それからナマエは毎日リハビリに専念した。ずっと寝たきりだったので体中の筋力が低下していて、日常生活を送るのに支障をきたしている。最初は立ち上がることさえ困難であったし、腕ひとつ、指一本動かすのも難儀であった。
目覚める前までの記憶は相変わらず取り戻せない。自分は何者なのか、こうなる前は何をしていたのか、何も分からないけれども、ひとまずはやはり一人で不自由なく生活を送れるようになるのが最優先であった。
そして、黄金色の髪の、美しい芸術作品のような男はDIOと言う男らしい。彼の首元には大きく、痛々しい傷跡がある。それがまた、DIOの美しさを引き立てていると言っても過言ではない。
DIOはナマエに、焦らずにゆっくりと身体の力を取り戻していきなさい、と優しく言ってくれる。けれど早く一人で自由に動けるようになりたいという気持ちは次第に焦りに変わり、思うように動けない自分自身に苛立ちを覚えることもあった。そんなときは彼の用意してくれた車いすにナマエを乗せて、押してくれる。
『焦らなくていい、ゆっくりと取り戻していくのだ』
『ナマエが今ここにいてくれるだけで私は嬉しいのだよ』
そんな優しい言葉をかけながら、ナマエのリハビリを時に手助けし、時に見守っていた。
また、不思議なことにこの館はずっと遮光カーテンで閉ざされていて、一日中夜の世界にいるみたいだった。館には執事のような人がいて、総勢何人いるかはわからないが、とにかくこの夜の帳の降りた館はDIO以外にも数人いた。
リハビリを続けるうちに段々と身体の自由も取り戻し、声も出るようになっていく中で、DIOの館に入れ代わり立ち代わりでやってくる人が増えていった。
そしてナマエは、誰の介助がなくとも一人で暮らせるようになり、DIOの館でメイドとして働くことになった。DIOは何もしなくて良いと言ってくれたが、こんなによくしてくれて何もしないなんて、ナマエにはできなかった。
「ナマエ、君に言わなければならないことがある」
ある日のこと。DIOがそれはそれは神妙な面持ちでナマエに言った。雑巾がけをしていた手を止めて、はい。と返事をする。
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「実は私は吸血鬼なのだ」
ナマエの頭にはたくさんのクエスチョンマークが浮かんだ。DIO様が、吸血鬼? あの、人の生き血をすすり、にんにくが苦手の、あの? 冗談なのか、本気なのか、判別がつかない。けれどもDIOはよくわからない冗談を言うような人ではない。
「ええと……」
なんて返せばいいのかわからなくて言いよどんでいると、DIOはクスっと笑みを零した。
「ナマエ、今私が言ったことが信じられないという顔をしているな」
「あ……その、そんなことは」
「昔から君は考えていることが顔に出やすい。いいさ、今は私の言葉が信じられなくても」
そういってDIOが優しそうに笑うから、一体自分とDIOはどのような関係だったんだろう、と思わず思案してしまう。恋仲、なんていうのは絶対ないだろう、こんな素敵な方と自分が恋仲なんて天地がひっくり返ってもありえない。
眠りに就く前の記憶は相変わらずひとかけらもないけれど、たまに夢を見る。残念ながらその夢の内容は目が覚めると忘れてしまうのだけど、なんだか懐かしい気持ちになるのだ。
「今は、そうだなぁ。私が知っているナマエのことを教えてほしい、そんなことを考えているね?」
「す、すごいです。DIO様は本当に何でもお見通しですね。超能力者……ですか?」
「ふふ、超能力者と言ってもある意味では間違いではないかもしれない」
「DIO様、DIO様がご存知のわたしのことを教えてくれませんか? ひとつも思い出せないんです。眠る前の記憶や、どうしてずっと眠っていたのかとか。自分の名前だって、年齢だって、自分の記憶にないのです」
ナマエ、と呼び掛けてくれるから自分がナマエなのだ。自分で思い出したわけではない。名前だけでなく、DIOの館で仕事をしていると見たことも聞いたこともないようなものがたくさんあって驚きの連続だ。さすがに雑巾の絞り方なんかは体が覚えていたけど、この間見せてもらったCDプレイヤーなんかは記憶の片隅にもなかった。
「何も分からなくて、たまに自分が原始人だったような気持ちになります」
「くくく……ナマエは本当に面白い」
「そう……でしょうか」
「いずれ思い出す日がくるだろう。その日まで色々考えるといい。記憶を取り戻さなくても、勿論構わないがね」
またはぐらかされてしまった。いずれ思い出す日、それはいつなんだろう。思い出すことなんてできるのだろうか。
「ところで……吸血鬼とのことですが、何かこちらで気を付けることはありますか」
「今のままで十分だ。太陽の光を浴びることが出来ないから、ずっとカーテンは閉めたままで頼むぞ」
「かしこまりました」
だからいつもカーテンが閉まっているのか、と納得する。ナマエ自身、この館での生活も慣れてきたので常に暗いことは慣れてきたが、たまに外に出て買い出しに出て太陽を浴びると、やはり人間には太陽が必要なんだと痛感する。それを二度と浴びれないなんて、なんだかそれは寂しい気もする。
「寝具を天日干しするのもやめた方がいいでしょうか……?」
「それは構わない」
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このDIOの館は様々な人が訪ねてくるが、常駐している人はわずかだ。その一人は、テレンス・T・ダービーと言う男だ。彼もまた、DIOの館で執事をしている。DIOの側近のようなものらしかった。とても丁寧で物腰が柔らかいのが特徴的だった。
「ナマエさん、荷物持ちます」
買い出しをした帰り道、必ずテレンスは荷物を持ってくれる。頼んでいるわけではないのだが、買い出しだけでなく外出する際はできる限りついてきてくれる。
「ああ、すみませんテレンスさん。いつも気にかけてくださって大変恐縮です。でも、大丈夫ですよ? 英語が通じますのでひとりで買い物もできますし。テレンスさんのお仕事のお邪魔をしているようで気が引けます」
「ナマエさんのことは、DIO様からしっかりと言われておりますので」
テレンスが微笑む。DIOからは、ナマエが外へ出るときは可能な限りついていくように言われている。実際彼女はアラビア語を読むことも話すこともできないので、テレンスがいたほうが何かと好都合なのは間違いない。
「あの……テレンスさん、なぜDIO様がわたしなんかのためにこんなによくしてくれるのかご存知ですか」
「さあ、私は何も存じ上げません」
テレンスは肩を竦めた。テレンス自身も本当に分からない、このナマエと言う女がDIOにとってどんな存在なのか。彼女はスタンドも持っていないし、見えてもいない。
テレンスのスタンドであるアトゥム神でナマエの周りをぐるぐると回ってみたり、ナマエの顔に当たる寸前でパンチを止めてみたりと、様々やってみてスタンドの有無を確かめたりしたが、彼女は全く動じない。確かに、スタンドが見えていないのあろう。逆にもしこれでスタンド使いなら、相当なやり手だろう。けれどDIOがナマエはスタンド使いではないし、スタンドも見えていないと断言するので、きっと違うのだろう。
だからこそ、なぜDIOがナマエに執着するのか、本当に不思議だ。有能なスタンド使いだというなら、まだわかる。いや、有能なスタンド使いだとしてもこの執着は行き過ぎている。
――彼女の素性も分からない、彼女とDIOの関係性もよく分からない。また、たまに彼女は時代錯誤なことを言ったりするものだから、彼女自身の正体についてもテレンスはいささか興味がある。肌の白さや言語の違いから、エジプト出身ではなさそうだ。DIOと発音の仕方が似ていることから、出身が近いのかもしれない。だから、DIOがナマエを気にかける理由はその過去にあるのかもしれない。
「ナマエさん、あと何か買うものはありませんか」
「今日は大丈夫です、ありがとうございます」
にこっと微笑んだナマエは、特別美人なわけでもないが、彼女の純粋そうな雰囲気にはテレンス自身、毒気が抜かれる気がして、癒しのようなものを感じる。
スタンド使いと言うのは、常に危険と隣り合わせだ。スタンドの能力が周りに知られるだけだって、命の危険に晒されるのだ。また兄の影響もあり、勝負や賭け事とは切っても切れない縁であるため、そういった意味でもテレンスは日夜気が抜けない人生を送ってきた。
それに対して彼女はスタンド使いでもないし、勝負事とも無縁そうである。あのDIOが絶対の信頼を置いているということも相まって、テレンス自身も彼女に対してそこまでの警戒は抱いていない。そんな彼女と接していると、その時だけはすべて忘れて安心を覚えることが出来る。
たぶん、だが、DIOはそんなところに魅力を感じているのだと思った。たぶん、だが。月並みなことを言うと、砂漠にあるオアシスみたいな存在なのだろう。
