06.抱きしめてレグルス

 地学の授業で使うため理科準備室に用意したジャイロスコープを眺めていると、わたしと相澤先生の関係はまるでジャイロスコープのようだと思った。決して交わらず、それぞれの軌道で回転を続ける。わたしは交じりたいと願って回転し続けているけど、それは構造上叶わないのだ。相澤先生はわたしどころか、恋人という存在も求めていない。ひとり、気ままに回り続けている。
 はあ、と殆ど無意識にため息をついて、理科室から出る。すると、マイクが通りがかったところだった。

「おっ、名前ちゃん! なんか元気ねーじゃん? アーユーオーケィ?」

 マイクは片手をあげてわたしのもとへとやってきてくれた。

「マイク。そんなことないですよ、元気いっぱいです」

 ぱっとわたしを見ただけで元気がないことを見抜くとは、なかなか鋭い。けれど認めるわけにはいかない。わたしは拳を握って元気アピールすれば、マイクは「Huh」と両手のひらをあげた。

「リスナーがそういうならそれ以上は聞かねぇがよ、悩みがあればいつでも投稿してくれよな」

 マイクは優しい。良い距離感でわたしを、いいえ、わたしだけじゃない。たくさんのリスナーに元気を与えてくれる。お陰様で、少し気持ちが上向きになってきた。

「あ、そういえば、この間残業中のイレイザーをビビらせたらしいじゃねーか、やるねェッ!!」

 ビビらせた……あ、もしかしてこの間の飲み会の帰りのことか。夜の校舎を二人で歩いたことは、わたしの中に強く、深く、刻まれている。

「ビビらせたわけじゃないんですけど、結果的に驚かせちゃいました」

 マイクがそのことを知っているってことは、相澤先生がマイクにこの間のことを言ったということ。つまり、わたしがいないところで相澤先生がわたしの話題を出したということだ。とても些細なことだけど、そんなことでも嬉しいと思う。好きな人が、わたしのことを思い出してくれている。それってすごく素敵なことだと思う。
 って、あれ、ちょっと待って。わたしが相澤先生の腕に抱きついたことも共有されたのだろうか。それはまずい……! さあっと血の気が引いていく。

「アイツ、ポーカーフェイスだろォ? 驚いたときどんな感じだった?」

 それこそ、目の前のマイクだってポーカーフェイスで、知らないふりをしているのかもしれないけど、でも知ってる素振りを感じさせなかった。マイクはそのことを知らないということで、いいのだろうか。サングラス越しに見えるマイクの瞳はいつも通りで判断に迷うけど、知らないと信じたいところだ。だってマイクにわたしにそのことが、そしてその先の恋心が知られたら、速攻で相澤先生どころか雄英中の人たちにバレそうだもの。

「身体がちょっと揺れただけで悲鳴とかは全然あげなかったです。さすがですよね」
「想像がつくぜェ! おれも今度脅かしてみよっかな、HAHA」
「マイクがやったら、絞めてきそうですね」
「アイツの絞め技本当に強ェからなァ……お、もういい時間だな。んじゃまたなリスナー!」

 マイクは来たときみたいに片手を上げて、立ち去っていった。マイクはあの夜のことを(と言ったら随分と艶めかしく聞こえるけど)知らないということでいいの……かな。 ここで考えていても仕方ないし答えは出ない。生徒たちが理科室へとやってくる前に、わたしはいそいそと事務室へと戻った。
 先日、夜の学校で相澤先生に遭遇し、その腕に触れ、家まで送ってくれたあの日。お礼の連絡をして、それに対する返事が返ってきて、そのあとわたしは、質問を送って、やり取りを続けたい衝動に駆られた。相澤先生と繋がっていたい、何気ないやり取りを交わしたい、そんな気持ちがむくむくと首をもたげたのだ。けれど、それで返事が来なかったときの恐怖も同時に膨れた。
 結局、臆病なわたしは、何も送らなかった。拒絶されるリスクのほうを取ったのだ。傷つくのが怖いし、今の距離から変に距離があいてしまうのも怖かった。進めないし、戻れない、けれど確実に毎日育ち続けるこの恋心を持て余す。
 自席に戻ると、メモ書きが置かれていた。目を通す前に、隣の同僚が「それ」とメモ書きを指差す。

「さっき相澤先生がきて、書き置き残してったよ」

 ああああああ相澤先生からの直筆メモ!!!!!!!?? ほわああああ!?!? てかわざわざ来てくれたの!? メモは相澤先生からで、内容は授業で使う用品の発注を依頼するものだった。もうちょっと早く戻ってたら相澤先生とお話できてたなんて、惜しいことをした!!!
 心のなかでは大大大興奮しているけど、わたしは平静を装いながら、「そうですか」なんて言い、メモを手に取りつつ座った。

「名字さんの代わりに伺いますよって言ったけど、断られちゃったよ」
「えっ!?」

 せっかくポーカーフェイスを気取っていたのに、思わずめっちゃテンション上がっちゃった。さっきはポーカーフェイス気取ってたのに一瞬でその仮面は剥がれてしまった。だって名字ご指名ってことでしょ!? ひーん、嬉しすぎる。先輩も突然のこのテンションの上がりように一瞬ビックリしていたが、特に追求されなかった。
 改めてメモに目を通して発注用品の確認をし、早速発注をすると、足早に職員室へと向かった。この時間に授業がなければ相澤先生はいるはずだ。発注報告をするのを口実にして、わたしは相澤先生に会いにいく。これくらいは許して欲しい。
 職員室には幸いなことに、相澤先生がいた。その後姿に胸がキュンと疼く。ほかには相澤先生の向かい側にミッドナイトがいて、今日も美しい。個人的に憧れている雄英の先生だ。こんな美人が近くにいるって、相澤先生の目は相当肥えているよなぁ、なんてため息をつきたい気持ちを抑え込み、「失礼します」と小さく挨拶をし、相澤先生の近くまで歩み寄り「相澤先生」と声をかける。相澤先生は振り返った。

「メモ書きいただいた件ですが、発注完了いたしました。来週中には届くそうです」
「すまないな。助かるよ」

 相澤先生のお役に立つことができた。それだけで、生きててよかったと思うくらい幸せな気持ちになる。

「わざわざそれを言いに来てくれたのか?」
「あっ、はい。せっかく来ていただいたので……!」
「悪いな。……お礼と言ってはなんだが、これやるよ」

 そう言って相澤先生がデスクの引き出しを開けると、猫ちゃんの顔が書かれたサブレを出して、わたしにくれた。なんと可愛いサブレなのでしょう……! ていうか、お礼なんて言わないでください、だってわたしが会いたかったんです。わたしがお礼を言いたいくらいです。

「いいんですか?」
「もらいものなんだが、2個もらったから1個やるよ」
「う……嬉しいです。飾っときます」
「いや食えよ」

 ぽろりと出たわたしの言葉に相澤先生が淀みなくツッコむ。
 でもだって、相澤先生から初めてもらったものだもの。食べるの勿体ないよ。

「もう1個やろうか?」

 どうやら相澤先生は、この猫ちゃんサブレが可愛いので単純に食べるのが勿体ないという意味で捉えたらしい。わたしは首を横に振る。

「相澤先生からもらったものなので、なんか食べるのもったいなくて……」

 自分で言いながら、どんどんと恥ずかしくなる。なんでそんなことを相澤先生に言ってるんだろう。そんなこと言ったって相澤先生を困らせてしまうだけなのに、とても勝手だけどわたしはわたしの気持ちを少しでも相澤先生に知ってほしいと願っていた。案の定、相澤先生は不思議そうな顔をしている。

「だからもう1個やるって」
「ち、違うんです! そういうことではなくてですね……」

 2個もらったって、2個とも相澤先生からもらったものなのには変わりはない。どちらも大切で、どちらもそばに置いておきたい。

「青くさ……」

 ぽそり、零すように言ったのは、相澤先生の向かい側に座っていたミッドナイトだった。わたしたちは思わずミッドナイトを見れば、その表情が恍惚に浸ったような顔で驚く。

「イレイザー、見かけによらず青臭いことしてんじゃないの……あぁもう、好きよ、そういうの」
「は?」

 相澤先生が怪訝そうにミッドナイトを見る。ミッドナイトはうんうんと頷いている。

「そこのあなた、私の分一つあげるわ。ご馳走様」
「え、そんな、え」

 ミッドナイトがわざわざわたしのもとへやってきて、断る間もなく相澤先生にもらったものと同じ猫ちゃんサブレをわたしの手に載せた。わぁ、ミッドナイトめっちゃ美人……! しかもすごくいい匂いが漂ってきた。大人の女性の魅力をぎゅっと閉じ込めたようなミッドナイトからも猫ちゃんサブレを渡されたので、2個の猫ちゃんサブレがわたしの手のひらにある。

「またきてちょうだいね」
「あ、ありがとうございます!」

 ミッドナイトはウインクをすると、上機嫌に職員室を出ていった。

「まあ、ミッドナイトのことは気にするな。発作みたいなもんだ」
「はぁ」

 ミッドナイトは青臭いことが大好物で有名だ。今のやり取りから何かしらの青臭さを感じ取ったということだろうか。いい年して青臭いことをしてしまったというのが少し恥ずかしいけど、相澤先生はいつもどおりで安心する。

「この猫ちゃんサブレを見たとき、一瞬、相澤先生が買ってきたのかと思いました」
「おれが? なんでだ」
「この間、一緒に黒猫ちゃんと遊んだからでしょうか」

 あぁ、と相澤先生が納得したように天井を仰ぎ見た。先日、桜の木の下にいた黒猫ちゃんだ。あの子のおかげでわたしは相澤先生と素敵な時間を過ごすことができたし、相澤先生と猫という尊い姿を拝むことができた。

「わたしは猫ちゃんを見かけるたびに、相澤先生を思い出します」
「あの猫、人懐こくて可愛かったな。あまり猫には好かれないから、あの子のことはおれもたまに思い出す」

 そう言って相澤先生はわたしへ視線をやって、口角を上げた。あぁ、わたしを夢中にさせる蠱惑な笑みだ。
 それにしても相澤先生、猫に好かれないんだ。残念ながら片思いなんですね。

「そういうところも名字に似てると思った」
「へっ?」

 どういうことだろうか。わたしがあの猫ちゃんに似てるなんて話、初めて聞いたような……。ふざけてあの子の名前を「名前」と呼んでくれたことはあったけれど。このあとどんな言葉を紡がれるのか、ドキドキと心臓が高鳴る。

「こんな言い方は僻みっぽいが……お前はおれに絡んでくれるだろ。おれだったらおれとは仲良くなろうと思わんしな。あの猫もおれに懐いてくれた。だからあの猫は名字に似てると思った」

 まさかそんなことを言われるとは思わず、わたしは固まる。とにかく相澤先生の一言一言を心に刻み込みたくて、いっぱいいっぱいになった。そんな風に思ってくれていたなんて、誰が想像しただろうか。絡んでくれるだなんて、当たり前じゃないですか。だってわたし、相澤先生のことが好きなんですもん。どこの誰よりも相澤先生と仲良くなりたいんですよ。
 そういえばさっきあの猫ちゃんのこと、人懐こくて可愛いって言ってたよね。その可愛い猫ちゃんにわたしが似てるって言ってたんだよね。つまりわたしのこと可愛いって言ってくれてるってこと。これは拡大解釈だろうか。でもでも、最高の褒め言葉じゃないだろうか。
 口には出さないが、頭の中ではすごい勢いで思考が飛び交う。相澤先生はずるい。なんてことない顔して、わたしをぐっと引き寄せるんだから。

「……あの子に似てるなんて嬉しいです。わたしは、もっと相澤先生と仲良くなりたいので、誰よりも相澤先生に懐く自信があります」
「懐くって、ほんとに猫かよ」

 相澤先生が、ふっと笑った。

「猫にも負けませんよ。……それじゃあ、そろそろ戻りますね」

 もっともっと相澤先生と喋っていたいけど、これ以上相澤先生の傍にいたらわたしはどうにかなってしまいそうだから、自制する。

「ん。発注ありがとな」
 
 相澤先生が手をひらひらと振ってくれたので、わたしは一礼すると、大変僭越ながら手を振り返して職員室をあとにした。少しずつだけど、ときを重ねるごとに相澤先生と仲良くなれている気がする。この道の行く末に、わたしの望む未来はあるのだろうか。