最終的に地獄絵図となったマイクとミッドナイトとの飲み会から数日。4月に入り、学校内の桜のつぼみが膨らみ出して、いよいよ春の気配を感じさせる。風の匂いも、冬のツンとした匂いから、春の緑を感じさせるものへと変わった。新しい顔ぶれが生徒たちも、職員たちも増えて、新学期が始まったのだと感じる。
ランチラッシュのメシ処でお昼ご飯を食べたのちに歯を磨いていると、同期の男の子から連絡が来た。雄英に就職をする人の殆どは雄英出身の人で、同期はだいたい同級生だ。この同期も例に違わず同級生の、なんなら同じクラスだった。そういうわけで同期は顔見知りばかりというのもあり、昔はよく飲みに行ったりしたし、同期会というものも盛んに開催していたものだが、最近は忙しかったり、家庭を持った人が増えてきたのでご無沙汰だった。だから彼から連絡が来るのも久々だった。歯磨きをしていたわたしのスマホが震えたので、開く。
『お疲れ! この後時間ある?』
昼休みが終わるまではあと30分ほどある。あるよ、と返信をして、口をゆすぐ。するとすぐに返事が届いた。
『じゃあ10分後に自販機前集合な』
オッケーとスタンプを送り、約束の時間に自販機前に行くと、ワイワイと楽しそうに談笑している生徒たちに紛れて同期がスマホを見ながら自販機のそばで立っていた。小走りに駆け寄って声をかける。
「おまたせ。どうしたの、珍しいじゃん」
「お、お疲れ。とりあえず何飲む? 奢るよ」
「いいの? やったー」
なんか頼みごとでもあるのだろうか、なんて思いつつ、自販機の前で少し悩み、飲みたい飲み物を指差す。
「これがいい」
「オッケー」
彼がボタンを押し、スマホを近づけると決済が完了してゴロンと音を立てて飲み物が出てきた。彼も飲み物を買うと、わたしたちは飲み物を片手に自販機の横へと移動した。わたしはひとまず礼を述べる。
「ありがとう。これは絶対頼み事があるってことね」
「名前には何でもお見通しか」
「当たり前よ、何年の付き合いだと思ってるの」
「高校の時からだからもう……いや、やめよう」
「そうね。年を感じて虚しくなるだけだもん」
「大丈夫、名前はあの頃のままぜーんぜん変わってないから。ずーっと可愛いまま」
「みんなも変わってないと思うけど。ってか絶対思ってないでしょ」
気心の知れた同期との会話は気も使わないしとても楽だ。すっかり気を抜いて会話をしていると、自販機で飲み物を買った人がすっと横を通り過ぎていった。その瞬間、時が止まったかのように思えた。誰かが横を通り過ぎること自体は普通のことだが、その人物に問題がありだった。こちらを気にする風でもなく、通り過ぎていったその人は、全身真っ黒な服に白い捕縛布を首元にぐるぐると巻いた相澤先生だ。いつの間に相澤先生は自販機にいたのだ? 全然気が付かなかった。わたしは急に表情が固くなるのを感じる。そしてそれは同期にも伝わっていて、訝しげな顔になる。
「どうした? 急に表情強張ったけど」
同期と喋っているところを見られたからって、何の不都合もない。ただ普通なことだ。それに相澤先生からしたら、ここにいるのがわたしだって気づいていなかったかも知れない。けれどなんでか見られてしまったという謎の罪悪感がチリチリと胸を焦がした。
「あ、な、なんでもない。それで、なにか頼み事でもあるんでしょ?」
平静を装って本題に戻ると、「実は」と同期は話し始める。
「5月のゴールデンウィークあたりに久々に同期会しないか? それで、一緒に幹事してくれないかなーって」
「そんなことだろうと思ったよ。でもいいね、最近全然集まれてないし、やろやろ!」
「よっしゃー! 決まりな。じゃあまたあとで連絡するわ」
「オッケー。わたしも楽しみ」
昼休みも終わりに差し掛かってきたので、わたしたちはそれぞれの場所へと戻っていった。同期会かぁ、楽しみだな。少し先の楽しみな予定というのは、仕事を頑張るための活力にもなる。年度末から続く年度初めの忙しい時期もなんとか乗り切れそうだ。
現実に舞い戻ったわたしは定時を過ぎて残業していて、しょぼしょぼした目でパソコン画面を見ていた。今週で新学期業務の目処が立ちそうだ。これからやらなければならないことを整理していると、事務室のドアが開く音がした。反射的に顔を上げて来訪者を確かめると、事務室をゆらりと覗き込む黒い人影が現れた。見た瞬間に心臓が縮こまって、パソコンに隠れるように身を潜めた。
(え、なんで、え、相澤先生?)
相澤先生が事務室を覗き込む姿だった。冷静にならないと、と思いこんがらがった頭でTO DOリストを作成しようとするも、余計な考えがぐるぐる巡って思考は堂々巡りになり、何も書き連ねることができない。遠くから足音が聞こえてきて、それがどんどんと近づいてくるのを感じる。かくれんぼで鬼から身を隠してるみたいな緊張感が漂う。足音はわたしの席のすぐそばで止まり、わたしの思考はもれなく停止した。
「名字、仕事は何時に終わるんだ」
頭上から降り注ぐ相澤先生の声。わたしは観念して顔をあげると、充血した三白眼がわたしを見下ろしていた。
「あ……と、もう間もなくですが」
相澤先生はもう帰ってしまったわたしの隣の席にすとんと腰掛ける。
「終わったら送ってく」
「え、いや、大丈夫です」
フラれたときにもう送らないでほしいって言ったはずなのに、忘れてしまったのだろうか。それとも分かってて言っているのだろうか。いずれにしろ、お断りだ。もう相澤先生への気持ちは忘れたいのだ。今ここで相澤先生に送ってもらったら、暖炉の火を消したいのに、せっせと薪を焚べるようなものだ。だが相澤先生は食い下がる。
「マイクには送られてるんだろ」
「マイクは自転車なので」
「今日だけでいいんだ」
なぜそんなにお願いするのだろう。だって、わたしのことを送っていくのなんて、こちらからお願いすることはあれど、相澤先生からお願いされる筋合いというものはないはずだ。そこまで言われて断る理由だってない。今日だけでいいと言うのも一体どういうことなのだろうか。相澤先生の瞳からは何を考えているかは伺い知れないが、わたしは戸惑いをそのままに、頷いた。
