昼休みが終わると早速わたしは施設管理部門の人に猫の話をした。するとすぐに雄英バリアーの点検が始まった。そこからは施設管理部門の仕事のため、わたしは自分の仕事に戻る。あとから聞いたところによると、雄英バリアーに異常はなく、とある職員が旅行に行くのに、飼っている猫ちゃんを別の職員に預けるため持ってきていたのだが、脱走してしまったらしい。
猫ちゃんは職員たちの個性を駆使して見つけ出し、無事に飼い主のもとへと戻ったとか。そのことを相澤先生に連絡したら、『了解。』と返事が来た。たった二文字の言葉だけど、相澤先生から送られる言葉はすべて特別に思えるから不思議。
ちょっとした騒動にまで発展したけど、わたしとしては猫ちゃんには感謝してもしきれない。相澤先生と会えたし、名前を呼んでもらうことができたから。
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午前中はぐずついていた空模様も、午後になると嘘のように晴れ渡っていた。金曜日である今日は気心の知れた同僚たちと飲み会だった。もうすぐ入試を控えているので、仕事が忙しくなってくる。そのため、今のうちに飲みに行こう! となったのだった。気を使わずお酒を飲み、料理に舌鼓を打ち、たまに仕事の話をする。時間はあっという間に過ぎ、解散になった。と、そこでわたしは、朝持ってきた傘を学校に置いてきてしまったことに気づいた。この土日は天気がまた崩れると朝の天気予報で言っていたので、できればあの傘は家に置いておきたい。
(取りに戻るか)
家に帰るのに、少しだけ遠回りすれば雄英高校には立ち寄れるので、わたしは同僚たちに事情を話して別れを告げる。
「夜道は危ないし、一緒に行こうか?」
先輩がひとり、心配してくれた。わたしはそれを丁重にお断りして、一人で雄英高校に向かったのだった。
夜の帳に包まれた雄英高校は、昼間の姿とは全く違って見えた。大きくて逞しい校舎が、今は巨大な怪物のように見える。ちょっぴり怖い。でもここまできたのだから、傘を取らずに帰るなんて愚かなことはできない。通行証がカバンの中に入っているのを確認して、わたしは雄英高校の敷地内へと入る。と、そこで、もう校舎が戸締まりをされている可能性に気づく。どうか鍵が開いていますように。そんな願いが届いたのか、職員用の通用口のドアは開いた。
校舎内は非常灯が間隔を開けてポツリポツリと光っているのと、消火器の表示灯の赤いライトが不気味に光っているだけで、殆どが暗闇だった。正直めっちゃ怖い。だいぶ後悔している。自分の心臓の音だけが聞こえている静寂の世界だった。
―――わたしは雄英高校の職員で、ただ忘れ物を取りに来ただけだ。それなのに、めちゃくちゃ怖い上に、不法侵入しているかのようなスリリングな緊張感に襲われている。しかしここまできて引き返すわけにはいかない。ここまでの時間と、勇気が無駄になってしまう。
スマホのライトで足元を照らしながらゆっくりと歩き、角を曲がり、少し歩くと、光が漏れている部屋が見えてきた。あそこは確か、職員室だ。誰かまだ残っているのだろうか。それとも、泥棒……? 恐ろしい想像がよぎり、バクバクと心臓が飛び出そうなくらい早鐘を打っている。けれど職員室の前を通らなければ、傘置きのある事務室にはいけない。わたしは深呼吸を繰り返すと、意を決して忍び足で廊下を歩く。
職員室が近づくたびに緊張で乱れる呼吸を、必死に整える。そんなことを繰り返しながら、ついに職員室の手前までやってきた。スマホのライトを消し、物音を立てずにドアの横にピタッと立つ。緊張は最高潮に達している。
(1,2,3で覗き込む! よし、いくぞ、1,2……)
3。頭の中でカウントし、勇気を振り絞って職員室をそろりと覗き込む。すると、そこには、こちらに背を向ける形で座り込み、デスクに向かって何かを打ち込んでいる人の姿が見えた。デスクの上にはパソコンだけでなく、タブレット端末も立ててある。座っている人間は髪を一つに結いていて、キーボードを叩く手を止めると、大きく伸びをした。
あれ、待て。
気づいた瞬間、わたしは息を呑んだ。
あの席に座っている人をわたしは知っている。だって、通りかかるたびに、その人がそこに座っているかどうか見ていたから―――
「あの」
なるべくビックリさせないように囁くように声を出せば、その人――相澤先生――は、先日桜の樹の下でお会いしたときみたいに、大きく肩を揺らして首だけ振り返った。
「ッ!? ……お前、本当におれを脅かすの好きだな」
わたしだと気づくと、相澤先生はホッとしたように息をつき、椅子ごとくるりとわたしの方を向いて腕を組んだ。
髪を一つに結んだ相澤先生は、いつも通り髭は生えているものの、前髪も真ん中で分けていて、かなり小ざっぱりして見える。もっと、感情のまま言うならば、いつもと違うスタイルに、イケメンが際立ちすぎてついていけない。思考がフリーズしそうだ。相澤先生を象っているすべてがどうしようもなく美しくて、尊くて、愛おしい。
「ご、ごめんなさい……。あの、お疲れさまです。残業ですか?」
「ん、まあ。残業なんざ非効率的だが、どうしても月曜までに終わらせたいものがあってな。名字こそどうしたんだ、こんな時間にこんなところで」
「えと、さっきまで飲んでて、帰り際に学校に傘を忘れたことに気づいて、取りに来ました」
「一人でか?」
「はい」
「不審者の情報忘れたのか、ったく」
相澤先生は盛大に顔をしかめると、くるりと椅子を回転させて、わたしに背を向けた。そしてカタカタと再び文字を打ち始める。
「危ないから送ってく。もうすぐ終わるからちょっと待ってろ」
「え、でも―――」
「これ以上のやり取りは無駄だ。そこらへん座って待ってろ」
「……はい」
きゅぅぅ、と心臓が縮みこんだ。相澤先生は優しい。厳しそうに見えるのに、なんだかんだで優しい。残業で疲れているだろうに、それでも一職員のわたしを、夜道が危ないからと言って送ってくれる。わたしだからではない、ちゃんと分かっている。苦しいけど、事実だ。この優しさを独占したいとは思っていない。でも、独占できたらどれほど幸せなんだろうかと思う。
わたしは言われたとおり待つべく、相澤先生の隣に座る。スマホは先程のライトを点灯させたのを最後に、電池が切れてしまってうんともすんとも言わない。手持ち無沙汰なので相澤先生を見れば、真剣な表情でタイピングをしている。丸まった背中、切れ長の瞳、通った鼻筋、白い肌。ひとつひとつ、相澤先生のパーツを見つめて、瞼に焼き付ける。こんな近くで相澤先生を見つめてていいなんて、この席の人本当に羨ましいなぁ。
「……あんまジロジロ見るな」
タイピングを続けながら相澤先生がわたしを一瞥し、むっつりと言った。
「すみません」
わたしは目線を外すけど、すぐにまた相澤先生を見つめる。この時間が永遠に続けばいいのにな。相澤先生と過ごす時間のすべてが、愛おしい。
やがて、相澤先生はぐっと伸びをすると、「待たせたな」といって、流れるような動きパソコンをシャットダウンし、ロッカーにかけたあった上着を羽織った。その間わたしは戸締まり確認をして、最後に電気を消すと揃って職員室を出た。職員室の明かりが消えると、もともと暗かったこの校舎が、本当に真っ暗闇に包まれた気がした。
「……そういえば傘は、持ってきたのか」
「あ。今から取ってきます!」
相澤先生に言われてハッとする。傘を取りに行くのをすっかり忘れていた。反射的に走り出すも、走り出した一秒後には、「おい」と呼び止められる。
「廊下は走るな」
学生の時ぶりくらいに言われた言葉に、急速に懐かしさが雪崩込んできた。
「そんな先生みたいなこと言わないでくださいよ」
「忘れたのか、おれは先生だ。こんな暗いのに走ったら転ぶぞ。危なっかしいから一緒に行く」
「……すみません」
相澤先生と並んで、歩き出した。夜の学校、先生とふたりきり。なんだかドキドキしてしまう。触れたい、繋がりたい、このまま吸い込まれてしまいたい。わたしの身体のベクトルは、相澤先生を指し続けている。
しんと静まり返った校舎内で、隣を歩く相澤先生は、闇の中に溶けてしまったのではないかと錯覚するほど輪郭が朧げで、曖昧だった。このまま少しずつ溶けていくのではないだろうか、そう思ったら、気がつけばわたしは、ベクトルの赴くまま相澤先生の服の裾を掴んでいた。
「どうした」
相澤先生の声が降り注いで、わたしは反射的に手を離した。本当にどうしたんだわたし、何も返す言葉がない。だって自分でも自分の行動に驚いているから。相澤先生がちゃんと隣にいることを確かめたかった。なんて言ったら、相澤先生は、酔っぱらいがよくわからんことを言っていると笑ってくれるだろうか。お願いだから、引かないで欲しい。
「あの、あと、えと……」
急速に顔に熱が集まるのを感じる。たぶん今、茹でダコのごとく赤くなっているだろう。なんの言葉も出てこないからさらに焦る。
「さっきは走っていこうとしてたくせに、怖くなったのか」
冗談交じりに相澤先生が言った。わたしは「はい」と同意する。相澤先生が納得してくれる理由だったら、なんでも良かった。
相澤先生は「ほら」と言うと、薄暗い闇の中に、もっと濃い黒がぬっと現れた。相澤先生が腕を出したのだ。
「掴まっとけ」
「あ、ありがとうございます……」
おずおずと差し出された相澤先生の腕を掴む。服越しに感じる相澤先生の固い腕の質感が、相澤先生が確かにわたしの隣にいるということを伝えている。服越しだけど、相澤先生の腕に触れている。その事実がまたわたしを酔わせた。
念願の傘を手に入れて、校舎を出るまで、わたしたちは殆ど会話をしなかった。わたしは何も喋ることが思いつかないし、相澤先生も喋らない。心臓の音が聞こえるのではないかというくらいの静寂に包まれながら、わたしはひたすら相澤先生を感じ続けた。
校舎の外に出ると、月と星に照らされた世界がとても明るく感じた。わたしの手が、相澤先生の腕を掴む姿が月明かりにありありと晒される。恥ずかしくなったわたしはすっと手を離した。
「ありがとうございました」
「ん」
短く告げられた言葉。それだけでも、わたしの身体の芯がじんわりと熱くなるのだ。
並んで雄英高校の門を出ると、相澤先生が立ち止まる。
「案内を頼む」
「はい、こっちです」
傘で方面を差せば、「こら」と相澤先生が短く叱る。
「傘を振り回すな。お前は本当に、子どもか」
「あはは。すみません」
また怒られてしまった。でもすごい楽しくて心が弾む。
この間の飲み会の帰りみたいにわたしは相澤先生とともに家路をゆく。当たり前みたいに相澤先生は車道側を歩いていて、本当に素敵な人だなとしみじみ感じる。ちょっと前まで同僚たちと飲み会だったのに、それが遠い昔のように感じた。
「そういえば、そろそろ入試ですね」
「そうだな。準備でそろそろ忙しくなるだろ」
「はい。入試もあるし、卒業式もあるし、新年度の準備もあるし、年度末はやっぱり忙しいですね」
これからの時期は残業もじわじわと増えてくる。去年も大変だったな、と少し陰鬱な気分になる。
「あんまり無理はするな」
ココアみたいに温かくて甘やかな言葉が染み渡る。
「ありがとうございます。相澤先生もですよ」
「ああ」
「もし帰る時間一緒だったら、たまに会えますね。帰る方向一緒だし」
「……まあそうだな。そんときは送ってく」
相澤先生と同棲とかしてたらさ、帰る時間が一緒だったらたまにはこうやって一緒に帰ったりするのかな。それってすっごく幸せだな。
「嬉しいです」
ちらと相澤先生を盗み見れば、一つ縛りの相澤先生のスッキリとした横顔がそこにはある。
「あの、相澤先生。反則的にカッコよすぎませんか」
思わず思っていたことを口にしてしまった。わたしの心は今、スーパーボールのように弾んでいて、制御ができない。このまま「好きです」なんて言ってしまいそうで怖いくらいだ。
「は?」
相澤先生はわたしをチラと見て、眉根を寄せた。
「ていうか反則ってなんだ、ルールとかあるのか」
ルール。まさかそんなど正論な言葉が返ってくるとは思わず、なるほど。と納得してしまった。
「確かに、ルールってあるんでしょうか」
「知らねえよ。だから聞いたんだろうが」
なんだか無性に可笑しくなって笑いがこみ上げてきた。ひとしきり笑うと、目尻に浮かんだ涙を拭った。
「はー、面白い。とにかく、相澤先生ってかっこいいなって思ったんです」
「……それはどうも」
照れくさそうに相澤先生が言うので、わたしにも照れが伝播した。グイグイ行き過ぎた。でも、相澤先生がかっこよすぎるのが悪いのだ。
月明かりの下、わたしの恋心は宇宙のごとく加速膨張を続けていく。やがてブラックホールに飲み込まれるのを望みながら。
