09.加速膨張、そして溢れ出す

 土曜日には警察から連絡があり、事情聴取を受けた。あの時のことを思い出しながら話すのは少ししんどかったけど、男が捕まっていることと、男の供述と概ね相違がないことから、すんなりと終った。相澤先生は金曜日の別れ際、事情聴取も一緒に行こうかと言ってくれたけど、それはさすがにお断りした。せっかくの土曜日なのにそこまで付き合ってもらうのも申し訳ない。
 そして月曜日の朝は相澤先生と待ち合わせをして、校長先生に報告をした。校長先生はまず、わたしの身を案じてくれて、それから、雄英高校を狙った犯行ということなので、この事実を最低限は共有するが、個人が特定されないようにヒミツを守ると言ってくださった。なんていい職場なのだろう。根津校長先生、いつもお話長いなって思っててすみません。もう二度と思わないように、努力します。
 校長室を出ると、わたしは緊張から解き放たれて、思わず大きく息を吐いた。やっと落ち着いたような気がした。

「朝からお疲れ」

 相澤先生からの労いのお言葉が染み渡る。

「相澤先生、本当にありがとうございました」
「気にすんな。それで、今日は遅いのか」

 命の恩人兼好きな人、相澤先生と隣を並んで歩く。始業時間にはまだまだ早い今の時間は、賑やかな生徒の声も聞こえてこない。わたしたちが歩く足音だけが廊下に響き渡っていた。

「んんと、今日も少し遅いと思います」
「終わったら連絡してくれ」
「あ、えと、はい……」

 本当にいいのだろうか、このご厚意に甘えてしまって。常にこの躊躇いの感情がつきまとうけど、だからといって「やっぱり送ってもらうの申し訳ないので大丈夫です」なんて言う勇気はない。だってやっぱり一人で帰るのは怖いし、相澤先生と一緒に帰れるのはすごく嬉しい。

「やっぱ申し訳ない。とか思ってんだろ」

 心内をズバリ言い当てられて思わず顔が強張る。なんとなく相澤先生の顔を見れなくて、少し俯く。

「おれもこの時期は遅いんだ」
「ですが……」

 相澤先生は根っこがとても優しい。この優しさに出会うたびに、わたしはつくづく思い知る。困ってる人がいたら迷わず手を差し伸べてくれる、さすがプロヒーローだ。

「いいから仕事が終わったらとりあえず連絡しろ。じゃあ、今週も頑張ろう」

 ぽん、とわたしの肩を叩くと、相澤先生は職員室へと入っていった。その背中を見つめながら、一体どれくらいのものを背負っているのだろうと考える。そのうちの一つにわたしはなっているのだろうか。肩に残った相澤先生の質感を感じつつ、わたしは事務室へと向かった。

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 今日の仕事は先週頑張ったおかげで比較的早い時間に切り上げることが出来た。とはいえ定時は過ぎている。パソコンをシャットダウンしてスマホで相澤先生とのトークルームを開く。トークルームにはこの間交わした会話の履歴が残っていて、ほんの少し心拍数があがる。

『お疲れ様です。わたしは今仕事が終わりました。相澤先生はどうですか』

 上着を羽織っていると、スマホが振動する。確認すれば相澤先生からだ。

『お疲れ様。おれも今終わったとこだ、帰れるか』
『はい、職員室に向かいますね』

 まだ残っている職員たちに「お疲れさまでした」と告げて、わたしは事務室をあとにした。しんと静まり返った廊下を歩くと、職員室の前には相澤先生が背中を丸めて立っていた。職員室の明かりはまだ灯っているので、残っている先生方がまだいるのだろう。遅くまでお疲れ様です。

「お疲れ」
「お疲れ様です。すみません、お待たせしました」

 相澤先生に並ぶと、歩き出した。

「今日は早いんだな」
「はい。なんとか終わりました」

 なんだろ、この感じ。当たり前みたいに一緒に帰ってるこの感じ。今日は早いんだな、っていうのは、先週遅かったのを知ってるから。そういう相澤先生とのささやかなやりとりに、胸がムズムズしてこそばゆい。

「なんか……相澤先生と一緒に帰るの、すごく……その」
「ん?」

 ―――ドキドキします。この間、手を繋いだことを思い出してしまいます。
 そう言おうとして、わたしはハッとする。ここは学校で、誰が聞いているのか分からないのだから不用意な発言は控えるべきだし、何よりそんなことを聞かされても相澤先生は困ってしまうだろう。わたしだったらなんとも思っていない人からそんなこと言われたら、正直困る。恋って怖い、時折自分の気持ちを知ってほしくて堪らない衝動に駆られるのだ。そんなことしたって、迷惑なだけなのに。

「……ありがたいです」
「気にするな」

 わたしの気持ちを伝えるのは、まだまだ先だ。少しずつ近づいたこの距離が遠くなる方が、今のわたしにとっては恐ろしいことだから。
 いつもの通勤路を、相澤先生と二人で歩く。あの男に襲われた場所を通る時はやっぱり緊張してしまうけど、隣に相澤先生がいるから絶大な安心感があった。本当にありがたいことだ。
 帰り道で相澤先生と喋ることはなんでも心が躍った。相澤先生は一見喋らなそうだけど、意外と喋ってくれる。気を遣ってくれているのかもしれないけど、とにかく一日の疲れが吹っ飛ぶような幸せな時間だった。あっという間に家について「おやすみ」を交わし合うと、相澤先生は来た道をまた戻っていく。すらっとした体躯を窮屈そうに屈めた相澤先生の後姿は、この世界の誰よりもかっこよくて、尊くて、大好きな後姿だ。
 それからも相澤先生は毎日、家まで送ってくれた。忙しいにもかかわらず、絶対に帰る時間を合わせてくれている。勿論、合わせてるなんて相澤先生は言わないけど、仕事が終わったタイミングで連絡を入れると、必ず『おれも今終わった』と言ってくれるのだ。いつも同じタイミングで終わるなんて、天文学的確率だろう。わたしはその相澤先生の優しさに、躊躇いながらも最終的にはどっぷりと浸らせてもらっている。わたしたちはその日あったことや、相澤先生が受け持っている生徒の話、マイクの話、色々な話をした。沈黙するときもあったけど、その沈黙だって愛おしい相澤先生との時間だった。本当に、感謝感謝の毎日だ。
 そんな日々が続いたある日のことだった。学校内を歩いていると、授業終わりらしく教材を小脇に抱えたマイクと廊下で出会った。「お疲れ様です」と言えば、マイクはニヤニヤと笑みを浮かべて近寄ってきた。

「名前ちゃん最近毎日イレイザーと一緒に帰ってるらしいじゃん? お前ら付き合ったんか? 言えよなぁ、このキューピットによ。水臭ェ。ヒュー」

 目の奥で火花が爆ぜた。わたしと相澤先生が付き合ってる!?!? ありえない。わたしは両手をぶんぶんと振る。ていうかキューピットって?!

「ええ、つ、つつつ付き合ってないですよ!! おお畏れ多い!!」

 早口でまくし立てる。

「なんだよ、付き合ってるんじゃねぇのかよ」
「はい……帰る方向が一緒なんで、時間が合うと一緒に帰ってるってだけです。ほんと、ただそれだけです」

 本当は、帰る時間を合わせてくれてるんだけどね。“ただそれだけです”、と自分で言っておきながら、その事実に寂しい気持ちになってしまう。マイクはわたしの言葉を聞くと、驚いたように丸い目を見開いた。

「いや、イレイザーの家は方面逆だぜ。名前ちゃんちって、あの駅の方のファミレスの近くだろ」
「はい、そうです。で、でも相澤先生、一緒だって……」

 先日、マイクと相澤先生と飲んだ三猿からの帰り道、相澤先生は確かに言っていた。『偶然だがおれもこっちの方面だ』と。どういうことだ。頭が混乱してきた。

「Huh、なるほどな」

 マイクが何かを悟ったように呟いて、顎をさすった。その口元には笑みが浮かんでいる。

「アイツ風に言わせれば、合理的虚偽ってわけだ」

 マイクの言葉を反復する。ゴウリテキキョギ? 聞き馴染みのないマイクの言葉は、脳内ですぐにヒットしなかった。が、程なくして合理的嘘だと変換が出来た。

「送ってくってことに対して、名前ちゃんが申し訳なく思わないよう、同じ方面に住んでるってことにしたんじゃねェ? もしかしてこれ言わないほうがよかったヤツか? まあいずれわかるからいいよな」

 じゃあおれ次の授業あるからまたな! と言って、マイクは混乱しているわたしを置いて颯爽に去っていった。

「どうしよう……」

 両頬に手を添えて呆然とする。マイクが言っていることが正しければ、相澤先生はわたしに気を遣わせないために、帰る方向が同じと言う嘘をついて、ずっとずっと送ってくれていたと言うわけか。心臓が破裂しそうなくらい早鐘を打っている。わざわざ遠回りをして送ってくれていたことに対して申し訳ない気持ちになるが、それよりも何よりもそんなことをしてくれていた相澤先生に対して、好きだと思う気持ちが加速膨張し続けている。

「もう無理だ……」

 思わず心の声が零れ出てしまった。もう無理だ、感情が抑えられない。相澤先生への想いがとめどなく生まれては、窮屈そうにわたしの中に留まっている。もうこれ以上は収まりきらない。表面張力でなんとか踏ん張っていたけれど、今マイクが入れたコインでついに溢れてしまったようだ。