03.冬の大三角形が見てる

 マイクから飲み会のお誘い連絡がきたのは1月の中旬で、誘われたのは一月最終週の金曜日だった。場所は雄英高校近くの路地裏にある居酒屋『三猿』。雄英関係者はよくここで飲んでいて、わたしも何度か利用したことがある。
 雄英の元教師が開いた店で、外観も内観も、赤提灯が似合うザ・居酒屋といったお店だ。社交辞令かとも思ってたので、こんなに早く実現するとは思わなかった。マイクからお誘いが来たあと不意に、観葉植物に話しかけている相澤先生を思い出して、暫く笑いが止まらなかった。あんなのずるいよ。もう一度あのときに戻りたいなって思ったけど、また飲みに行けるんだから、それを楽しみにしないとね。と思い直した。
 太陽は出ているものの吹き付ける北風が冷たい朝、飲み会は明日と迫った木曜日。出勤の道中、雄英高校の大きな校門をくぐっている所で金色の髪の毛を逆立てた派手派手なマイクとパッタリ会った。

「グッモーニン、名前ちゃん! 明日はよろしくな!」

 隣に並ぶと、すちゃっと片手を上げてマイクが言う。朝からまあまあ大きな声量で、周りにいる人には多分、もれなく全員丸聞こえだと思う。現に斜め前を歩いていた職員がちらっと振り返った。

「おはようございますマイク。明日すごい楽しみです」
「俺もだぜっ! しかもノリが悪ィで有名なイレイザーもくるなんて珍しいことなんだぜ?」
「そうなんですか?」
「アイツ、誘っても全然こねぇのよ! っぽいだろぉ?」

 マイクの誘いだからでは? なんという大変失礼なことを一瞬思ったりもした。ごめんなさい。でも、そんなことを言われると単純なわたしは、今回は来てくれるのですか? と愚かにも期待を抱いてしまうのだ。先程まで寒くて仕方なかった北風をまるで感じないくらい気持ちが高揚しているのを感じる。

「確かに、ぽいですね」

 高揚をなんとか自分の中だけにとどめつつ、わたしはマイクに同意した。
 あの日、廊下ですれ違いざまに相澤先生から不意に心配してもらったときからわたしは、まるで鍵盤を一つなくしてしまったピアノのように調子が外れてしまっている。相澤先生のことが関係すると、ほんのちょっぴり前のめりになってしまうのだ。バカみたいに意識してしまっている自分に苦笑いを隠せない。ガチ恋じゃあるまいし。

「こないだの忘年会も結構楽しそうだったしなアイツ。名前ちゃん、あのイレイザーとずっと喋ってるなんて案外相性いいのかもなァ」

 マイク、もう、勘弁してください。別に楽しそうには見えなかったけど、マイクからそうやって言われると、勘違いしてしまいます。

「喋ってるというか、一方的にわたしが喋りかけていただけですよ」

 やんわりと否定するけど、マイクはニヤリと笑む。

「イレイザーのこと、よろしく頼むぜ!」

 マイクの言葉には深い意味なんてないのだと思う。単純に、仲良くしてやってくれよって意味だって頭では分かってる。分かってるけど、それでもわたしの心は、勘違いをやめられない。それじゃあ、とわたしたちは別れて、お互いの執務室へと向かっていった。

 そして金曜日。約束の日がきた。『三猿』のカウンター席で、相澤先生とマイクに挟まれる形で座り、それぞれの手に中ジョッキを持つ。店内にはまだわたし達以外のお客さんはきていなかった。

「んじゃ、お疲れェ!!!」

 マイクの発声で、真ん中に座るわたしのジョッキに二人のジョッキがカチンと小気味のいい音を立てて当たって、乾杯。冷たいビールを流し込むと、金夜だって感じがしてきた。隣に相澤先生がいる。それだけで胸がきゅっと締め付けられて、苦しい。

「こんな早くに実現するなんて嬉しいぜェ名前ちゃん! イレイザーと二人で飲んでも絶対楽しくないだろ!? でもこのプレゼント・マイクがいればもう安心だ!」
「お前がいても喧しいだけだ」
「いやーほんと、お二人と飲みにこれて嬉しいです」
「そう言ってくれるだけで嬉しいぜリスナー。あ、すみません! 注文いいすか!」

 マイクはいい塩梅につまみを注文してくれた。注文し終えるとビールをまた飲んで、喉を潤した。

「んじゃ、何系のイレイザーの昔話聞きたいよ? 豊富だぜ?」
「なんだそのふざけた話題。俺も同じだけお前の話を持ってるのを忘れるなよ」
「確かにィ!!!」

 マイクは本当に上手にトークを回してくれて、さすがラジオやっているだけあるなといったところだ。わたしへ話しかけつつも、きちんと相澤先生も絡めるきめ細やかな配慮がそこにはあった。マイクに回せない場なんてきっとないんだろうな、と密かに感心する。
 わたしたちは色んな話をして、お酒を飲んだ。他の先生の話や、小さい頃好きだったヒーローの話から最近のヒーローの話、高校生の時の話、教育者としての話。少し気になったのは、今日は相澤先生がそんなに飲んでいないということ。この間は水でも飲んでいるかのように飲んでいたけど、今日は片手で数えるほどしか飲んでいない。楽しくないのかな、なんて若干暗い気持ちが影を落とす中、不意に相澤先生が「そういえば」と話を切り出した。

「名字さんにずっと言いたかったんですけど」
「はい?」

 え、なんだろう。嫌な想像も良い想像も瞬時にできて、今のわたしの心の状況は、相澤先生のたったの一言によって、乱高下するジェットコースター状態だった。何を言われるのだろうか、とても怖い。相澤先生は手に持っていたジョッキをテーブルに置くと、視線をわたしに向けた。相澤先生からの視線に囚われ、包まれる。相澤先生の瞳は深くて広い宇宙だ。

「敬語じゃなくていいですよね」
「へ?」

 全く想像していなかったことを言われて、わたしはほぼ反射的に素っ頓狂な声を出してしまった。まさかそんなことを聞かれるとは思わなかったし、わざわざ聞いてくれる相澤先生は、とても律儀だなあと思う。胸のあたりからムクムクとこみ上げてくるこの愛おしさのような感情が、頬を緩ませる。マイクが面白そうに笑って言う。

「いやイレイザー、そんなこと敢えて聞かなくたっていいんじゃね!? かわいいやつかよ!」
「あ?」
「もしかしてあれか? 彼女にもいちいちキスしていいか? とか聞く系か!? ヒュー」
「聞かねぇわ。ヒューってなんだよ」

 HAHAHAHA! と愉快そうに笑うマイクと、実に不愉快そうな顔で睨む相澤先生。わたしは何度も頷いて肯定の意を示した。

「もちろんです。楽に喋ってくれたほうが嬉しいです」
「それじゃあ遠慮なく。呼び捨てでいいよな」

 タメ口も呼び捨ても普通なことなんだけど、わざわざ聞いてくれるというのが本当に律儀で、優しい人だ。相澤先生を知っていくたびに、どんどんとわたしは相澤先生へと吸い寄せられていく。不思議な引力、不思議な質量。

「はい。もちろんです」
「じゃあ、名字で」

 はい。名字名前、正直に言います。一瞬期待しました! 名前って名前で呼んでくれるのかな? って。お恥ずかしい限りです。と同時に、そりゃそうだよな、と納得もした。相澤先生の距離感だったら、それが通常運転だ。けれど、敬語からタメ口になったことでだいぶ近づいた気はする。鼓動が早くなり、血の巡りが良くなる。だから、つまり、今、顔が熱いのだ。それから顔中の筋肉が弛緩している気がする。ニヤニヤと、嬉しさが抑えられない。

「なんか名前ちゃん嬉しそうだなオイ」
「なんか、はい。嬉しいですね」
「ヒュー」

 マイクの煽りに、相澤先生は「だからヒューってなんだよ」とツッコむ。この流れで連絡先を聞きたい、と思うのだが、勇気が出ない。そして勇気が出ないまま、その機会をなくした。
 そしてあっという間に時間は過ぎていき、お開きの時間だ。お会計はマイクと相澤先生で支払ってくれた。絶対に払うとわたしは駄々をこねたが、次回な、の言葉で流されてしまった。でも次回な、ってことは、また一緒に飲んでくれるのかな? と淡い期待を抱く。ちょっとしたことに幸せを感じる。

「ありがとうございます。では、次回こそ」

 そして『三猿』の暖簾をくぐり外へと出ると、冷たい風が吹き付けて、一気に冬の寒さを思い出させた。ぶるりと身を震わせつつも、わたしはお二人に、改めてお礼を言う。

「今日はご馳走様でした。そして本当にありがとうございました。すっごく楽しかったです」
「礼には及ばねぇぜ! 俺も楽しかった」

 マイクがTHUMBS UPしてくれるので、わたしもTHUMBS UPし返す。その隣で相澤先生が赤いマフラーに顔を埋めている。可愛いし、赤も似合うなぁ。相澤先生を盗み見していると、視線がかち合った。そして、「名字」と名を呼ばれた。まさか呼ばれると思わず、心臓が跳ねる。

「はい」
「家まで送る」

 なっっ!!!! 何その唐突な神イベント!!!! 嬉しすぎる申し出だけど、わたしはほとんど反射的に首を横に振っていた。

「えっ、あ、そんな、悪いです。大丈夫です」
「家が嫌だったら家の近くまででもいい」
「そういうわけではないです! ただ、申し訳ないというか」
「名前ちゃん、ここは甘えとけ? 俺はこのあとラジオがあるから送っていけないんだが、イレイザーがいれば俺も安心だ!」

 マイクが援護射撃を打ってくる。でも、でも、そんな、わたしなんて誰からも狙われないだろうし。そんなわたしの心情を知ってか知らずか、相澤先生はなおも食い下がる。

「こないだも言ったが不審者の目撃情報もある。つべこべ言わず送られておけ」
「頼むぜイレイザー!」
「でも」
「これ以上は時間の無駄。ほら、どっちだ」
「んじゃあふたりともオヤスミ、また来週な!」

 マイクはいい笑顔で片手を上げてさっさと帰ってしまった。
 取り残されたわたしと相澤先生。わたしの心臓はバクバクと破裂しそうなほど高鳴っている。どうしよう、本当に送られて良いものなのだろうか。迷惑じゃないかな、時間の浪費じゃないかな。相澤先生を見上げれば、充血した三白眼が催促するようにじとっとわたしを見ていた。

「で、どっちだ」
「……こっちです」

 わたしは観念して、自分の家へと歩き出した。見上げれば、濃紺のビロードのような夜空に敷き詰められた星が瞬いて、なんて美しいのだろう。いつもと変わらない帰り道なのに、相澤先生の隣で見る星空はこんなにも美しいなんて、知らなかった。

「本当にありがとうございます」
「一人で帰して、何かあったらって心配するほうがよっぽど合理的じゃない。だからこれが一番いい」

 夜の闇に溶けていきそうな黒い服によく映える赤いマフラー、歩くたびに布が擦れる音、冬の夜の匂い。相澤先生の吐く息が白くて、わたしたちは確かに今、隣同士を歩いているのだと実感する。わたしを心配してくている相澤先生の優しい言葉が、じんわりと沁みていく。

「でも相澤先生の家の方面って、こっちの方ですか? 遠回りさせてしまうのがとても申し訳ないというか……」
「……そんなこと心配しなくていい」
「ですが」
「偶然だが俺もこっちの方だから、なんの問題もない」
「ホントですか?」
「嘘を吐く必要があるか」
「……信じます」

 わたしはとんだ果報者だ。神様、本当にありがとうございます。こうなったら、この神イベントを楽しませていただきます。でも相澤先生の家がこっち方面なのは、幸いだ。罪悪感が少しばかり薄らいだ。
 わたしの住む家への道のり、相澤先生は歩調をわたしに合わせてくれている。それを良いことに、調子に乗ったわたしはいつもよりもゆったりとした足取りで歩いている。少しでも長く一緒に隣を歩きたいな、って思ったからだ。どうせならいいよね? 冬の夜空を彩る星々に見守られながら、わたしたちはぽつりぽつりと会話を交わしていく。

「相澤先生、この土日は何するんですか?」
「寝てるね。休みの日は何もしたくない」
「折角の休みなのにもったいないですね」
「折角の休みだから寝るんだよ。名字は?」
「わたしは……わたしも寝てるかもです」
「お前、さっき自分が何言ったか忘れたか」
「あはは」

 会話をしている。この間みたいに一方的ではない、キャッチボールを続けている。ちょっとずつ仲良くなれている気がして、とても些細なことでも嬉しく感じる。変な表現だけど、野良猫を少しずつ懐かせてて、やっと足元にすり寄ってくれたみたいな気分だ。

「今日、すっごく楽しかったです」
「もう十回は聞いてる」
「それしか考えられなくて。相澤先生に、知って欲しいんです」
「充分、伝わった」

 なんとなく隣を歩く相澤先生を見上げれば、相澤先生も同じタイミングでわたしを見て、ふっと力が抜けたように目元を細めていた。視線がかち合うだけで心臓が深く深く脈を打ったのに、そんなふうに笑われてしまったら、わたしはもう原子レベルに分解されるほど溶けてしまいそうになる。危険を感じて慌てて視線を前方に戻す。わたし、相澤先生と一緒にいたら心臓の負荷がやばすぎて早死する気がしてきた。

「あ、あの、今日は酔ってますか?」

 話題を無理くり変える。自分の鼓動の音が相澤先生に聞こえてしまいそうだから、とにかく何か喋らないと、と思ったからだ。

「酔ってたら送れない」

 その相澤先生の言葉に、頭の中で点と点がものすごい勢いで繋がって、目の前で火花がパチパチと爆ぜた。
 あくまで憶測且つ希望的観測になるけど、相澤先生は最初からわたしを送る前提で考えてくれていたってこと? だからあんまり飲まずにセーブしていたってこと? そう考えだしたら、相澤先生への愛おしさみたいなキュンとした気持ちが噴水みたいに湧き上がった。自分の都合の良いように考えているのかもしれないけれど、そう思ったらそうとしか思えなくなってしまった。
 だめだ、わたし、もう抑えられないかもしれない。相澤先生のことを深く知っているわけではない。寧ろ知らないことのほうが多い。でも、だからこそ、どんどんと肥大化していく想いが、相澤先生のことを知りたいと、一緒にいたくて堪らないと切に願うのだ。
 気がつけばわたしの足は止まっていた。

「どうした? 気分悪いか?」

 相澤先生も立ち止まり、呆然としているわたしを心配そうに覗き込んだ。相澤先生の双眸の奥に広がっているブラックホールが、わたしをどうしようもなく切なくさせる。そのブラックホールを見ていると、わたしは身体の真ん中がじんと熱く燃えていくような錯覚に陥る。そしていつか焼き尽くされてしまうのではないかと怖くも思う。
 言え、言うんだわたし。今言わなかったら絶対に後悔してしまう。無意識に握っていた拳がじんわりと汗ばんでいる。このとんでもない寒い冬の夜に汗ばんでるのなんてきっとわたしくらいだ。頑張れ、わたし。

「……あの、相澤先生」

 震える声がなんとも情けない。

「………連絡先、聞いてもいいですか」

 酔いなんてとうに冷めていて、泣きたいくらいシラフな自分が、己の中にある勇気をかき集めるだけかき集めて、連絡先を聞いた。たかだか連絡先を聞くだけでこんなに緊張するって、どういうことなの。大人のくせして恥ずかしい。でも、これがわたしだ。悪いか。
 ずうっと言いたかったことを口にすると、わたしは視線を落とした。恥ずかしいのと、拒絶されるかもしれない怖さがわたしのことを自然とそうさせた。

「それでそんな顔してたのか」

 相澤先生は呆れただろうか。相澤先生の顔が見れなくて、わたし自分のつま先を見ながら、情けないくらいか細い声で「はい」と頷いた。

「ほら」

 視線を少しだけ上げると、相澤先生の手にはスマホが握られていた。そのまま流れるように顔を上げれば、相澤先生はいつもと変わらない、笑ってもなければ怒ってもない、ニュートラルな表情だった。わたしは暫く呆けて相澤先生を見続けていた。

「交換するんだろ」

 相澤先生が手にしたスマホを揺らす。わたしは我に返って、何度も何度も頷く。身体の奥深くから喜びが湧き上がってきて、ちょっと涙腺が緩む。しかし涙をこぼすわけには行かないので、わたしは瞬きをするのをやめて、かっと目を見開いて必死に乾燥させた。乾いてくれ、涙よ。

「ありがとうございます。せ、僭越ながら……連絡先を交換させていただきます……それではお電話番号をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「さっきからいちいち大げさすぎないか」

 そう言って相澤先生はまた優しく目元を細めるのだ。
 どうしてこんなにわたしはこんなにドキドキしているんだろう。引力に導かれた瞬間から、もう逃げられることはできなかったのかもしれない。あとはもう引力に身を任せて、吸い込まれるだけ。それでもいいかなって思った。