07.憧れた今日

 ここは天国だろうか。あれだけ人のために働いて天国に行けないわけがない、なんていう考えが生前からあったものだからこれで天国じゃなかったらジャッジした人に文句をつけようと考えていた。
 けれどここはきっと天国だと思った。なぜなら真っ白の天井に、外からの風にあおられる純白のカーテン。そしてカーテンの狭間から見えるのはどこまでも透き通った青い空。

「……天国にも、空はあるんだ」

 長らく声を出していなかったからか、掠れた声で呟いて空に手を伸ばすと、見違えるほど綺麗になった自分の肌。よく見れば服が奴隷のときのそれと変わっている。

「あら、ナマエさん! お気づきになられたんですね!?」

 反射的に声のしたほうを向くと、天使のようなマリアがいた。マリアは天使になれたのだろうか。行いがよかったんだろうな、と心の中で褒める。

「まだ5主さんもヘンリーさんも目覚めていらっしゃいませんの……」
「みんな天国に行けたんですね」
「えっ? ナマエさん、何を言っているんですか」

 くすくすとマリアが楽しそうに笑う。何が楽しくて笑っているんだろう。ぼんやりとする頭で考える。

「ここは天国ではありませんよ」
「……じゃあ、どこでしょうか」

 眩暈がしそうだ。こんなに天国のような雰囲気なのに、天国じゃないなんてあんまりだ。そんなナマエに、マリアは優しく語りかける。

「ここは名もなき修道院。私たちは、生きて今日という日を迎えられたのです」

 告げられた事実は、よく考えれば行き着くことなのに、言われるまで全く思い至らなかった。あまりにも今まで起きてから見る光景とかけ離れていたので、てっきり死んでしまったかと思った。自身の服はこれまでの粗末な奴隷着から修道女の服に着せ替えられている。ナマエは今しがた告げられた福音を確かなものにしたくて、マリアにゆっくりと問いを投げかけた。

「わたしたち、生きているの?」
「ええ」
「……! 5主とヘンリーのところへ案内してください!」
「はい、こちらです」

 ベッドから降りて立ち上がれば、身体が力のいれ方を忘れてしまったかのように力が抜けて一瞬膝をつきそうになったところをマリアがすかさず支えてくれた。感謝を述べれば、落ち着いて自分の力で立ち、歩き出した。歩いている途中、修道院の建物を見渡す。今いるところは二階で、壁に沿って廊下が張り巡らされている。その行き着く一番先には大きな十字架があり、その前にシスターがいた。廊下から一階を見れば、横長の木製机と、それに対する横長のイスが真ん中の通路を挟んで両サイドにあって、それが何列もある。礼拝に来た人用だろうか。
 始めてきた修道院という場所は、とても厳かな場所でありながら温かみを感じる場所だった。物珍しくて不躾ながらきょろきょろと見回しながら歩いていくと、やがて二人の眠る部屋へと辿り着いた。二人は隣同士で仲良くベッドに寝そべっていた。

「ヘンリー!」

 まずヘンリーのベッドに駆け寄り、すやすやと寝ているヘンリーの頬に手を添えた。彼もまたナマエと同様、泥なんかついていなかった。きっとこの修道院の人が拭いてくれたのだろう。きれいな顔で瞳を閉ざして、ゆっくりと胸を上下させている。その身にまとっているのは奴隷着のままだったが、洗濯してくれたのか、綺麗になっていた。次に5主を確認する。5主の寝顔はあどけなくて、昔の5主を見ているようだった。彼のベッドの傍のテーブルには彼がかつて着ていた紫色のターバンとマントが置いてあった。ヨシュアが最後に持たせてくれた荷物に入っていたのだろうか

『大丈夫!』

 励ましてくれた5主。それ以降の記憶はないが、きっとずっとナマエのことを励ましてくれていたに違いない。それを想像すると、胸がぎゅっと締め付けられて、に自然と頬が緩んだ。

(起きないかなあ)

 つん、と頬に指を押し付ける。ぷに、とやけに柔らかい頬の感触。なんだかそれが面白くて、ぷにぷにと連続して押し付ける。ふと顔を上げてヘンリーのほうを見ると、マリアがヘンリーのそばに立って、愛おしそうにヘンリーを見つめていた。

(ふふ……。きっと、両思いだね)

 けれどほんの少しの、寂寥な思いが胸を突く。小さいころからずっと一緒だったヘンリーが、自分とは違う女性と違う道を行ってしまうのか。そして自分もヘンリーとは違う道を行くのだろうか。誰と、だろう。

「あら、ヘンリーさんが目覚めましたわ!」
「ほんとですか!?」

 マリアの声に、慌ててヘンリーのもとへ駆け寄ると、彼は薄らと目を開いていたと思ったら、次の瞬間にはぎゅっと目をつぶり大きく伸びをした。そして再び開かれた瞳が彷徨って、やがてナマエのことを捉えて小さく口を開いた。

「ん……ナマエ、ここは天国か」

 わあ、同じ環境で育ったからかな……天国だと思ってる……恥ずかしい……なんて思いながらも、ナマエはヘンリーの手をぎゅっと握りしめて言う。

「違うよ。わたしたち、生きてるんだよ」

 握られた手の感触がヘンリーに生きていることを伝えて、彼のぼんやりとした瞳は次第に色を取り戻していく。

「……ほんとか! 俺たち、自由なんだな!!」

 ヘンリーは現状を理解したらしい。嬉しそうに破顔すると、両手を大きく広げた。

「ナマエ! 俺たち自由だ!!!!」
「うん!! 自由!!!」

 ナマエは迷わずにヘンリーの腕の中に飛び込んで固い抱擁を交わして二人で笑い合った。自由を喜ぶ一方で、ナマエの頭はだんだんと現実を考え始めて表情が固くなっていった。なぜなら自分たちには帰ってきたことを喜んでくれる人いなければ、帰る場所がない。ただひとつ、リュカのお母さんを見つけるということだけが道標としてあるだけで、居場所と呼べるものがないのだ。
 そして、そんな二人を見守るマリアの目は、確かに切なさを孕んでいた。

+++

 その後、マリアの案内でこの修道院の院長のもとへやってきた。彼女は聖母のような人で、どこから流れてきたなんて聞かず、話もそこそこにご飯の手配をしてくれた。お腹が空き過ぎてそんなことを忘れていたが、食事の匂いが鼻孔をくすぐれば、お腹が急速に空腹を訴え始める。マリアは食事の準備の手伝いに行ったので、食堂ではナマエとヘンリー二人きりになった。

「ぐえー」

 ヘンリーがお腹をさすりながらテーブルにつっぷして唸っている。

「お腹すいたね」
「ほんとだぜ……。しかし、なんだか変な感じだな。未だに信じられないぜ。あそこから抜け出せたなんて」

 夢のような今日だ。あそこで働いていたとき、ずっと憧れていた今日の日だ。そしてこの日を与えてくれたヨシュアには本当に感謝してもしきれない。いつかどこかで会ったら、心の底からお礼をしたい。
 ―――だから、生きていてほしい。

「もうあんなところで働かなくていいんだね……」

 感慨を籠めてナマエは呟きを落とした。とても嬉しくて、けれどまだどこか現実味を帯びていなくて、なんだか不思議な感じだ。

「あとは寝坊すけ5主のお目覚めを待つだけだな」
「そうだね。……あ。ねえヘンリー」

 ふと首をもたげてきた疑問があり、ちらとヘンリーに視線を送れば、ヘンリーは姿勢を正して「ん?」とその先を促した。

「ヘンリーって、マリアさんのこと、好きなの?」

 5主とはいつもその話をしていたが、ヘンリー本人にはずっと聞けずにいたこと。二人きりでいい機会なので、思い切って聞いてみたのだ。監視の目を気にせずになんてことのない会話ができることが本当に嬉しくて、そんなことにも小さな幸せを感じた。

「んー」

 ヘンリーは深く考え込むように目を閉じて、

「わからん」

 想定したどの答えとも違う答えが返ってきて、思わず声を上げる。

「わからん、ってことはないんじゃない?」
「んー。これをナマエに話していいのかわからないけど、俺はマリアさんのことを好きなのかもしれない。でさ、万が一、俺とマリアさんがハッピーエンドになったとする。でも、そしたら結果的にナマエとは一緒にいれなくなるだろ? それがなんていうか、引っかかるっていうか」

 なんだか自分と似たようなことを考えているヘンリーがいて、どきりとする。小さいころからずっと一緒にいて、嬉しいことは分け合って、辛いことは一緒に乗り越えてきた。そんなヘンリーと離れることが想像できないのはナマエだけでなく、ヘンリーも同じだったようで。この、お互いに対する気持ちはいったいなんなんだろう。

「……わ、わたしも、それ思ってた」
「ナマエもか。俺、ナマエとずっと一緒にいたいんだよね」

 にかっと笑ったヘンリー。うんとも、すんとも、きゅんともしないし、小さいころからヘンリーに対する気持ちはきっと何も変わってない。
 恋ではない、でも、一緒にいたい。これはいったいどういう感情なのだろう。