04.アンタレスに惹かれる

 スマホの連絡帳を開いて、「相澤消太」の名前と電話番号をじっと見つめる。そこには固有名詞と数字の羅列があるだけなのに、わたしの胸がキュッと締め付けられる。この電話番号を押せば、相澤先生に電話をかけることができて、声を聞くことができる。そう考えると、沸騰したようにぶわっと身体が熱くなった。

「相澤、消太」

 声に出してみれば、それは特別な響きを持っているような気がした。その名前を口ずさむだけで、鼓動が高鳴る。そして、わたしなんかが呼んではならないような美しく高尚な言葉のような気がした。いつの日か、「消太」なんて呼べる日がくるだろうか。いまいち想像ができないのが、なんとも悲しいところだ。
 それからわたしはメッセージアプリを開いて、相澤先生とのトークルームに移動した。トークルームはあるが、まだメッセージの履歴はない。
 ―――今日は、飲み会の翌日である土曜日。昨日の興奮が冷めやらず、いつも起きる時間には目がバチッと覚めてしまった。勿体ないから二度寝しようと頑張ったが、どうしても昨夜のことを思い出してしまって、目は醒める一方だった。仕方がないので悪あがきをやめて起きることにした。そしてまずはマイクに昨日のお礼のメッセージを送った。次に、昨夜新しく追加された相澤先生とのメッセージルームを作成し、メッセージを打ち込んでは消しを繰り返していた。

(相澤先生は今頃寝てるのかな?)

 昨日の帰り道、休みの日は寝ていると言っていた。今何してるの? なんて気軽に聞けるような間柄だったら良いのになぁ。連絡をする手段を手に入れても、気軽に連絡をする間柄ではない。そんなことを思い知る。マイクだったら気兼ねなく連絡できるんだけどな。この差は一体何なんだろう。
 はぁ、と息をついて目を閉じると、昨夜の出来事を頭の中でなぞっていく。相澤先生の喋る言葉、声の低さ、白く染まった吐く息、癖がついた長い黒髪、吸い込まれそうな黒い瞳、すべてがわたしを掴んで離さない。強くて、美しい引力。どうしてそんなにわたしを惹きつけるのだろうか。
 そして、結局わたしはその日一日じっくりとメッセージの内容を考えて、日が暮れだした頃に当たり障りない文章を送る。

『昨日はありがとうございました。帰りは送ってくださって本当に嬉しかったです。またよろしくおねがいします』

 我ながら、一日考えときながら、とんでもない当たり障りなさに驚く。とはいえやっと送ることができた達成感を感じる。だが次の瞬間には、相澤先生から返事が来るかどうかとても気になって仕方なくなってしまった。どうしたんだわたし、恋する高校生なのか?
 相澤先生のせいで、最近は心がたくさん動いていて、忙しなく、疲れてしまう。けど、嫌いじゃない。一生懸命生きてるって感じがして、なんか楽しい。きっと相澤先生の放つ引力に囚われた瞬間から決まっていた。一歩踏み出してしまった足は、もう止められないらしい。
 と、スマホが振動した。超速でスマホを確認すれば、『相澤消太』の文字。相澤先生からの返事は、思ったより早くに来た。わたしの心臓が潰れてしまうくらいギュッと締め付けられた。相澤先生からメッセージが来ました!! 今日は相澤先生から初めてメッセージが来た記念日です……! バクバクと忙しない心臓を落ち着かせるために深呼吸をし、震える指でメッセージを確認する。

『こちらこそありがとう。また月曜』

 簡素で、必要最低限。無駄をすべて削ぎ落としたとっても相澤先生らしい文面で、わたしは思わずニンマリしてしまった。
 早く学校に行って、相澤先生に会いたい。休みが早く終わってほしい。なんて、ちょっと前の自分だったら天地がひっくり返ったって思わないようなことを思ってしまった。これが相澤先生の力。すごいなあ、相澤先生。

+++

 飲み会から数日が経ち、2月に入った。午前中の仕事を終えてお昼ご飯を食べたあと、お昼休みが終わるにはまだ時間があるため、たまには中庭を散歩しようと考えた。なぜかといえば、晴れ渡った冬の澄んだ空に引き寄せられたということもあったし、相澤先生とどこかでエンカしないかなというアホみたいな考えもあった。
 理由はどうであれ、身体を動かすのはいいことだ。善は急げとコートを羽織って校舎を出ると、冷え切った空気がわたしの頬を撫ぜる。寒い……寒すぎる……校内にいると忘れてしまうけど、外は寒いのだった。若干外に出たことを後悔しつつも、ここまできたんだから、と歩みを進める。
 中庭では寒空の下、生徒たちが思い思いの時間を過ごしていた。カップルかな? 仲睦まじく歩く二人の男女や、ランニングをしている子、ベンチに座っておしゃべりをしているグループ。こんなに寒いのに、生徒たちはそんな寒さも感じさせないほどハツラツとしている。
 わたしはそんな生徒たちの中をそろそろと通り抜けて、気の向くまま歩く。段々と人気もまばらになってきて、なんとなく歩きやすくなってきた。桜の木が並んで植えられているのが見えてきて、わたしは吸い寄せられるように赴く。今は葉もなければ桜も芽吹いていないため、寒々しく、永遠の眠りについたような姿だけど、あと少ししたらこの樹々は満開の桜で彩られる。わたしが高校生の時も、それはそれは立派に咲き誇っていた。
 近づけば、一番手前の桜の木に背中を預ける形で誰かが座り込んでいるのが見えた。全体的に黒くて、それとは対象的に首周りに白い包帯ほどの太さの布をグルグル巻いている。この後姿に、心臓がきつく締め付けられた。確証はないけれど、直感があの人ではないかと訴えかける。
 それを確かめるべく、そろそろと息を殺して近づいていく。近づくに連れて確信を帯びていく。絶対にそうだ、この人は……相澤先生だ。相澤先生と思しき人は膝を立てて座っていて、その足の間から黒くて細いふわふわとしたものがひょろりと覗いている。

「猫ちゃん?」

 気がつけば口をついて出ていた。自分で自分に吃驚して、慌てて口を覆うが、もう遅い。相澤先生は肩を震わせて驚き、すごい勢いで顔だけ振り返った。なんなら個性が発動して、髪が猫のように逆立っている。わたしは個性を発動させていないので全く支障はないけれど、蛇ににらまれたカエルのような気持ちになった。これがプロヒーローの凄み……!

「ッ!? ンだ、名字か……びっくりさせんな」

 背後からのわたしの気配に気づかないなんて、相当猫に夢中だったんだろうか。わたしだと分かると、ホッとしたような顔になり、髪がふわりと重力に従って落ちていった。相澤先生の足の間には黒猫がいる。黒猫は相澤先生の異変を察知して尻尾をピンと立てて警戒するも、すぐに「にゃぁお」と可愛らしい声を上げて相澤先生に身体を擦り付けていた。か、かわいい……猫ちゃんももちろん可愛いけど、猫といる相澤先生も可愛い……。

「ビックリさせてすみません。……その猫ちゃん、どうしたんですか?」

 通称:雄英バリアーがあるので、この敷地内には入ることはできないはずなのに、今ここに猫ちゃんがいる。相澤先生が連れてきたのか、あるいはどこか雄英バリアーが機能していない場所があるのかということだ。後者なら結構問題だ。

「おれもさっき見つけてな。首輪が付いてるから飼い猫だろうが、迷子なのかどっかから入ってきたのか、調べる必要がある」

 相澤先生が言ったとおり、猫ちゃんの首には赤い首輪が付けられていた。

「そうですね。もし抜け穴なんかがあったら大変なことですからね」
「ああ。これでもし敵の侵入を許したら、雄英の信頼が揺るぎかねない」
「わたし、施設管理関係の部署に報告しておきます」

 わたしたちが真顔で会話を交わしている間も、猫ちゃんは相澤先生にじゃれついているし、相澤先生もゴロゴロと喉を鳴らす猫を撫でつけている。まあまあ真面目な話をしているのに、なんとなく緊張感が薄らぐ。
 猫ちゃんも相澤先生にすごく懐いているし、相澤先生も撫で慣れている。じつはおれの飼ってる猫なんだと言われても、納得してしまうくらいには馴染んでいる。あぁ尊すぎる。合掌したい。散歩に来て本当に良かった。

「あの、わたしも触ってもいいですか?」
「いいんじゃないか。そもそもおれの猫じゃないし」
「それでは失礼して……」

 相澤先生の前に回り込み、しゃがみ込む。相澤先生と向かい合う形になるので、ほんの少し緊張する。猫ちゃんはわたしをチラと見ると、甘えるように地面に寝転がり、伸びをして、チョイチョイと前足を動かしている。か、かわいすぎる。あざとすぎる。絶対自分のこと可愛いって分かってるよねこの子!!! 作戦通りわたしはメロメロで、ニマニマが止まらない。

「どこからきたのかな〜? かわい子ちゃんめ」

 猫ちゃんのふわふわな毛並みを優しく撫でつけながら、話しかける。ゴロゴロと喉を鳴らす音が聞こえてきた。

「よしよし、ふわふわだねえ」

 夢中で猫ちゃんを愛でていると、ふと猫ちゃんの姿が先日の相澤先生を彷彿させた。黒い毛並みに赤い首輪が、黒い上着に赤いマフラーの相澤先生に重なる。その瞬間、相澤先生がすぐ近くにいることを改めて思い出す。猫ちゃんを撫でつつも、チラと目線だけ動かして相澤先生を盗み見る。その瞬間、わたしの心臓がぎゅっと締め付けられた。相澤先生は、眼尻を下げ、とても優しい顔で猫ちゃんを見ていた。わたしは時間とか場所とか、あらゆるものから切り離されて、ただひたすら目の前の相澤先生に吸い込まれてしまう。猫ちゃんを撫でる手は、あっけなく止まった。
 切ないくらい美しいわたしのブラックホール。触れたい。でも触れてはだめだ。触れたら最後、わたしはきっと跡形もなく吸い込まれてしまう。
 そして、相澤先生がわたしの目線に気づいて、視線と視線が混じり合った。その瞬間から、わたしの時が動き出した。や、やばい。バレた。慌てて猫を見て、止まっていた手を再開する。

「可愛いねえ」
「オイ、誤魔化すな。おれになんか付いてるのか」
「あ、い、いえ! なんでもないですすみません」

 ひたすら猫を見ながらなんとか早口気味に誤魔化す。こんなとき、相澤先生がかっこよすぎて見惚れてました! なんて、サラッと言えるような女だったら、相澤先生を意識させることができるだろうか。もちろん無理なんだけど。
 猫はぐっと伸びると、立ち上がり、先程のように相澤先生に身体をこすり始めた。

「そ、そうだ。猫ちゃんどうしましょうか。どこかで保護したほうが良いでしょうか」

 無理くり話を元の路線に戻す。保護をしたほうが良いのか、このままここに置いていったほうが良いのか。はたまた警察か、役所へ連れて行ったほうが良いのか。どれが最善の手なのだろうか。

「多分大丈夫だろう。自分で飼い主のところに戻っていけるはずだ」
「わかりました」
「さて、そろそろ戻るか」

 言われて時計を見れば、もうそろそろ戻らないとまずい時間だ。相澤先生は立ち上がると、名残惜しそうに黒猫を見やった。黒猫も、相澤先生が立ち去っていくのが分かったのか、寂しそうに鳴く。

「ごめんな、もう行かなきゃいけないんだ」

 相澤先生は再びしゃがみ込んで、言い聞かせるように言う。猫は「わかったよ」と言わんばかり一鳴きすると、優雅に尻尾をふりふりしながら外壁がある方へと歩いていった。相澤先生は立ち上がり、「帰ろう」と歩き出した。
 わたしと相澤先生、隣同士を歩く。今日も優しい相澤先生はわたしの歩調に合わせてくれている。幸せな時間。永遠に続いてほしい時間。ふわふわ、心が浮かれる。このまま風船みたいに、空の彼方へと飛んでしまいそうだ。

「さっきの猫ちゃん、相澤先生に似てましたね」
「そうか? どうせ黒いからだろ」
「はい。名前、消太だったりして」

 しれっと名前を呼んでみて、ドキドキが止まらない。消太、その言葉を発するだけで、わたしの心臓は一生懸命動き出す。

「あの子、メスだっただろ」
「そうだったんですか!」
「ついてなかったからな」

 猫ちゃんに夢中だったのと、相澤先生のせいで、そんなことに全く気が回らなかった。メスの猫ちゃんだったのか。それじゃあ消太はないな。

「名前かもな」
「えっ?」

 思わず弾かれたように隣を歩く相澤先生を仰ぎ見れば、相澤先生もゆっくりとこちらを見て、視線が絡み合う。初めて呼ばれた、わたしの名前。これまでの人生で名前を呼ばれることなんて、幾度だってあった。でも相澤先生に呼んでもらえるだけで、こんなにも嬉しいんだ。泣きたいくらい幸せで、熟れた果実みたいに甘美な響き。相澤先生はわたしに、いろんなことを教えてくれる。

「さっきの猫の名前」

 いたずらっぽく口元を上げた相澤先生。な、なんだ。猫の名前か。そういうことね。でも、つまりはさっきのわたしみたに、わたしになぞらえてその名前を発したってことでしょ。実質わたしのことを呼んでもらったってことだよね。ああ、嬉しい。幸せ。神様、ありがとう。相澤先生も冗談とか言うんだ。
 ああ、顔が熱い。破壊力すごい、相澤先生から放たれる『名前』は、特別な響きを持っている。

「……えと、どうでしょうね」

 こんなとき、気の利いた返しの一つも言えない自分に腹が立つ。でも、いっぱいいっぱいの頭では、残念ながらウィットな返しは思いつかなかった。

「消太よりかは可能性は高いな」
「いえいえ、いい勝負だと思いますよ」
「おれが飼い主で、名前か消太の二択なら名前って付けるね」

 『名前』って言葉を相澤先生が口にするたびに、わたしが泣きたいくらい幸福な気持ちになっていることを、相澤先生はもちろん知らない。もしも知ったら、どんなことを思うんだろう。気持ち悪いと思うかな、それとも、ちょっとでも嬉しいと思ってくれるかな。
 もう逃げられない、もう誤魔化せない、わたし、相澤先生に恋をしているかもしれない。少しずつ自覚するこの気持ちは、どんどんと加速していく。