14.観測者は考察する

 泣いた、とにかく泣いた。こんなに泣いたのはいつぶりだろうか、というくらい気がつけば涙が溢れて、浅い眠りを繰り返して朝を迎えると、目はパンパンに腫れていた。鏡に映った自分の別人のような顔を見た時に、思わず笑ってしまった。失恋をして泣くなんて、何歳ぶりの体験だろうか。こんなに好きだったんだ、と改めて思い知る瞬間でもあった。
 もう少し慎重に事を運べばもしかしたらチャンスあったかな……早まったかな……なんてウジウジ考えたりもしたけれど、時すでに遅しってやつだ。
 マイクやミッドナイトには暫く言えそうになかった。フラれたって事実を言葉にすることによって、改めてそのことを再認識して、立ち直れなさそうだから。聞かれた勿論言うけど、自分からそのことを話すのが憚られて、まだ何も言えていない。
 心の中ではゴリゴリに引きずっているわたしだけど、外ではいつも通りだ。最近は入試準備、入学準備、新学期準備とやることがテンコ盛りで、気も紛れている。暇だと色々と考えてしまうが、忙しいと考える暇もないので、かえってありがたい。たまに相澤先生とすれ違っても、心臓は抉れるくらい痛むけど、普通に挨拶をしている。時折、何か物言いたげな視線を感じる時もあるけれど、かといって何かを言ってくるわけでもないので、特に気にせずに通り過ぎる。それから、相澤先生から仕事を頼まれることもなくなった。分かってはいたけれど、やっぱり寂しい。改めて、わたしたちは別の軌道を回り続ける惑星となったのだ。これはわたしが選んだ未来だ、仕方がない。
 まだまだ寒さが続く3月上旬、放課後の校内で授業終わりのマイクと出くわした。マイクは片手をあげてわたしの方へと近寄ってきた。

「ヨォ、名前ちゃん」
「お疲れ様ですマイク」

 絶対聞かれるよな、と思いながらも、日々を重ねるごとに少しずつ立ち直り始めたから、今なら言える気がした。

「最近イレイザーとどうよ?」

 やっぱり聞かれるよね。ニヤニヤと楽しそうなマイクをこれから驚かせてしまうと思うと少し申し訳ない。わたしは気持ち、ぴんと姿勢を正す。

「実は……わたし、フラれちゃいました」
「は!?!?」
「しーっ!」

 案の定マイクはいいリアクションをしてくれた。辺り一帯にマイクの声が響き渡って、わたしは慌てる。通りすがる生徒たちが不思議そうにわたしたちを見ているのを感じるが、マイクは未だに呆然としている。

「……いやいやありえねーっしょ。絶対イケると思ったんだが」
「やっぱマイクの勘違いですよーもー」

 わたしは肩を竦めた。マイクは腑に落ちていない様子だが、事実は事実だから仕方ない。マイクは少し考えるように腕を組むと、やがて「よし」と呟いた。

「近々飲みに行こうぜ。平日夜は忙しいだろうから、サタデーナイト辺りでどうよ」
「わかりました。わたしのこと慰めてください」
「オフコース!  んじゃあとで連絡するな」

 ぽん、とわたしの肩を叩いてマイクは歩いていった。マイクと飲みに行く日までには、笑って話せるようになるだろうか。いや、何を弱気なことを言ってるの名字名前。笑って話せるようになるんだ。なんてことない、ただ相澤先生と仲良くなる前のわたしに戻るだけ。ただそれだけのことなんだから。

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 マイクからお誘いがあったのは、入試が終わって一段落した3月下旬にかかるころだった。マイクはだいたい飲みに行こうぜという話から実際に飲みに行くまでのスパンは短い。月曜に話があればその週の金曜には飲みに行くことが多い中、今回へ割と期間が空いたほうだった。
 約束の土曜日、以前マイクとミッドナイトと飲みに行ったお店に向かう。見上げた空は、橙と濃紺が二層に分かれていて、その境は美しい交わりを見せている。最近は日も伸びてきて、暖かい日も増えてきた。確実に春が近づいているのを感じる。春は切ない、少し早めにやってきた別れを、春が来るたびに思い出すのだろうか。それとも、ゆっくりとわたしの中に溶けていき、最後にはもう輪郭をなくして消えていくのだろうか。
 約束の時間の5分前に店の前につくと、程なくしてマイクもやってきた。学校で会うマイクはいつも長い髪を鶏冠みたいに逆立てているけれど、休日のマイクは髪を一つにまとめていて、個人的にはこっちの姿のほうがいいなと思ったりもする。

「ヘイ、レディを待たせちまうなんて申し訳ねぇな」
「全然待ってないですよ。寧ろお休みのところすみません」
「何いってんだ、おれが誘ったんだぜ。さ、入ろうぜ」

 店に入ると、まだそこまで人は入っていないようだった。少し早い時間だから、これから人が来るのだろう。個室に通されると、お互い上着を脱いでハンガーに掛けた。ひとまずビールと適当なおつまみを頼むと、すぐにビールが運ばれてきて、二人で乾杯した。

「くぅーーーウメェ! 沁み渡るぜ」
「ここんところ忙しくて全然飲みに行けなかったんで、殊更沁みます……」

 忙しい時期が終わりを告げているのを、ビールを飲むことによって感じる。とはいっても、またすぐに忙しくなるんだけどね。

「さあ飲め飲め! プレゼント・マイクの奢りだぜ!」
「いえーい! マイク最高!」
「YEAHHHHHHH!!」

 と言うものの、マイクと飲みに行くときにお金を払わせてもらったことは一度もない。先輩の顔たてろ! とか、プロヒーローナメんな!  とか、なんやかんや言ってわたしの財布を無理やりカバンに押し戻すのだ。奢ってもらえるのが嬉しいとかじゃなくて、単純に、わたしに気を遣わせないような心配りをしてくれるマイクが大好きだ。
 一杯目を飲み、おつまみも提供され、2,3杯と何気ない会話を交わしながら飲んでいく。

「そんで、本題だがよ」

 ほんのり頬が赤くなったマイクが声トーンを少し落として言う。

「もうイレイザーのことは吹っ切れたか?」

 イレイザーという単語に、わたしの胸が鈍く反応する。前はもっと刃物で刺されたような鋭い痛みだったけど、今はもうその刃先も丸まってしまったようだ。そこに刺し傷がないか確かめるように、胸にそっと手を添えて答える。

「……吹っ切れたと言えば嘘になりますけど、前を向いてます。もともと、無理だってわかってましたし」
「そうか。……おれの見解を言わせてもらうと、やっぱりアイツは名前ちゃんのこと好きだと思うぜ」

 実に神妙な顔をしてマイクが言うものだから、冗談とかではないみたいだ。そもそもそんなよくわからない冗談を言うような人ではない。

「いやいや、好きだったらフラれませんよ」

 わたしは笑みを浮かべて軽く返すが、マイクは表情を崩さない。

「アイツは無意識に心を縮こませるクセみたいなもんがあるんだ。ぎゅっと固くして、これ以上何も入り込まないように、ってな。なぜって、最低限のもの以外持ちたくないからだ」

 マイクの言うことは抽象的だったけれど、何となく理解はできる。相澤先生にとって、恋人は―――というよりかはわたしは―――必要最低限の中には含まれていないのだ。なくてもいい、切り取られても痛くない、欠けても問題ない存在なのだ。またも心臓を、丸まった刃先でつつかれる。

「おれが思うに、アイツは今、心を縮ませてるんだと思う」

 相槌を打つことも出来なかった。なんといえばいいのか、何も思い浮かばなかったのだ。わたしはじっとマイクの言葉を待った。

「逆に言えば、縮こませなきゃいけねぇぐらい名前ちゃんがイレイザーの中に入り込んでるってことだと思うんだ」
「なんで……そう思うんですか」

 やっと絞り出た言葉は疑問だった。どうしてマイクがそこまでわたしに可能性を感じているのか、ただただ不思議だった。だってもう現にフラれているというのに。

「長年ダチやってるおれの勘ってやつよ」

 マイクの大きな瞳が綺麗にウインクをした。勘……それはもっとも根拠に乏しいものであるが、時に最も頼もしいものでもある。ふっと抜けるように笑みが零れた。

「そうですかねえ」
「もしこの勘が当たったら、そんときゃこのキューピット様に奢りだぜ」

 自信満々にサムズアップしたマイクに、わたし頷いた。過度な期待をせずに、当たったらラッキーくらいに頭の隅に置いておこうと思う。

「じゃあもしマイクの勘が外れたどうしますか?」
「熱烈なハグをプレゼーーー」
「いりません」
「シビィー」