08.僕らの世界が終わる前に

 お腹が満たされるということはこんなにも幸せなのか。と、幸福感で満たされた頭の片隅でぼんやりと思った。満足な食事をさせてもらえず、しかも食事といえるほどたいそうなものではない、そんなものを食べていた日々を思い返し、再び夢のような今日にひたる。

「俺、片付け手伝うからナマエは5主の様子を見てきてくれよ」
「うんわかった」

 ヘンリーのお言葉に甘えて、 片付けはヘンリーにお願いしてナマエは階段を上がり、再び5主の寝ている部屋へと向かった。相変わらず5主は気持ちよさそうに寝ていて、ナマエはそのベッドの縁に座り込んで、寝顔に語りかけた。

「5主ーはやく起きて。なんだかさみしいよ」

 声をかけても当然のように5主から返事はない。なんだか急に、このままずっと目覚めないのではないかと不安にかられる。

「5主……起きるよね?」

 5主の頬をつねる。すると5主 の眉が寄せられる。不快なようだった。……なんだかおもしろい。

「5主ー起きなきゃもっとひどいことするよ」

 次には鼻をつまむ。すると5主はますます不快そうな顔をして、ナマエの手を払いのけた。ちょっと痛い。すると、

「ん……」

 小さく声が漏れる。起きるかと一瞬期待をふくらませるが、しかし再び規則正しい寝息が聞こえてくる。さみしいし、悲しいし、なにより怖かった。

「なんだよ5主ー……早く起きてヘンリーを茶化そうよ。ねえねえ」

 静かに涙が伝う。

「無視しないで5主。ナマエって呼んでよ」
「………ナマエ……」

 寝言なのだが、5主は確かにナマエの名を呼んだ。涙はぴたりと止まり、数度瞬きを繰り返す。しかし5主は起きなかった。

「お…れ……ナマエの……」

 それまで仰向けで寝ていた5主は寝返りを打ってナマエのほうを向いた。気になる寝言はそれ以上発されることはなかった。

「起きないんならひどいことするから」

 すやすやと気持ちよさそうな5主の顔に、自分の顔を近づける。端正な顔立ちに吸い寄せられるかのようだった。
 キスなんてものは生まれてこの方したことがなかった。ヘンリーとたいていの遊びはしてきたが、キスごっこはしたことがない。けれどやはりナマエも年頃の女の子で、そういうものに興味があるわけで。
 小さいころ読んだ絵本にのっていた、王子様とお姫様の誓いのキス。

 5主は王子様ではないけれど、自分はお姫さまではないけれど、でも。

 もう少しで彼の唇とナマエの唇が重なる。息をするのも躊躇うくらいの距離に近づいたときだった。

「ん……」

 美しい漆黒が二つ、目の前に現れた。ナマエは一瞬頭が真っ白になったが、反射的に身体を引っ込めた。

「5主!?」

 一生開かないかもしれないと思っていた5主の瞳が、虚ろながら確かに開いている。嬉しさや喜びよりもまず、驚く。次に自分のしようとしていたことを思い返し、恥じた。

「ナマエ……」

 ぬっと腕が伸びて、ナマエはいとも簡単に抱き寄せられた。ナマエの背中は5主がぴったりと寄り添っていて、腕はナマエのお腹に回されている。かつてない近さに心臓が忙しなく動く。

「一緒だ」

 耳元で5主の声が聞こえてくる。

「なっなにが???!」
「天国にこれたんだ」

 揃いも揃って天国に来たと勘違いをしていることを恥じつつも、この状況に戸惑っていた。

「5主、ちょっと、ねえ!」

 5主から逃れようと身動ぐが、寝起きとは思えないほどぎゅっと抱きしめられていて、なかなか離れられない。
 男の女の力の差を痛感しつつ、けれどこの状況に幸せすら感じる。寝ぼけている5主から脱出することが諦めて、彼にここは天国ではないことを伝えることにした。

「天国じゃないよ、わたしたち、生きてるんだよ」
「ん……。生きて、る?」

  5主の力が緩んだ隙にすっと逃れて、ベッドから立ち上がった。彼の目はまだぼんやりとしているが、ナマエのことをきちんと捉えている。先程抱きしめられたことで顔に熱が集中したナマエは、その赤さを隠すためにふいと視線をそらした。落ち着け自分、落ち着け自分、と呪文のように心の中で繰り返す。

「ナマエ、俺たち、生きてるの?」
「ん、そう。ここは修道院で、ヘンリーもマリアさんも生きてるよ」

 顔を背けたまま答える。

「よかった……生きてるんだ」
「うん、生きてるよ」
「どうしてそっち向いてるの?」
「え、と……ああ! ヘンリーたちに知らせてくる!!」

 5主に背を向けたまま走り去ろうとするが、手首を掴まれてそれは阻止された。恐る恐る5主を見れば、

「もうちょっと、二人でいたいな、なんて……」

 5主の頬も紅潮していて、ナマエは堪らず硬直してしまった。5主はぽつりと心情を吐露した。

「死ぬかもと思ったから、いろいろ覚悟していたんだけど、生きて今日を迎えられたのがすごく嬉しいんだ」

 ナマエは小さく頷くと、5主は微笑みを浮かべて、

「伝えたいこともあった、やりたいこともあった。それが叶うからすごくうれしい」
「そうだね。わたしもだよ」
「だから、んーだからっていうか、こんな時間、迎えられると思わなかったから、もうちょっとだけ、ごめん」
「ん……」

  5主は何を考えてるんだろう、わからない。そしてわからないからこそ胸の鼓動が加速する。掴まれた手首から伝わってくる熱が、とても熱くて、それがナマエにも伝播したように身体がじわじわと熱くなった。