翌日の土曜日、わたしは近所の自転車屋さんで自転車を買った。帰りはその自転車に乗って帰ったわけなんだけど、久々に漕いだ自転車は自分が思うよりもぐんぐんと進んで、風を切る感覚がなんだか楽しかった。
昨夜、わたしは悩みに悩んで、そして決心したのだ。自転車はその決心の証で、思わぬ出費になってしまったけれど、新しい相棒ができたことはとても心強かった。自転車ってまあまあ高いのね。
そう、わたしは、相澤先生に想いを伝えようと思う。でもそれは、決して付き合える可能性があるからではない。寧ろその逆で、絶対に付き合えないと思うからフラれたいのだ。結局わたしは、今のこの場所には満足できない。近くて遠い、決して交わることが出来ないジャイロスコープでは嫌。いつまでも期待して、その度ガッカリして、でももしかしたら……なんてウジウジ悩んでいるくらいなら、きちんとフラれて、ただの同僚になったほうが良い。傷は浅いほうが良いからこれ以上相澤先生への想いが育たないうちにこの芽を刈り取ってもらうのだ。大丈夫、ショックは受けるだろうけど、最終的にはちゃんと納得できて、立ち直れるはず。そうやって今日まで生きてきたんだから。
休みが終わると仕事が始まり、今日も当たり前みたいにわたしの家まで送ってもらう。でも今日が最後かもしれないと思うと、ふと涙が出そうになる。この宝物みたいな日々を忘れないように、何気ないことも深く深く刻んでいく。見上げた横顔も、匂いも、深くて優しい声も、すべて宝箱の中に閉じ込めて、好きな時に取り出して好きなだけ眺められればいいのにな。
こうやって過ごす相澤先生との時間が永遠に続けばいいのに、と思いながらも、このあとはわたしは自らこの時間を壊すのだ。
(でも今ならまだ戻れるんだよね)
気が付けば弱気な自分が現れて、ラクなほうへと逃げようとする。告白しなければ明日も明後日も一緒に帰れる。でもそれではダメなのだ。さっさとフラれたほうが、自分のためなのだから。
隣を歩く相澤先生は今日も相変わらず背中を丸めていて、真ん中で分けた黒髪を耳にかけている。それがとてもセクシーで、吸い寄せられるような心地がする。この人のことをこんなに好きになるなんて、忘年会の時は想像もしなかった。それどころか、不思議な引力は、強くなるばっかりだ。
そしてあっという間にわたしの家に辿り着いた。わたしたちは向かい合うと、相澤先生の三白眼と視線が絡み合った。目と目が合い、相澤先生の瞳がわたしを捉える度に、泣きたいくらい幸せな気持ちになる。
「相澤先生、ありがとうございます」
「ん。そんじゃおやすみ」
くるりと踵を返して帰っていこうとする相澤先生のコートの裾を必死の思いで掴んだ。緊張で喉がカラカラで上手く発声が出来ず、声が出る前に手が出たのだ。相澤先生は立ち止まり、顔だけ振り返り、不思議そうな顔で首を傾げる。
「? どうした」
わたしは掴んでいた手を離す。
「っあ、あの、話が……」
相澤先生は改めて振り返ると、わたしの言葉の続きを待つ。心臓の高鳴りが最高潮に達する。
「相澤先生……あの、その……好きです。大好きです。わたしと、付き合ってほしいです」
怖くて相澤先生の顔が見られない。フラれると分かっていても、迷惑そうな顔や、困惑する顔はできれば見たくない。己のつま先と、相澤先生のつま先を見比べながら、その時を待つ。
「……すまん。」
相澤先生の言葉はやはり、拒絶の言葉だった。分かってはいたけれど、いざそれを告げられると、頭を鈍器で思い切り殴られたかのような衝撃ののち、思考が白んでいった。それとは対照的に、目の前が真っ暗になっていく。現実を受け止めるのを身体が拒絶しているようだった。けれどわたしはちゃんと受け止めるしかない。
―――わたしは相澤先生にフラれたのだ。泣きたくなんかないのに、笑顔でさようならしたいのに、ちょっと気を抜けば涙が溢れ出てきそうだ。わたしは顔を上げると、涙を出すまいと笑顔を作って見せた。ちゃんと笑えているといいのだけれど。
「ですよね。すみません、変なこと言って! あー。ちゃんとフってもらえて、すっきりしました。これからも仲良くしてくださいね。それから……」
無意識に自分の服の裾を掴んでぎゅっと握っていた。わたしは勇気を振り絞って言葉を続ける。
「もう、相澤先生に甘えて送ってもらうのも今日でやめようと思います」
極力明るく言ったつもりだ。
「いやそれは―――」
「本当に。―――大丈夫です、送ってもらうのは辛いです」
相澤先生の言葉に被せるように言えば、相澤先生は押し黙る。「それに」とわたしは続ける。
「実は自転車も買ったんです。だから、わたしは大丈夫です」
ぐっとこぶしを握って見せる。大丈夫だってアピールだ。相澤先生に心配をかけるわけにはいかないもの。
「今日まで本当にありがとうございました」
そして最後、深く頭を下げる。さようなら、相澤先生。大好きです。多分暫くは引きずると思うけど、ちゃんと前を向きたいと思う。でも今日だけは、今日の夜くらいは、好きなだけ泣いてもいいよね。
「それじゃ、おやすみなさい。ありがとうございました」
最後、声の端が震えてしまった。相澤先生は何も言わなかった。それをいいことに、わたしはくるりと背を向けて歩き出した。頬を伝う涙の熱さはわたしだけが知っている。
