15.閑話 観測者とアンタレス

 マフラーに顔半分をすっぽりと隠し、気だるげに背中を丸めたイレイザーヘッドこと相澤がやってきた。居酒屋の前で待っていたプレゼント・マイクこと山田はニッと笑みを浮かべてそんな相澤を 片手を挙げて迎える。

「ヨォ、イレイザー。休みんとこワリィな」
「ワリィと思うなら呼び出すな」

 相澤の尤もな言葉に、山田は「シヴィー」と返しつつ、店に入っていく。案内された場所はカウンター席で、上着を脱いで座るのもそこそこに取り敢えずビールを頼む。

「で、なんだよ緊急な用事って」

 ―――遡ること2時間前、自室でパソコンに向かって作業をしていた相澤のスマホが震えて着信を報せる。スマホ画面を見てその名前に一瞬顔を顰めつつ、渋々電話に出た。

『ヘイ、イレイザー! アーユーオーケイ??』

 耳をつんざくような大きな声が聞こえてきて、反射的にスマホを耳から離すと、相澤の眉間に深いシワが刻まれる。今日も今日とてテンションの高い山田の声に、なけなしの相澤のエネルギーが吸い取られていくようだ。電話に出たことを速攻後悔する。

「なんだ、用がないなら切るぞ」
『ストォーップ! 用ならあるに決まってんだろ! 緊急な用事があるんだ、エマージェーシー!! 今から2時間後に集合な!!』
「いやおいマーーー」

 一方的に電話は切られて、静寂が戻ってきた。

「俺に用事があったらどうするんだ、くそ」

 スマホ越しに山田に対して悪態をつくが、勿論返事はなかった。用事はないため行けるのは行けるのだが、それが見透かされているようでなんとなく癪だった。
 そういうわけで山田に呼び出され、寒空の中指定された居酒屋にやってきたわけだ。
 ここに至るまでの経緯を脳裏で思い返しつつ、運ばれてきたビールを流し込み、山田の言葉を待つ。

「お前、名前ちゃんことフったんだって?」
「ぶっ」

 思いもよらない角度からのド直球な話に、相澤は堪らずビールを吹き出す。山田はそんな相澤にニヤリと口角を上げ、吹き出たビールをおしぼりで拭きつつ続ける。

「俺はてっきりオメェも名前ちゃんのこと好きなんだと思ってたんだが」
「は?」

 先程から相澤は突拍子のない山田の言葉に困惑しっぱなしだ。

「いやいや、だって好きでもなきゃエブリデイ・エブリナイ送ったりしなくね?」
「色々事情があるんだよ。つーかなんでお前がそのこと知ってるんだ」

 聞いてすぐに山田だって名前と仲がいいのだから、名前から聞いたのかもしれないと思った。とはいえ、送っていくようになった経緯を知っているかはわからないため、余計なことは言わないようにする。

「名前ちゃんから聞いたんだよ。夜道で襲われたって話も聞いてる」

 山田の言葉を聞いたとき、相澤の胸に形容しがたいモヤッとしたわだかまりのようなものが広がった。これは前にもあった。あのときも確か―――と思案に耽りそうになった自分に気づいて、我に返った。今はそのことについて考える時間ではない。

「聞いてるならわかるだろ、心配だから送ってたんだ」
「んで今はアローンで帰ってると」
「……まあ」
「今は心配じゃねえの?」
「心配に決まってんだろ。だけどアイツが……」

 ―――『本当に。―――大丈夫です、送ってもらうのは辛いです』
 あの日の夜の、明確な拒絶をはらんだ言葉が思い返されて、鈍い痛みとともに魔法にかけられたようにぴたっと言葉が止まる。その痛みには気づかないふりをして、言葉の続きを口にする。

「……送ってもらうのが辛いっていうから、送ってやるわけにはいかないだろ」
「まあそりゃあしゃーないよな。フラれた相手に送ってもらうなんてツラすぎだろうよ。……なあ、なんでそんなに名前ちゃんのことが心配なんだと思う」
「そりゃ誰だって心配するだろ」

 なんで、なんて考えたこともなかった。命の危険を感じたときに真っ先に自分を頼ってくれた後輩を、心配しないわけがない。あの日のことは、鮮やかすぎるくらい相澤の中に刻み込まれている。電話越しの怯えた声色。自分の心臓が嫌に早く動いている感覚。怯え切った名前の顔が、自分の顔を見て安心したような変化していく。隙間一つないほどの抱擁。繋いだ手から伝わる冷たい体温が少しずつ交わっていく感覚。あの時確かに、何が何でも、この腕の中にいる女性を守らなければならないと思った。
 山田はそんな相澤をちらと横目で見て言う。

「心配はする。でも俺が思うに、さすがに相澤消太という人間はエブリデイは送らないと思うわけよ。だっていつまでも送っていけるわけじゃねえんだから、一人で帰れるように名前ちゃんを仕上げると思うんだ」

 山田の鋭い指摘に相澤は黙す。そう、それくらい相澤だってわかっている。一人で帰れるようにするほうがもちろん良い。自転車を持たせる、護身術を教える、色々とできることはあったが、そうしなかったのだ。相澤は毎日送ることを選んだ。
 ほんの少しの沈黙の後、「そろそろそうしようと思ってたところだ」となかなか苦しい言葉を返す。

「Huh。まあいいけどよ。とはいえ俺も名前ちゃんのこと心配してるんだぜ。だからさ、こういうのはどーよ?」

 山田はニヤリと口角を釣り上げた。この顔は、何か良からぬことを企んでいる顔だ。

「俺がイレイザーの代わりに名前ちゃんを送る」

 やっぱり嫌な提案だった、と相澤は考えるが、瞬時に別に、名前にとっては悪い話ではなく、寧ろいい話であることに気づく。嫌なのは―――
 
「……あいつは自転車を買ったからお前が出る幕はない」
「俺も自転車買って一緒に帰るし。そしたらモアセーフティだろ?」

 確かに山田の言うとおりなのだ。自転車で帰っていたところで悪意の標的になる可能性はあるし、山田がそばにいたらそれを防ぐことができる。だが―――

「……まあな」 
「今、お前、ちょっと嫌な気持ちになったんじゃねーの?」

 山田は鋭い。それとも付き合いの長さがそうさせるのか。相澤の中に渦巻くもやもやが見透かされているようで、なんだか腹立たしい。全く嫌なやつだ、と相澤は心のなかで悪態をつく。

「別になってねえ」
「ウソつけ。顔に出てるっつーの、シビィー! もしもよ? イレイザーが嫌な気持ちになったとしたら、それってやっぱり、気になってるってことじゃねーの、って思うわけよ。アンダスタン?」
「……勝手に思ってろ」
「んだよ、つれねーやつだな」

 この話はこれで終わり、と言わんばかり相澤はビールを飲み干した。
 今までもそうかもしれないと思うことは幾たびもあった。その度に見ないふりをしていた。それを今、知ってか知らずか山田が無理やり認知させてきた。

―――『相澤先生……あの、その……好きです。大好きです。わたしと、付き合ってほしいです』

 あの日の名前の告白が思い返される。素直に嬉しかった。柄にもなく心臓が跳ねるように心が躍った。だが、脳が即座に付き合ってはいけないと警鐘を鳴らした。だから断ったのだ。
 恋人はいらない、欠けてしまったら痛い部分なんて作るわけにはいかないのだ。恋人になったら、いいや、恋人でない今の状態だって、これ以上名前と一緒にいたら、欠けてはならない相澤の一部になってしまう。だからフって、距離が離れるのならばそれが丁度いいとさえ思った。
 消すことは得意なのに、この気持ちだけは消せない。だから、やはり気づいてしまった気持ちは、やっぱり見ないふりをする。

「ほんとに送ってっちゃうかんな、イレイザー」

 ざわつく胸も、すべて見ないふりをする。