忘年会が終わり、年末年始休みに突入したと思ったら、お休みは転げるように終わってあっという間に仕事が始まった。休みというのはなぜこんなに一瞬で過ぎてしまうのだろうか。おそらく社会人の全員が抱えているであろう疑問を己の中で自問し、ため息をついた。
相変わらず冬の冷たい空気がわたしの身体に吹き付けて、まだまだ春は遠いなと感じる。わたしたち職員は学生たちよりも少し先に学校へやってきて、生徒たちを迎える準備を始める。今年も雄英高校の大きくて立派な校舎が変わらずわたしを出迎える。この校舎を見ると、背筋に定規を入れられたみたいにシャキっとする。立ち止まり、大きく深呼吸をした。
休み明けの学校は、まるで氷の城かのようにとんでもなく冷え切っていた。暖房が効くまでには時間がかかるだろう。事務室に入り、既に出勤していた同僚たちと年始の挨拶を交わしつつ、自席についてパソコンを立ち上げると、まだ始業には時間があったので、身体を動かしついでに山田先生と相澤先生にご挨拶に行こうと考えた。まだ出勤していない可能性もあるが、そのときはまたお昼休みにでも行けばいい。とにかく寒いから動きたい。
思い立ったが吉日と言わんばかりに、すぐに職員室へと向かった。胸がソワソワとはやり、急げ急げ言わんばかりわたしを突き動かす。
事務室から少し歩いたところにある職員室はありがたいことに扉が少し空いていて、わたしはそうっと覗き込む。お二人は出勤して―――
「何してるんですか」
「ひっ! これ、ちがっ、えっと!」
突然後ろから低い声をかけられて、やましいことなんて一つもしてないのに、なぜか弁解の言葉が口をついて出そうになる。わたしは心臓が飛び出そうになりながらも姿勢を正し、振り返った。そこには、血色の悪い肌に無精髭に、伸びた黒髪。猫背気味の身体に全身黒い服を纏い、灰色の捕縛布を巻き付けた探していた相手、相澤先生がいて、その三白眼がわたしをじっと見ていた。相澤先生だ、と認識した瞬間に鼓動が早くなる。
「あ、あ、相澤先生、おはようございます。それから、あけましておめでとうございます」
「……おはようございます。誰かお探しですか」
相澤先生と喋ることなんて普通なことなのに、何故だか緊張して、声が上擦ってしまった。
「あの、相澤先生を探していました。あと山田先生のことも。忘年会のお礼を言いたくて」
ああ、と相澤先生は呟いた。果たして相澤先生がどこまで覚えているのかは定かではないが、隣の席だったわけだし、そこは覚えてくれていると思いたい。それに、ありがたいことに認知もしてもらっていたから、きっと覚えている、はず。
「忘年会ではお相手してくださってありがとうございました。また、よろしくおねがいします」
「こちらこそありがとうございます」
当たり障りのない挨拶をし合うと、わたしはもう相澤先生と喋ることをなくしてしまったことに気づく。もっと喋りたい気持ちはあるのに、話題が何も出てこない。
合理主義、その言葉が頭によぎり、これ以上相澤先生の時間を割くことはできないな、と考えた。 それでは、と戻ろうとしたときに、「YEAAAAH!!」と新年早々賑やかな声がわたしの後ろ側から聞こえてきた。よく響き渡るこの声の主は振り向かなくたって分かる。
「名前ちゃん、あけおめことよろ! あ、イレイザーもな!」
振り返れば、やっぱりマイク。金色の髪を重力に逆らわせて、薄黄色のカラーが入ったサングラスをかけている。マイクは片手を上げて新年の挨拶を口にした。そしてマイクの存在が、わたしと相澤先生の間に潤滑油のようにするりと滑り込んで動きが良くなったような気がした。「取って付けたように言うな」と、相澤先生がボソッと文句を言う。
「マイク、あけましておめでとうございます。忘年会ではありがとうございました」
「こちらこそだぜ! また飲み行こうなッ!」
「是非お願いします」
「んじゃ連絡先交換しとこうぜ」
自然な流れでマイクはスマホを出したので、わたしもスマホを出して連絡先を交換する。するとその間に相澤先生は職員室に入っていってしまった。俺は関係ない、と言わんばかりだ。なんだか寂しい気持ちになる。ぼんやりしている間に連絡先交換はつつが無く終わっていた。
「んじゃ近々! イレイザーは俺が調整しとくからよ!」
「はいっ、ありがとうございます」
そっか、マイクが調整してくれるのか。マイクは「今日も頑張ろうぜ」と言って、ポンとわたしの肩を叩くと、軽快な足取りで職員室に入っていった。社交辞令かもしれないけれど、飲み行くの楽しみだなあ、とスマホを胸の前でぎゅっと握りしめると、わたしは事務室へと戻りはじめた。ふわふわと天に昇っていきそうな、心地よい感覚。今年はなにかあるといいなあ。年の瀬にも思ったことを、もう一度強く思った。
それからわたしは、マイクとは校内ですれ違ったときに時間があれば軽い立ち話をするようになった。相澤先生とは挨拶を交わすときに目が合うようになって、それから極たまぁぁぁに話しかけてくれるようになった。もちろん仕事のことだけど、わたしの仕事は教師である相澤先生の仕事のサポートでもあるため、聞かれては答えて、逆に聞いたりもしている。
つまるところ、あの飲み会以来、ほんの少し距離が近くなっている。
「名字さん、こないだのヒーロースーツの件なんですが」
「はい。申請済みで来週には届く予定です。届いたら持っていきますね」
「助かります」
廊下でほんの一言二言をかわして、すれ違う。忘年会をする前には絶対になかった光景だ。そんなことを思うと胸がムズムズとした。
先生がカリキュラムに集中できるように周辺のサポートをするのがわたしの仕事で、特に担当している先生がいる訳ではなく、先生からの頼まれごとに対して適当に仕事が割り振られるわけだが、最近は相澤先生から直接わたしにお願いされることもしばしば増えてきている。仕事のパートナーとして及第点をもらえているようで、誇らしい気持ちだ。
「そういえば」
わたしは立ち止まる。通りすがったあとに相澤先生から声がかかるなんて、気のせいとか幻聴の類かもしれないと思った。振り返れば、1Mくらい先で相澤先生もこちらを見ていた。ああ、まただ。相澤先生の視線に包まれると、わたしは途端に動けなくなってしまい、相澤先生の瞳に吸い込まれるような心地になる。
「最近雄英の近くで不審者の目撃情報があるらしいんで、気をつけてくださいね」
「……あ、はい。ありがとうございます」
相澤先生はわたしの反応を確認すると、話はこれでおしまい。と言わんばかりにくるりと踵を返して歩いていった。
心配をしてくれていた? 少し遅れて理解すると同時にやってきた小さな衝撃波に、つま先から頭の先まで包まれて、まるで温かいお風呂に浸かったみたいにじんわりとした幸せな気持ちになった。
(相澤先生が、心配をしてくれていた)
もう一度、噛みしめるように、その事実を大切に抱きしめるように、心内で呟いた。でも、突然のことだったので、なんて味気のない返事をしてしまったのを少々悔いた。かといってテイク2があったとしても、きっと同じようなことしか言えないんだろうな。
不審者の情報は今日の朝礼でお話があった。雄英高校付近をウロウロする不審な人物が目撃されているらしい。雄英高校には雄英バリアーと呼ばれているガードがあるため、関係者以外は立ち入ることができない。それに雄英はヒーロー志望が集う学校なので、並の人間だったらヒーローの卵である生徒たちに返り討ちに合うだろう。不審者の目的は分からないが、念には念をと言ったところだと思う。だからわたしもそんなに気にしていなかったけど、まさかこんなラッキーが待っていたなんて。
「ありがとうございます」
気がつけばもう一回、相澤先生の背中にお礼を言っていた。相澤先生の心配してもらったという事実が余韻みたいにわたしの中に残っていて、それが活力に置き換わった気がした。相澤先生の言葉は魔法みたいだ。なんの気ない言葉がわたしに力を与える。
きっと他の誰かに言われたって、こんなにわたしに影響を与えない。取り立てて驚くようなことでも、嬉しがることでもない。ではなぜ相澤先生からだとこんなにわたしに影響を与えるのか。それは相澤先生が他人の心配とかしなさそうに見えるのと、してたとしても口に出さなそうだから、だろうか。
と、深く考え込んでしまいそうだったが、ハッと我に返り、わたしも事務室に戻るために歩き出した。
そう言うわけで、ひょんなことからやる気がアップしたわたしは、自席に戻ったあと黙々と仕事に打ち込んでいた。
「名字さん、なんかいいことあった?」
「えっ!」
不意に隣の席の同僚から指摘されて心臓が飛び出そうになった。
『最近雄英の近くで不審者の目撃情報があるらしいんで、気をつけてくださいね』
先程の相澤先生からの言葉が、視線が、蘇る。拍車をかけるように心臓が一生懸命動いて血を巡らせているのを感じる。
「……そうですね、いいことありました」
「やっぱり。顔に出てるよ」
これ以上追求されないように、笑って誤魔化す。すると丁度いいタイミングで内線が鳴ったため、電話出るスピード選手権第1位を取れるくらいのスピードで内線を取った。
それからわたしは廊下を歩くたびに、相澤先生とすれ違うことをちょっとだけ期待するようになっていた。職員室の近くを通るときは、タイミングよく相澤先生が出てこないかなって期待したり、担当されている教室の近くを通るときは、相澤先生が教鞭をとる姿が見えないかな、と覗き窓に視線をやったり。それで運良くエンカウントしたら仕事頑張ろう! と思えるようになったり。恋してるとまでは言わないけれど、なんというか、身近な推しができたっていう感じだ。
この感情はまるで学校の先輩に憧れる後輩みたいだ。いい年した大人がどうしたことか、なんて思うけど、全部学校という場所がいけない、ということにしておこう。だって高校生だったときのことを、どうしたって思い出してしまう。
ーーー今よりも短い癖のある黒髪に、窮屈そうに身を屈めた猫背に雄英の制服に袖を通した相澤先輩。
相澤先生と、マイクと話すたびに、わたしの中に眠っていた記憶の扉がつつかれて、時折この校舎がそれらを思い出させるように高校生の時の記憶を今に重ねる。
廊下で通りすがったことはもちろんあるし、食堂で近くの席に座ったこと(当時はまだ固形物を食べていたっけ)、捕縛布を使って自主練をしている姿を見かけたこともある。雄英のヒーロー科には目立つ人はごまんといるけど、相澤先輩は目立つタイプではなかった。寧ろヒーロー科には珍しい、一歩引いて敢えて目立とうとしないような人だった。けれどなんとなく目を引いてしまう質量を持っている、わたしにとってはそんな人だった。
当時気になっていたとか、好きだったかと言われると、そういうわけではない。普通科だったわたしが、雄英の花形であるヒーロー科の人たちに憧れや羨望を抱くのはまあよくあることで。その中のひとり、それくらいだった。人生何があるかわからないなあ、と他人事のように思った。
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仕事を終えて自室のソファでテレビを眺めながらダラダラと過ごしていると、スマホが振動した。確認すればディスプレイにはプレゼント・マイクの文字。スワイプして確認すれば、一枚の画像が送られていた。
画像には二人の高校生が写っていた。一人はおちゃらけた顔でウインクとピースをして自撮りをしていて、その奥でもうひとりが机に突っ伏して寝ている。癖のある短い黒髪に、白い首筋。
画素の粗さが月日を物語っている。
そのあとにメッセージもきた。
『懐かしい写真が出てきたから名前ちゃんにプレゼント!! イレイザーは休み時間になるとすぐ寝てたから省エネ消ちゃんって呼ばれてたんだぜ!!』
そして笑い転げているスタンプが送られてきた。メッセージも賑やかで、マイクの人柄が出ているなと思う。わたしはすかさず画像を保存して、マイクに返事を送ると、もう一度写真を見返す。わぁ、相澤先輩だ。顔は見えないけれど、確かに相澤先輩だ。自然と口角が上がるのをそのままに、食い入るように見つめる。ひとつひとつ、それが山田先輩で、相澤先輩であることを確かめるように。相澤先生の不思議な質量、それはまるでブラックホールみたいで、わたしは吸い寄せられていく。
