ふわふわと空を飛んでいるような心地がずっと続いていた。気が付けばニヤニヤとしていて、何度も何度も先ほどの出来事を思い返していた。相澤先生は、わたしのことが好きだと言ってくれた。俺だけ見てろって言ってくれた。まさかの逆転ホームランに、わたしはまるで夢でも見ているように思えた。
あのあと、わたしの家へと送ってもらって、おやすみなさい。と挨拶をし、最後にハグを交わすと、相澤先生はいつもの猫背で自宅へと戻っていった。
(わたし、相澤先生の彼女になれたんだ)
そう思うたびに胸がドキドキして、身体中が熱くなった。
夢のような出来事で、でも夢じゃなくて、世界中の人に感謝を叫びたいくらいの気持ちだ。ソファに座りながらニヤニヤしていたわたしは、メッセージアプリを開いて、相澤先生とのトークルームを開く。
「他愛ない連絡をしてもいいのかな……」
今まで相澤先生とは事務連絡しか取っていなかった。けれど、先ほどわたしたちは恋人同士になることができた。つまり……気軽に連絡を取ってもいい間柄になったと捉えていいのだろうか。でも、普通の恋人同士みたいにはいかない的なことを言っていた。勿論、恋人同士それぞれに在り方があるというのは分かっている。合理主義な相澤先生的には、無意味なやり取りは嫌だろうか。
悩みに悩んで、わたしは一度心を落ち着かせるためにお風呂に入ることにした。だがお風呂の中でも頭の中から相澤先生は離れてくれなかった。
(これから、キスとか、その先もしたりするのかな……いつか一緒にお風呂も? うわあああああ)
結果、お風呂に入っても落ち着くことはなかったどころか、興奮しすぎて逆上せそうになった。お風呂から上がってひとまず、「これからよろしくお願いします」と送る。しばらくすると、スマホが震える。瞬速でスマホを確認すれば相澤先生からのメッセージだ。タップして開く。
「こちらこそよろしく」
短くて、味も素っ気もない文章だけど、それが相澤先生らしくて、心の底から震えるほどの幸せを感じる。わたしは満足感でいっぱいの顔でスマホを置いて、ベッドに入った。
次の日、いつもより早く目が覚めると、昨日のことを思い出して、ニヤニヤとしてしまう。やっぱりあれは夢だったのかな、こんな幸せなことあるのかな、と不安になり、相澤先生とのトークルームを開くと、たしかに昨夜のやり取りが残っていて、それが現実だと教えてくれた。
新学期が始まって暫く経つとわたしの仕事もだいぶ落ち着いてきて、通常運転になった。わたしと相澤先生の関係性は変わったが、だからといって日常が大きく変わるようなことはなかった。わたしは相澤先生との適切な距離を掴めずにいたから、今まで以上に距離を縮めることができなかったのだ。一つ変わったといえば、前みたいに仕事が終わると一緒に帰ってくれるようになった。自転車だと帰る時間が短くなっちゃうから、わたしは徒歩通勤に戻った。相澤先生が遅い日はわたしが待って、わたしが遅い日は相澤先生が待ってくれた。そこで他愛のない話をして、おやすみなさいの挨拶をして、たまにハグをして帰っていく。勢い余って、わたしの家にあがっていきませんかと言いかけたこともあったけど、なんとか踏みとどまった。まるでがっついているみたいだから、踏みとどまった自分を褒めてあげたい。
すっかりと暖かくなった春の気温に包まれながら、今日も相澤先生と一緒に帰路につく。暖かくなったとはいえ、夜はやはりまだ冷える。薄手のコートを羽織ったわたしは歩きながら、ずっと気になっていたことを口にした。
「わたしたちの関係性なんですが、マイクに伝えてもいいでしょうか」
今までずっと相談に乗ってもらった人だから、できれば報告をしたいと思っているのだけど、誰にもバレたくないと思っているかもしれないから勝手に報告する前に相澤先生に確認をしたのだ。もしかしたらもう察してるかもしれないけど。
ドキドキと心臓が早くなるのを感じながら相澤先生の答えを待つ。
「なんだ、てっきりもう言ってるのかと思った」
相澤先生は意外そうに言った。つまり言ってもいいということか。わたしは頭を振った。
「勝手に言って相澤先生に迷惑かけたくないですし、相澤先生の大親友ですから、わたしから言っていいのかな、とか思ったり」
「大親友じゃない、腐れ縁なだけだ」
相澤先生が苦々しい顔をするから、わたしは笑みをこぼす。
「それじゃあわたし、マイクに伝えますね。それから、ミッドナイトもいいですか」
「ミッドナイト……まあ、いいよ。でも覚悟しとけ」
覚悟とは一体なんだろう。わたしは相澤先生の言葉の先を待つ。ひらひらと桜の花びらが舞っていて、そして相澤先生の髪の毛についた。なんて美しい光景なんだろう。
「学園中に知られることになる」
「あ、相澤先生は大丈夫なんですか」
「別に隠すつもりはないよ。かといって言いふらすつもりもないが」
そっか、わたしたちの関係性が知られてもいいんだ。そう思うと胸が温かくなる。わたしのことを、認めてくれている気がした。なんとなく、隠さなきゃいけないのかなって思ってた、相澤先生はメディアに露出することは殆ど無いけど、プロヒーローだし、あまりこういうスキャンダルみたいなものはよくないのかな、なんて。
ささやかな幸せを噛み締めているわたしに、「それに」と相澤先生は言葉を続ける。
「バレて困るんだったら毎日一緒に帰らないだろ」
「あ……そっか……ふふ。でも毎日一緒に帰ってくれて、大変じゃないですか」
「大変じゃない。一緒に帰らないほうが心配だからこの方がいいんだ。だからもう二度と、一緒に帰らないとか言うなよな」
相澤先生にフラれた日、わたしは相澤先生のことを強く拒絶した。それをまだ覚えているらしい。わたしは苦笑いを浮かべる。
「だって、フラれた人と一緒に帰るなんて無理ですよ。もう二度と言いません、だってずーっと一緒にいたいし」
デレデレとだらしのない笑顔を浮かべてわたしが言うと、相澤先生は黙り込む。その瞬間わたしはハッと我に返る。グイグイと行き過ぎて引かれたかもしれない。瞬時に猛省する。
「ご、ごめんなさい、ちょっと調子乗りました」
「なんで謝るんだ」
「だって、ずっと一緒にいたいとかちょっと重いですよね……」
「……ん、いや、なんというか」
歯切れの悪い返事をしながら、相澤先生は首に手をやる。
「俺は恋愛関係には疎いから、なんて返せばいいかわからないだけだ」
「じゃあ、引いてないですか……? わたし、相澤先生のこと大好きだから、こういうこと、多分たくさん言うと思います」
相澤先生の足取りが止まった。わたしも止まり相澤先生を見ると、唇を固く結んで視線を彷徨わせている。今相澤先生はどういう状態なのだろうか。何を考えているのだろうか。少し間が空いて、相澤先生は再び歩き出すと、わたしの手を掠め取った。あ、付き合ってから初めて手を繋いだ。ドキドキと心臓がうるさい。
「好きにしろ」
ぽそっと言った相澤先生の耳が少し赤い。ねえ、もしかしたら相澤先生も照れたりするのかな。付き合う前には知らなかった相澤先生の色んな面を、これからもたくさん見れるのかな。それってとても幸せなことだ。ちょっとずつ、わたしたちの距離が縮まっていけばいいな。
「あ、相澤先生、ちょっと待って下さい」
相澤先生は足を止めると、手を繋いだまま不思議そうにわたしを見る。
「ちょっとだけ屈んでもらえますか」
相澤先生の髪の毛についた桜の花びらを取ろうかなと思ったのだ。そしてその花びらは家に飾っておくんだ。けれど背の高い相澤先生の髪の毛に触れるのは難儀なので、屈んでもらう。相澤先生はお願いしたとおりに猫背を更に丸めて身体を屈めると、わたしは手を繋いでない方の手で桜の花びらを取る。そして相澤先生に見せた。
「ついてました」
そこでわたしは相澤先生との距離の近さを思い知る。そりゃあそうなのだ。だって手を繋いでて、屈んでもらったのだから、顔の位置が過去一近い。わたしは顔中が完熟の苺みたいに真っ赤になるのを感じた。反射的に後退りしそうになるが、相澤先生はわたしの後頭部に手を添えてそれを許さない。そして、性急な動作で唇を重ねた。わたしは息を止め目を閉じ、相澤先生から与えられた甘美なキスを堪能する。柔らかい唇の感触と、無精髭のザラザラのコントラストに、チカチカと目眩がしそうだ。
唇はすぐに離れて、ふい、と相澤先生は前を向いた。わたしはキョロキョロとあたりを見渡すが、細い路地ということもあり幸い誰もいなかった。
「帰るぞ」
もうこれ以上ないくらい相澤先生のこと好きだと思ってたけど、毎日毎日がドキドキの連続で、好きが降り積もって、加速膨張して好きを更新し続けている。まさか二回目のキスも屋外だとは思わなかったけど、これってもしかして、さっきのわたしの言葉へのお返しなのかな。なんて言えばいいかわからないから、行動で示した……なんて、考えすぎかな。一人ニヤニヤと笑顔を浮かべながら歩いていると、相澤先生がふっと抜けるように笑った。
「だらしない顔してるな」
「幸せだなーって思いまして」
「そうか。……明日、メシでも行くか」
「え! い、行きます! 行かせてください!」
「何食べたいか考えとけ」
「はい!!」
桜の花びらをそっとポケットに忍ばせて、わたしは大きく頷いた。なんかすごい、付き合ってるって感じだ。
