一食でもいいから食べましょうよー」
「最近のゼリー飲料はすごいんだ。栄養も網羅してるからな」
「顎の力なくなりますよ」
「うるせー」

 いつもどおり緩い会話を繰り返しながら相澤先生の案内で普段通らない道を歩いている。とても新鮮でソワソワする。近くの道だって、普段通らない道だとまるで見知らぬ土地に来たみたいな新鮮な気持ちになる。やがて昔ながらの街の中華屋さんといった出で立ちのお店にやってきて、暖簾をくぐって中に入る。

「いらっしゃい! お好きな席どうぞ」

 中華料理屋さんらしい威勢のいい挨拶にお辞儀をしつつ、わたしたちはテーブル席に座り込む。まだ他にお客さんはいないようだった。相澤先生と一緒にメニューを覗き込む。

「おすすめはなんですか」
「タンメンだな」
「じゃあわたしタンメンにします」

 お水を運んできた店員さんに、相澤先生はタンメンを2つ注文する。注文を終えてラーメンがくるまでの手持ち無沙汰な時間、何を話そうかと相澤先生を覗き見る。相澤先生は慣れた手付きで目薬をさしている。セクシーだなぁ。

「相澤先生の家はここからどれくらいなんですか」
「歩いて5分くらいかな」

 本当にかなり近いらしい。それから他愛のない会話を繰り返していると、美味しい匂いとともにタンメンが運ばれてきた。とても美味しそうで、空腹を更に刺激する。いただきます、と言ってラーメンをいただく。あ、お世辞抜きに本当に美味しい。ちらと相澤先生を見ればいつの間にやら髪を束ねていてスッキリとした状態でラーメンを啜っている。セクシーがすぎるな。この人がわたしの彼氏だって、本当なんでしょうか。そんな奇跡みたいなことあるんでしょうか。なんてまた浸ってしまいそうだったので慌てて現実に戻ってラーメンを食べる。
 案の定先に食べ終わったのは相澤先生で、わたしは大慌てで食べる。そんな様子を見かねて相澤先生は「そんな慌てて食べたら喉に詰まらすぞ」と言って、薄く微笑む。わたしは何度も頷いて、残りのラーメンを食べた。

「ご馳走様でした、はーお待たせしました」

 食べ終わる頃には他のお客さんもポツポツ入りだしていた。

「よし、じゃあ行くか」

 相澤先生はさっと伝票を取ると、お会計へと向かった。わたしも慌ててついていくと、ちゃっちゃとお会計を済ませていく。

「あの……お金……」
「いらない」
「でも……」
「いいから仕舞え」

 申し訳なく思いつつも、ここはご厚意に甘えることにした。
 
「ありがとうございました。ご馳走様でした……あれ」

 お礼を言いながら店を出て、わたしは異変に気づく。暖簾をくぐった先の世界は、いつの間にやらシトシトと雨が降っていた。今日は雨降る予定だったの? 知らなかったよ。傘なんて勿論、持ち合わせていない。

「雨ですね」
「雨だな」

 お店の軒下でわたしは相澤先生を見上げて言うと、相澤先生は肩を竦めた。

「傘、持ってますか」
「今日の降水確率は20%だったから、降らないと踏んで持ってきていない」

 つまりわたし達は、雨を凌ぐ術を持っていない。ここで雨が止むまで待つか、それとも近くのコンビニなりに走って傘を買うか。

「……俺の家で雨宿りするか」
「あー……っうぇ!?」

 納得しかけて一気に違和感に気づく。いいいいい今、相澤先生の家で雨宿りって言った!?!? いまからわたし、相澤先生のおうちにお邪魔できるの!? 突然の提案にわたしの頭がパンク寸前になる。ストッキング破けてないよね!? 下着何着てるっけ!? とビュンビュンとすごい勢いでいろんなことを考える。

「いや、最寄りのコンビニよりも俺んちのほうが近いから合理的かと思ったんだが、深い意味はない」

 合理主義者らしい相澤先生の提案に、急速にドキドキしだした心臓が落ち着きだす。そうだ、相澤先生はあくまで合理的な案を出してくれただけなのだ。それでもわたしは相澤先生の極めてパーソナルな“自宅”という場所に、招待をいただけたことがとても嬉しい。

「深い意味はないが、まあ、もう少し一緒にいるのもいいんじゃないかとは思っている」

 と、相澤先生は続けた。多少屈折しているものの、直訳すれば「もっと一緒にいよう」で合っている……? わたしは思考が止まって何も言えないでいると、相澤先生はちらとわたしを見て、「で」と唇を尖らせている。

「どうする、名前」

 返事なんて、最初から決まっている。

「あ……相澤先生の家に、行きたいです」

 わたしの返事に、「よし」とニヤリと笑むと、相澤先生は走り出した。