この先、軽度ですが不審者に襲われる描写があります。
苦手な方はご注意願います。
じわじわと帰る時間が遅くなり始めている2月の中旬。期末テストもあれば卒業式も控えていて、更には入学試験、入学手続き、入学式、新学期準備と、やることが目白押しだ。やることが多いほうが気が紛れていい。暇だと気がつけば相澤先生のことばかり考えてしまうので、今は仕事に感謝だ。
この時期は事務のわたしたちも遅ければ、先生たちも帰るのが遅い。けれど、これまで一度もなかったように、帰りにばったりと相澤先生に出会うことはなかった。そりゃそうだ、帰る時間がぴったりと合ってばったりと出くわす確率なんて、ほぼないに等しい。わかってはいたけど、毎日期待してはその度落胆してしまう。
日はとっくに暮れて、定時もとっくに過ぎて、空腹も峠をとっくに超えていた。常備しているお菓子をちょこちょこつまみながら残業をし、ようやくキリがいいところまで持ってくることができた。ふと事務室を見渡せば、誰もいない。どうやらもう残っているのはわたしだけのようだった。時計を見ればもう22時を回っていた。明日が休みだということもあり、まぁまぁ遅い時間までやってしまった。
「帰るか……」
誰に言うわけでもなくひとり零して、大きくあくびをしながらパソコンをシャットダウンした。目がショボショボして霞んでいる。早く帰って眠りたい。相澤先生はもう家に帰っているだろうか。職員室の前を通るときにチラと覗いてみよう。
わたしは上着を着て荷物を持つと、電気を消して事務室をあとにした。
職員室の明かりはまだ灯っていた。誰かが残っているのは間違いないが、扉が開いていないため中を覗くことはできなかった。教師のみなさんも遅い時間までお疲れさまです。と心のなかで呟いて、閉ざされた扉に向かって会釈をして通りすがった。
残業で帰りが遅くなると、雄英高校の敷地から出るときにほんの少し緊張する。雄英の中はプロヒーローもいれば、ヒーロー志望の高校生たちもいて、更には雄英バリアーもあるためとても安全だが、敷地を一歩出ればその加護はなくなってしまう。一時期不審者の目撃情報もあったし、相澤先生にも何度か気をつけろと言われているため、嫌でも意識してしまう。とはいえ、どんなに気をつけていたって、不審者と出会ってしまえばもう成すすべがない。わたしの個性では対抗するすべを持たないので、出会わないことを祈るばかりだ。
雄英の校門を出ると、雄英の外壁沿いにキャップを目深に被った男性らしき人がスマホをいじっていた。まさか人がいると思わなかった。こんな夜中に人がいるのも珍しければ、夜なのにキャップを被っているのも珍しいし。わたしの帰り道は、男性が立っている方向とは逆なので、男性に背を向けて歩いていく。
電灯が心許なさげに照らす中、早歩き気味に帰路に就く。寒いし、眠いし、早く帰りたい一心だった。少し歩くと、足音が後ろから聞こえてくることに気づいた。大通りの道を左に曲がるときにさり気なく後ろを見ると、先程見かけたキャップの男性がわたしの後ろを歩いていた。
道は一気に細くなって電灯の明かりも少なくなる。ふと、不審者の話がわたしの脳裏に浮かぶ。
(まさかね……)
無意識に、上着のポケットに入れていたスマホを握りしめていた。歩くスピードを上げつつ、ポケットからスマホを取り出し、震える手で電話帳を開いた。『相澤消太』の名前を探して、いつでも電話をかけられようにする。
心做しか足音が近づいている気がした。追いかけられている? 確認したいけど、怖くて振り返られない。どうしよう。怖い、誰か助けて、相澤先生、助けて……! 足音がどんどんと近くなり、わたしは恐怖に追い立てられて、走り出していた。背後から聞こえる足音はもうすぐそこまできている。明らかに追いかけられている。
もう無理だ……! わたしは相澤先生に電話をかけた。もし勘違いだったら、間違えて電話してしまったと謝れば良い。瞬間、腕を後ろから強い力で掴まれる。わたしは動けなくなった。呼び出し音が鳴り続けていて、相澤先生は電話に出ない。恐怖で涙がボロボロと出てきた。
「逃げないでよ」
わたしの背後から囁くよう無声が聞こえてくる。ぞわりと身の毛がよだつような感覚に襲われる。腕を振り払おうとするも、強い力で握られていてそれは敵わない。相澤先生、相澤先生、相澤先生……! わたしの祈りも虚しく、相澤先生は電話に出ない。
「ねえ、雄英の関係者なんでしょ」
「離して……!」
そのときだった。
『もしもし』
願いが通じた。相澤先生が電話に出てくれた。男への必死の抵抗を続けながら、相澤先生へSOSを送る。
「助けて!! あい―――」
それは突然だった。男のキャップの奥の瞳と視線が交わったとき、わたしはまるで魔法にかけられたかのように声が出なくなってしまった。それが男の個性なのだと気づいたときにはもう遅かった。どれだけ声を出そうとしても、空気を震わせることは叶わない。頭が真っ白になり、パニックに陥る。
『どうした? 今どこにいる? 名字?』
声が出ない、死ぬかもしれない、わたしが何をしたっていうの? 怖い、死にたくない、相澤先生、助けて……! 恐怖で手が震えて、無情にもスマホが滑り落ちる。涙で視界が滲むが、拭うこともできずにひたすら男に抗い続ける。
「おれ雄英って嫌いなんだよね、クソみたいにエリート面して、全能感出しててさ」
骨がきしむくらい腕を掴まれていて、まるで拘束が解かれる気配がない。
「ねえ、お姉さんのID貸してよ。雄英の関係者でしょう?」
必死に抵抗しているわたしには、男の言っていることは耳を通り過ぎるだけで何も残らない。
「お姉さんみたいな、か弱そうな人が一人で出てくるのを待ってたんだ」
男がにたにたと笑いながらこちらを見ている。悲鳴を上げたいのに声が出ないし、パニックで過呼吸気味になる。掴まれた腕がきつく握られて痛いが、そんな事を気にせずにぶんぶんと腕を振り回すも逃げることは叶わない。
「とりあえず移動しようか」
男に腕を引かれて、少し歩いたその時だった。
「名字!!」
わたしを呼ぶ声が聞こえる。わたしにはその声が、神様の声に聞こえた。目の前の角からまるで彗星みたいな速さで走ってくる人の姿を、涙でぼやけた視界が捉える。全体的に黒くて、首辺りに包帯みたいな白い布がグルグルと巻かれている。その人はその布を放つと器用にわたしの腕を掴んでいる男をその布で捕らえ身動きを封じて、無駄一つない華麗な動きで組み敷いた。
―――相澤先生だ。相澤先生は個性を発動させながら男を捕縛した。髪がふわりと重力に逆らっている。
「離せ! 誰だお前……!」
「通りすがりのヒーローだ」
相澤先生が、きてくれたんだ。助かった。そう安心した矢先、わたしは身体中から力抜け腰が砕けて地面にへたりと座り込んだ。
「おれが何をしたっていうんだよ!」
「電話越しに聞こえてたんだよ。雄英のID使って何する気だったんだ? あ?」
捕縛布を引っ張ると、男は「ぐぇ……」と苦しそうなうめき声を漏らす。
「名字、大丈夫か」
相澤先生がわたしに目線をやり、問う。大丈夫です、と言おうと口を動かすが、やはり声は出てこない。相澤先生が個性を封じたはずだけど、すでに個性の影響を受けてしまっているからか、わたしの声は戻ってこなかった。なのでわたしは何度も頷いて、無事をアピールする。
それから相澤先生は警察に通報すると、すぐに警察官が来て、男はあれよあれよという間に引き渡された。わたしはその顛末を、映画でも見ているようにぼんやりと眺めていた。
相澤先生はずっとわたしの傍にいてくれた。スマホに打ち込んで、わたしの声がでないことを伝えると、警察の受け答えはすべて相澤先生がしてくれた。声が出ないので事情聴取も後日、ということで、今日のところ帰ることとなった。
「自宅まで送っていきますよ、名字さん」
「あー、大丈夫です。おれ家知ってるんで、責任持って送ってきます」
警察からの申し出に、相澤先生が丁重に断った。「それでいいか?」と確認されて、わたしは小さく頷いた。警察に送ってもらえるのならば安心だけど、相澤先生が送ってくれるのならば、そちらのほうが良いに決まっている。
「プロヒーローが一緒なら我々も安心です。それではよろしくおねがいします」
警察が帰っていくと、何事もなかったかのようにあたりに静寂が戻ってきた。わたしは相澤先生を見上げれば、相澤先生もわたしを見たところだった。視線が絡み合えば、相澤先生は盛大に息をついた。
「心臓が止まるかと思った」
相澤先生の大きい手のひらがわたしの頭に置かれた。確かにさっきわたしは男に襲われかけたのに、まるで昔に見たドラマのワンシーンのように遠く感じる。人間の頭はよくできているから、きっとそうやって遠ざけて忘れようとしてくれているんだろう。けれど握られていたところの腕の痛みが、たしかにあったことなのだと言っている気がした。
相澤先生の手のひらからじんわりとぬくもりが伝わってきて、途轍もない安心感に包まれた。ホッとしたら、ぽろぽろと涙が溢れ出てきた。やっと本当の意味で緊張状態から解き放たれて安心できた気がした。わたしは気がつけば、まるで引力に導かれるように相澤先生に吸い寄せられ、抱きついていた。とにかく人に、相澤先生に触れていたかった。
相澤先生は拒むわけでもなく、わたしの背中と頭に腕を回して、ぎゅっと隙間を埋めるように抱きしめ返してくれた。
「ちょうど仕事が終わって帰ろうとしていたところに連絡が来たんだ。イチかバチかで名字の家の通勤路を辿っていったら……本当に無事で良かった」
頭上から降り注ぐ相澤先生の低い声が身体に沁みていくように響き渡る。回された腕の力が少し強まった。込み上げてくる想いが止めどなく涙となって溢れ出る。声はまだ戻ってこないが、しゃくりあげる音は消えない。全部全部包み込むような相澤先生の大きな体躯にこのまま溶けて一つになってしまいたかった。相澤先生と離れたくない、ただその一心だった。
「まだ声は戻らないか」
どれくらいこうしていたかは分からないけど、相澤先生からの言葉に、声を出してみようとするが、やはりそれは叶わなかった。わたしは頷いて肯定を示す。
「声が戻るまで一緒にいる。帰り道にファミレスあったよな、あそこに行こう」
相澤先生はなんて優しいのだろう。普段のわたしだったら、反射的に「大丈夫です」なんて口にしているだろうけど、今のわたしは相澤先生から与えられるすべてを飲み干してしまいたかった。確かに、このあと家でひとりになるのは心細かった。そういうことに気がついて、至極当然みたいに寄り添ってくれる相澤先生が、わたしは苦しいほど好きだ。今にも抑え切れない好きという感情が溢れ出しそうなのに。今ほど好きだと伝えたい時はないというのに。どうしてわたしの声は出ないのだろう。
(好きです、大好きです、相澤先生)
そんなことを考えながらも、わたしは何度も頷いて、相澤先生から離れた。涙と鼻水で濡れたわたしの顔はとんでもない汚くてブサイクだっただろうけど、相澤先生は嫌な顔ひとつせずにティッシュを差し出してくれた。ありがたく使わせてもらって、最低限身だしなみを整えた。
ファミレスまでの道のりを歩き出したとき、相澤先生に手を取られた。相澤先生の大きくてゴツゴツとした手が、わたしの手と重なり、ぎゅっと握りめられる。心臓が深く脈を打つ。
「嫌だったら遠慮なく離してくれ」
声に出せない代わりに、わたしはヒーローの手を強く握り返した。
