16.観測者たちは騒がしい2

 いつまでも続くと思われた冬の寒い気候も、徐々に和らぎを見せ始めた。もう少しすれば綺麗な桜が咲き誇り、ある者の門出を、ある者の始まりをそっと見守るのだろう。そんなことを思いながらも、年度末に向けて駆け足で進む日々を、ただただ慌ただしく過ごしていた。
 先日のマイクとのサシ飲みで、何やら相澤先生も憎からず思っている的なことを言ってくれて、わたしも嬉しかったものだが、それについて思いを馳せることはなかった。そんな時間すらないくらい仕事仕事仕事の毎日なのだ。それに、多分そんなことないって思うから。悲しいけど、これが現実だ。
 今日も今日とて帰る時間が遅くなってしまった。この時期はみんな残業をするものだから、謎の安心感があって、同じフロアで誰かが残業を続けていると、何となくもう少しやってようかなと思ってしまう。とはいえいい時間になってしまった。まだまだ残っている人もいるが、そろそろ帰ろうかと帰り支度を始めていると、事務室のドアが開いて「ヘーイ! お疲れリスナー」と、こんな時間だと言うのに随分と陽気な声が響き渡る。反射的に見れば、声の主はマイクのようだ。職員は口々に「お疲れ様です」と言う。マイクは事務室を見渡していると、やがてわたしと目が合って、こちらへとやってきた。

「お疲れ名前ちゃん、今から帰り?」
「お疲れ様です、はい、そうです」
「俺も今日、バイセコーで来たんだ、だから一緒に帰らねぇ?」

 バイセコーがBicycle、つまり自転車だと言うことに気づいて、わたしは「いいですね!」と頷く。自転車で一緒に帰るなんて学生の時以来だ、となんだか心が躍った。わたしはすぐに荷物をまとめると、まだ残っている同僚たちにマイクと一緒に挨拶をして、事務室を後にした。薄暗い廊下を歩いて、職員室の前に差し掛かろうというときに、職員室からぬっと人が出てきた。突然のことに心臓が飛び跳ねそうになるが、そのシルエットを認めて、わたしの胸はぎゅっと締め付けられた。忙しくて、もう殆ど考えないようになっていたけど、それでも目の前に現れるとわたしの身体は自由を失う。そう、相澤先生が職員室から出てきたのだ。

「よぉイレイザー、お前も帰るとこか」

 マイクが相澤先生の前で立ち止まって声をかける。手持ち無沙汰なわたしはなんとなく相澤先生を見ることができなくて、相澤先生のつま先あたりを見ていた。

「あぁ。お前らもか」
「おう。んじゃあな」

 思いのほか早く二人の会話は終わった。マイクが気を遣ってくれたのかもしれない。マイクはすっと相澤先生の横を通り過ぎて行ったので、わたしも歩き出す。相澤先生の顔を見れば、相澤先生もわたしを見ていた。ただそれだけでわたしの身体の真ん中がじんと熱くなっていく。

「お疲れ様でした」

 自分で自分にはなまるをあげたいくらい、自然な表情、自然な言葉で挨拶をできた。そして相澤先生の横を通り過ぎると、すぐに視線を前に戻した。

「気を付けて帰れよ、おやすみ」

 わたしの背中に優しい相澤先生の声が沁みていく。ずるいなぁ、ちょっと声をかけてもらっただけで霧散していたわたしの恋心はすぐに元通りになってしまう。相澤先生はどんな顔をしているんだろう。振り返って見てみたいけれど、勿論そんなことはできない。声色から察するに、きっと遠くから生徒たちを見守っているときみたいな穏やかな顔をしているんだろうな、と想像しながら、わたしはすぐにマイクの横に並んで校舎から出た。
 自転車置き場に置いてある自転車は、大体いつも同じものがあるのだが、確かに今日は見慣れないロードバイクが置いてあった。マイクはそのロードバイクのサドルをぽんと叩いて謎のカッコよさげなポーズを取った。

「紹介するぜ、俺の愛車だ」

 自転車置き場の電灯に照らされたそのロードバイクはマイクのイメージカラーである黄色に、黒のストライプがアクセントに入っていてとってもカッコよかった。

「かっこいいですね、マイクっぽい」

 思った通りのことを述べれば、マイクは嬉しそうに鼻の下を擦った。分かりやすくとても嬉しそうだ。

「よし、名前ちゃんちまで送ってくから道案内よろしくな」
「え、遠いんでいいですよ、途中までで」
「それじゃダメなんだっつーの、たまには甘えろよ、この甘え下手ガール」
「あ、甘え下手ガール……」

 そんな風に思われていたのか。ガールっていう年齢でもないけどな。相澤先生にしても、マイクにしても、これがプロヒーローの性なのか、とても優しい。わたしは甘え下手ガールを返上してやらんばかり、「よろしくお願いします」と笑顔を返した。
 そんなこんなでわたしたちは自転車で帰路につく。いつもの帰り道もマイクと一緒だととても楽しかった。残業後の暗鬱とした色のない景色が、まるで違って見える。相澤先生と一緒に帰っていたときもそうだった。あぁ、最近は全然思い出すこともなかったのに、さっき相澤先生と会ったせいで、やたらと思い出してしまう。
 マイクはわたしの普通の自転車にスピードを合わせて隣でこいでくれた。なんてことない話をたくさんしてくれて、たくさん笑わせてもらった。わたしの家につくと、

「いい夢見ろよなリスナー」

 と頭をぽんぽんして、マイクは帰っていった。
 それからもマイクはランダムに現れてはたまにわたしと一緒に帰った。この間、自己採点はなまるの対応ができたのもあって、相澤先生に鉢合わせしてもにっこり笑顔で挨拶ができるようになった。なんなら軽い立ち話だってできるようになった。まるで恋心を抱く前に戻れたようだけど、実際は、やっぱり引きずっている。情けないけどそんな早く切り替えられたら苦労しないよ。
 そんな日々を過ごしていると、マイクから再び飲みのお誘いが来た。ミッドナイトが近況を知りたがってるから飲みたがっているとのことだ。わたしとしてもミッドナイトに玉砕した話をしたいと思っていたから、好都合だった。時間も経って、しんみりせずに言えると思うから、頃合い的にも丁度いい。土曜日にこの間と同じ飲み屋さんで飲み会を開くこととなった。
 土曜日―――一番最初にお店に辿り着いて、先に店に入る。これからミッドナイトから根掘り葉掘り聞かれるのかと思うと、なんだかソワソワしてしまい、落ち着かない。
 予定時間の少し前にマイク、ミッドナイトがやってきて、楽しい飲み会の始まりだ。相変わらず休日の私服姿の二人はとってもセクシーだ。ビールを頼んで乾杯すると、早速ミッドナイトお姉さまがぶっこんでくる。

「それで、それから相澤くんとはどうなのよ」
「実はですね……」

 わたしはこれまでの話をすると、ミッドナイトはこれでもかと言うほど目を見開いて仰け反った。

「はあああ? ン何やってんのよあの男は!! おかわり!!」
「だろー? 理解できねぇぜ。すみませーん! 中ジョッキ二つ!!」

 マイクが頷きつつ、よく通る声でミッドナイトとマイクのおかわりを頼む。わたしは曖昧な笑みを浮かべた。おかわりビールはすぐにやってきて、間髪入れずにミッドナイトはビールを煽る。

「やっぱりわたしのことなんてなんとも思ってないんですよー」
「納得できないわね。どう考えても相澤くんも満更でもないと思ったのに」

 どれだけミッドナイトやマイクがそう思っても、わたしはフラれたという事実は変わりないのだ。相澤先生にとっては路傍の石と変わらない存在なのだ。

「期待に答えられなくて申し訳ないです」
「名前が謝ることじゃないわ。相澤くんが謝るべきよ」

 ミッドナイトの謎理論にマイクも、「全くだぜ」と同調した。この二人、本当に仲良いよね。ミッドナイトは頬杖をついて首を少し傾ける。最高の色っぽい。その色香に同性でありながらわたしも惑わされてしまいそうだ。

「でも大丈夫。諦めずに歩き続ければ、きっと未来の道では繋がっているわ」

 未来の道では繋がってる、か。ミッドナイトの言葉を脳裏で反芻し、少し考える。わたしが諦めなければ、いつかは……。と、この期に及んでまだ可能性を信じている自分がいて、思わず苦笑いをする。

「なになに、ミッドナイトってば、それっぽいこと言うじゃねえか」
「でもそんな感じしない? まだ相澤くんに覚悟がないだけなんじゃないかしらね」
「それは俺も思うぜ。アイツ真面目だから」
「もっと自分の心に素直になればいいのに」

 マイクとミッドナイトが会話を繰り広げていく。この会話を鵜呑みにして期待しないように、薄いフィルターを張っていたつもりだったのに、結局期待することをやめられなかった。そして愚かにも未だに可能性を信じている自分がいる。一方で、諦めて忘れないと、と思う自分もいて、その両極端な思いの中で常に揺れ動いている。
 二人が会話をしていることをいいことに、ぼうっと物思いに耽っていると、カチャカチャと食器がぶつかるような音が聞こえてきて意識が戻る。ミッドナイトが怪しげな動きをしていたのだ。

「……ミッドナイト、それは一体?」

 ミッドナイトの前には気がつけば多種多様なお酒と調味料が置かれていて、グラスにはお世辞にもきれいとは言えない緑色の液体が入っている。嫌な予感がした。

「これ? 名前の前途を祝した祝福の一杯よ。隠し味は何だと思う? ふふふ……わさびよ」

 だから緑色!! 絶対飲みたくない!!! いつの間にやらミッドナイトの困った酒癖が発動してしまったようだ。マイクが困ったような顔でわたしと祝福の一杯を見比べる。

「あー……こいつは祝福されすぎてゴートゥーヘブンしちゃうんじゃねえの」
「あら、それは作り甲斐があるってものよ」

 ミッドナイトは褒め言葉と受け取ったらしい。蒸気した頬が最高に色っぽいが、手に持ったグラスの殺傷能力は高そうだ。

「さ、召し上がれ」

 すっとわたしの前にグラスが差し出される。どうしようどうしようどうしよう……逃れられない現実に、藁にもすがるような思いでマイクを見れば、マイクは曖昧に笑んだ。堪らずわたしは、ええ、助けてくれないの? プロヒーロー? という目線を送れば、マイクは覚悟したような顔つきになり、すっとグラスを掠め取って一気に飲み干した。

「ぐええええええええ!!! ゴートゥーヘル!!!!!!」
「ちょ、何勝手に飲んで地獄に行ってるのよ! これはあたしが名前に作った一杯なのよ! でもそうね、そういうことならマイクにも作ってあげるわ」

 語尾にハートマークが付きそうな甘い声でミッドナイトは言った。ありがとうプレゼント・マイク。あなたの勇姿、一生忘れないよ。