08.サイレント・ユニバース

 冬だというのに、繋いだてのひらにじんわりと汗が滲む。ちょっと気恥ずかしいけど、絶対にこの手を離したくなかった。相澤先生と手を繋いでいる、そう考えるだけで胸が苦しくなるし、何より安心できる。昂っていた気持ちがどんどんと落ち着いていくのを感じる。繋いだ手から伝わってくる相澤先生の体温はわたしよりも低かったけれど、だんだんとわたしの体温と混じり合っていき、今となってはどちらの体温なのかわからなくなった。
 わたしは今日の日のことを、この先きっと忘れられないだろう。あの男によって深い傷ができた。けれど、幸いなことに相澤先生にすぐ消毒をしてもらい、絆創膏を貼ってもらったから、きっと大丈夫だ。
 相澤先生は迷う素振りもなくファミレスへの道を黙々と歩いている。もはや相澤先生は、わたしに道順を聞かなくたってうちの近所のファミレスまで行けるらしい。そんな些細なことだって、わたし達の距離が縮まったのではないかと錯覚してしまう。相澤先生の家もこっちの方だと言っていたから、普通なことかもしれないけれど。
 ファミレスに入り席に座ってから、ひとまずドリンクバーを頼み、それぞれ飲み物を持ってきた。わたしは温かい飲み物を持ってきて一口含む。身体が内側から温まり、ほっとする。それからわたしはすぐさまスマホで相澤先生にメッセージを送った。

『付き合わせてしまってすみません。本当にありがとうございます』

 送った後にわたしは相澤先生に対して、自分のスマホを指さし、次に相澤先生の腰らへんを指さし、メッセージを送ったアピールをする。すると相澤先生は察してくれて、自分のスマホを取り出してメッセージを見てくれた。口を開き何か言うとするも、すぐに閉ざしてスマホに何かを打ち込みだした。程なくしてわたしのスマホが震える。ディスプレイには「相澤消太」の文字。

『気にするな。どうせ明日は寝てるだけだし』

 本当に相澤先生には感謝してもしきれないな。相澤先生がいるから、今わたしはここで、息を吸って、吐いて、相澤先生にメッセージを送ることができている。

『今回の件ですが、あまり大っぴらにしたくないので学校への報告は最低限にしたいのですが、いいでしょうか……?』

 このことについて変に噂が広まるのも嫌だし、心配されるたびにあの出来事を思い出しそうで嫌だった。叶うならば、誰にも知らせずにわたしの胸の小箱にしまい込んでヒミツにしておきたい。相澤先生は少し考えるようにスマホをじっと見つめ、やがて打ち込み始めた。

『わかった。ただ、雄英を狙ったヴィランだったから、いずれ警察から雄英にも連絡が来るはずだ。だからせめて校長にだけには報告したほうがいい』

 それはごもっともな話だった。男の目的はわたしではなく、あくまで雄英高校だ。もとより校長先生には話さなければならないと思っていたので、問題はない。

『そうします』
『月曜日の朝、ミーティングが始まる前に一緒に校長室に行こう』

 わたしはスマホを握りしめたまま思わず相澤先生を見る。一緒に行ってくれるなんて、願ってもない僥倖だ。普段わたしは校長先生と喋る機会なんてそうそうないため、相澤先生が一緒に来てくれるならばすっごく心強くて有り難い。相澤先生はわたしの視線に気づいて顔を上げた。絡み合う目線。途端に激しく脈打つ心臓。わたしは慌ててスマホに視線を落として、文字を打ち込む。

『ありがとうございます。何から何まですみません、相澤先生が一緒なら心強いです』
『それから』

 相澤先生は続きを打つ。

『これから毎日可能な限り、家まで送る』
「!?」

 声が出ないのを忘れてパクパクと声にならない声を発する。それはそれは有り難い申し出だけど、さすがに申し訳無さ過ぎる。わたしは首を振り、慌ててメッセージを打ち込む。

『それはわるいですかえりおそいひもあるし』

 変換するのも忘れて慌てて送信する。

『だからこそだろ』

 ……確かに、相澤先生の言う通りだ。今日だって遅い時間で一人だったから狙われてしまった。ひとりで帰るたびに、わたしは今日のことを思い出して、背後に怯えながら帰っていくのかもしれない。でも、こんなに相澤先生の優しさにも甘えて良いのだろうか。明らかに負担になってしまう。それは……いやだ。もっとわたしの個性が、戦い向きだったら良かったのに。なんて、生まれたときから定められていた運命を恨みもしたが、こればっかりは仕方ない。

『でも相澤先生は教師だし、プロヒーローだし、忙しいのに、迷惑かけてしまいます』
『名字一人守れないなんて、それこそプロヒーロー失格だろ』

 相澤先生は入力を続ける。 

『ただ、出動要請がくるときもあるから、難しいときもある。だからこそ可能な限りなんだが、おれがそうしたいからそうするんだ。迷惑か』

 こうやってわたしに気を使わせないように言うのが、ずるい。おれがそうしたいなんて言われたら、わたしは断る理由なんてなくなってしまう。またわたしの心が、相澤先生に吸い寄せられて呑み込まれていく。
 わたしはなんて返そうかしばし迷うが、どうにもいい断り文句が浮かんでこない。やがてわたしは諦めて、思うままを入力をする。

『迷惑ではありません。ですが……やっぱり申し訳ないと言うか……』
『迷惑じゃないなら問題ないな。これ以上のやりとりは非合理的なので、終了。目が乾いた』

 相澤先生はスマホを伏せると、背もたれに背を預けて腕を組み、目をつぶった。これ以上の抗議は受け付けないという意思表示だ。こうなったらもう、わたしには抗議どころか意思を届けることができない。もどかしい思いを抱きつつ、本当にこのまま相澤先生の優しさに甘えてしまっていいのかと考える。答えはわからないけれど、もうこの際だから甘えてしまえ、とわたしの中で誰かが囁く。

(よろしくお願いします。大好きです、相澤先生)

 届かない想いを、出すことができない声に乗せる。
 このまま声が二度と戻らなければ、わたしは、わたしの声で相澤先生に想いを伝えることができない。そんなことを考えたら、とてつもなく怖いと思った。
 それからわたしたちは、軽食を食べて、ファミレスに備えてあった間違い探しを真剣にやりはじめた。全部で7個ある間違いを6個見つけたけど、そのすべてをわたしが見つけている。見つけるたびに悔しそうな顔をする相澤先生が堪らなく愛おしいというのは、声が出るようになっても言わないでおこう。
 ちらと相澤先生の顔を盗み見れば、思ったよりも真剣な表情で、食い入るように間違いを探している。鋭く細められた瞳はいつもどおり充血していて、黒目がギョロギョロと獲物を探すかのように忙しなく動いている。実は7個目も見つけたんだけど、相澤先生が見つけるところが見たくて、わたしは気が付かないふりをする。暫くそんな様子を眺めていると、相澤先生が突如目をカッと見開いて無駄一つない動作で7箇所目の間違いを力強く指さした。そしてニヤリと口角を上げてわたしを見た。すごく嬉しそうで、ドヤって感じで、わたしは込み上げてくるものを我慢することができなかった。

「あはは……って、あれ!?」

 我慢できずに笑ってしまったのだが、なんとこれまで全く出る気配のなかった声が突如出たのだ。笑いはすぐに引っ込んで、驚きでいっぱいになる。

「声が戻ったのか」
「あーあー」

 自分の声が確かに出ていることを確認する。うん、きちんと発声できている。久しぶりに聞いた自分の声は、小さい頃に夢中だったおもちゃを見つけたときのような懐かしさを感じた。

「はい……ッ! 戻りました、声が出ます、あぁ久しぶりわたしの声」

 当たり前のことはなくなって初めて大切さに気づく、なんてよく言うけれど、わたしは改めて声が出ることの素晴らしさを思い知った。本当に、『奪う』個性は恐ろしい。

「おかえり、名字の声」
「……ただいま、です」

 初めての相澤先生からの『おかえり』は、知らない人が聞いたらへんてこな言葉かもしれない。けれどわたしにとっては、どんな高尚な人の言葉よりも価値のある言葉だ。その声色が途方もなく優しい響きで、きゅっと心臓が締め付けられた。鼻の奥がツンとなって、視界がぼやける。瞳から零れ落ちた雫が服に染みをつくる。
 相澤先生も『奪う』個性だけど、わたしにとっては『与える』人だ。だって、こんなにも色んな感情を与えてくれて、わたしの心は相澤先生でいっぱいいっぱいになっている。けれどブラックホールだから、全部全部、吸い込まれてしまうんだ。与えたり奪ったり、本当に恐ろしい男だ、相澤消太。何を言っているのか自分でもわからないけれど、とにかくわたしは、どうしようもなく相澤先生に夢中なんだ。沈黙の宇宙を漂っていたわたしが地上に戻ってくるまで待っていてくれて、ありがとうございます。あなたの引力があれば、わたしはどこへでも行ける気がするの。