18.キスインザムーンライン

 今日は満月で、月の明かりが夜を暖かく包んでいる。わたしは自転車を置いておくことにして、相澤先生と二人で夜の道を歩いている。相澤先生は何も喋らないし、わたしも何も喋らない。沈黙が非常に気まずい。どうして相澤先生は送っていくなんて言ったんだろう。こんな気まずい思いをするために送ると言ったわけではあるまい。この世界には、二人の足音と、時折車が通り過ぎる音だけになってしまったかのように静まり返っていた。わたしは月に照らされた二人分の影を見つめながら時間を持て余していた。

「新学期も忙しいんだな」

 急に話し出すものだから、わたしは思わず肩をビクリと震わせてしまった。

「そうですね。でもようやく出口が見えてきました。相澤先生も遅いんですね」
「まあな」
「……」
「……」

 また訪れた静寂。最近自転車で通勤しているからか、それとも気持ちの問題か、帰り道がやたらと長く感じる。フラれる前はもっと長い時間かかればいいのに、もっと相澤先生とお喋りができるのにって思ってたけど、今はこの時間を持て余している。たまにポツポツと会話をしては、また沈黙。というのを繰り返して、わたしの家の近くまでくると、不意に相澤先生は街灯の下で立ち止まった。わたしも立ち止まり、わたしたちは向かい合った。

「話がある」

 その言葉に、ずん、と心に重りが乗っかかり、沈んでいくような心地がした。この話の切り出し方って、大体が嫌な話だから。別れ話? いやいや、そもそも付き合ってないか。何の話かはわからないけれど、この話をするために相澤先生は一緒に帰っていたのだと気づく。

「なんでしょうか」

 心臓が嫌に早くなる。

「俺は彼女なんて言う非合理的な存在はいらないと言ったのを覚えているか」
「覚えてます、もちろん」

 あれはそう、初めて喋った忘年会の日の言葉だ。あのときのことが鈍い痛みとともに思い返される。遠い昔みたいに感じるけど、たかだか3ヶ月前の出来事だ。相澤先生たちと過ごした3ヶ月はとても濃い日々だったな。

「俺は曲がりなりにもプロヒーローで、絶対に明日が約束されているわけじゃない。それに教師だから、生徒たちのために俺ができることなら何でもやるつもりだ。だから彼女だとかは俺には不必要で、重荷なだけだ」

 わたしのことを改めてフろうとしているのだろうか。もう死んでるっていうのにグサグサとめった刺しにされている気分だ。そんな何回もフラれなくたって、ちゃんと諦めるっていうのに。相澤先生の目には、まだ未練ズルズルに見えたのだろうか。だから、さっさと諦めてくれっていうことなのかな。

「それなのにお前ときたら、俺の気なんてお構いなしにどんどんと俺の中に入ってくる」
「はぁ……」

 ザ・生返事を返してしまった。改めてフるのか? それとも違う話なのか? わたしは相澤先生がなんの話をしたいのかよく分からなかった。わたしの理解を置き去りにして、相澤先生はどんどんと話を進めていく。

「俺も名前が好きだ」

 突然、なんの脈絡もなく矢のように放たれた言葉は、ぐっとわたしに突き刺さって、思考が停止した。想像もしなかった言葉を言われると、うまく飲み込めないらしい。しかもこのタイミングで名前で呼ばれて、もう訳がわからない。わたしの処理能力を超えた。俺も、名前が、好きだ? 好きってあの好き?

「え……いや、え? そんな、なんですか、ちょっとよくわからないです」
「なんでわかんないんだ。これ以上になくシンプルだろうが」

 相澤先生が距離を詰めてきて、そして、わたしたちの距離がゼロになった。ぎゅっと抱きしめられて相澤先生の優しい闇に包まれる。え、わたし相澤先生に抱きしめられている? 頭が混乱しているが、これは現実なんだと知らせるように、相澤先生の匂いが鼻腔いっぱいに広がった。ああ、大好きな匂いだ。それから服越しに相澤先生の鼓動も聞こえてきた。少し早くて、もしかしたら相澤先生も緊張しているのかもしれないと思うと、キュンと切なくなる。

「これでもわからないか」

 優しい声色で相澤先生が言うものだから、わたしは鼻の奥がツンとなるのを感じる。こんなのずるい。胸が痛いけど、嫌な痛さじゃない。幸せで幸せでぎゅぅぅっと捩れてしまったような痛さ。わたしは首を横に振った。

「でもこの間はすまんって」

 相澤先生の中でもごもごとわたしが言えば、相澤先生は離れてわたしたちは改めて見つめあった。ああ、かっこいい、好きだ。大好きだ。閉じ込めて、忘れようとしていた思いは、まるでびっくり箱のように、いとも簡単に飛び出てきた。

「そうだ、付き合うつもりなんてなかった」

 “なかった”。つまりは過去形の言葉。どうしようわたし、すごくドキドキしてる。

「さっきも言ったが、恋人はいらないんだ。不要なんだ。だが……俺に向けてくれた笑顔を、他の奴に向けて欲しくないと思った。俺だけに向けていろと思った」

 なにそれ、相澤先生そんなこと思ってたの? 胸がくすぐったくて、ムズムズする。とても信じられない展開に、ようやく頭が追い付いてきたようだ。

「お前、よくもこんな非合理的なもん俺の中に置いていったな」

 相澤先生は優しい微笑みを浮かべて、ぽん、と大きな手をわたしの頭においてぐしゃっと撫でる。顔が熱い、胸が痛い。好きが溢れ出そうだ。ていうか多分、顔に「好き」って書いてあると思う。
 手はストンと落とされて、相澤先生は言葉を続けた。

「だがさっきも言ったが、俺はプロヒーローだ。いつか名前に悲しい思いをさせるかもしれないし、大変な時に名前のそばにいられない可能性もある。……それでも俺と付き合ってくれるか」

 真っ直ぐに見つめられて、わたしは瞬時にさまざまなことを考える。災害が起これば被災地に救助に向かうだろう。その先で命を落とすことだってあり得るだろう。自らの命を賭してでも、見知らぬ誰かを助けるのだろう。わたしはその時、生きた心地がしないまま、相澤先生の帰りを待ち続ける。とても辛くて、苦しくて、心が壊れてしまうかもしれない。それでもわたしは、

「ちゃんと覚悟しているつもりです。例えこの先、胸が張り裂けそうな悲しい出来事があったとしたって、わたしは、相澤先生が真っ先に、ただいまって言ってくれる存在になりたいです。そしたらわたしは、お帰りなさい。ってお迎えしますから。だから……付き合いたいです……相澤先生が大好きです」

 喋りながらどんどんと目に涙が溜まって、堪えきれない雫が溢れ出る。けれど表情は笑顔のままだ。嬉し涙って、こういう事を言うんだね。なんて幸せなのだろう。今、わたしの気持ちは、回り道をしながらも相澤先生に繋がって、一つになった。こんな幸せ、あるんだろうか。

「普通の恋人同士というわけにはいかないだろうが、よろしくな」
「はい! あぁ、夢みたいです……信じられません、あとからやっぱり嘘でしたとかナシですよ?」
「……なら信じさせてやる」

 相澤先生がわたしの頬に手を添えたと思ったら、流れるような動作で長身を屈めてわたしの唇に優しいキスを落とした。相澤先生の影、匂い、ちょっと乾燥した唇の感触、それから伸びたヒゲがチクチクと当たって、それがわたしに確かに夢じゃないと言っているようだった。