01.導いて引力

 冷たく切りつけるような冬の朝の空気がわたしの吐く息を白く染めている。雄英高校、それがわたしの職場。超人社会と呼ばれるこの時代においては、知らない人はいないはず。それくらい有名な学校で、ありがたいことぶ学校事務として働いている。UAを象った特徴的な校舎はこの世界を支えるヒーローがどっしりと立つかのような形をして今日も出迎える。広大な敷地内にはいくつもの訓練場や施設がある国立の超難関高校だ。

「おはようございます」

 寒い寒い、と身体を擦りながら事務室に入る。自席に座り、パソコンを立ち上げながら今日の予定を思い出す。今日は確か……忘年会だ。もう今年も終わるのかぁ、デスクの上にある卓上カレンダーを見つつ思案する。
 今年は何もなかった。いや、今年も何もなかったの間違いか。来年こそはなにかあるといいなぁ。そんなことを思いながらパスワードを入力する。
 忘年会は雄英高校に勤めるものが一堂に会する一大イベントだ。この忘年会が終わると、年末年始休みに突入だ。なので今日は仕事納めの日でもある。ともすると、気持ちの半分くらいはもう休みに突入しているわけだ。生徒たちもひと足早く休みに入っていて、いつも賑やかな校舎は静まり返っている。というわけで、殆ど休みに片足突っ込みつつ、休み前の仕事を片付けていった。
 そうしてやってきた忘年会。会場はLUNCHRUSHのメシ処で、席はくじ引き制だ。職種に限らず交流し、労えるようにとの計らいらしい。正直、やめてほしい。仲のいい人たちと楽しくやらせてほしいもんだ。なんて心中でごちりつつ、同僚たちとメシ処に向かう。廊下には既にいい匂いがしていて、急速に空腹を訴える。既に会場には仕事を終えた職員たち多数いて、ワイワイと談笑していた。普段は食べざかりの高校生たちで埋め尽くされているメシ処が、大人たちでいっぱいになっているのは、毎度ながら不思議な光景だ。
 入り口で早速くじを引き、示された席に座る。まんまと同僚たちとは席が離されて、分かってはいたけど肩を落とす。わたしは3人が向かい合う形の6人席で、真ん中席だった。すでに4人が着席していて、わたしの隣の席の人がまだきていないようだった。

「皆さんお疲れさまです。よろしくお願いします」
「おお。名字さんだ。よろしくね」

 雄英高校に勤め始めてそれなりに経っているし、職員の顔は大体見たことがある。周りの席の人は別の部門で働いている人たちだが、挨拶を交わしたことがあるし、顔と名前が一致している。それは相手も同じらしく、和やかに始まる。
 暫く談笑していると、視界の隅で黒い塊がゆらりと動くのが見えた。思わずそちらを見れば、猫背にぼさぼさの黒髪に無精ひげ。全身黒い服に灰色の包帯のような布を首元にくるくると巻いた男―――相澤消太先生が赤く充血したやる気のない目で周囲を見渡し、心底嫌そうにため息をついた。そこにプレゼント・マイクこと山田先生がどこからともなくやってきて、バシバシと相澤先生の肩を叩く。

「そんな顔してないで、レッツエンジョーーーーイッッ! イレイザーの席は……あそこじゃねェかーッ!!!!」

 相変わらずよく通る声で喋り、そしてわたしの隣の席をビシッと指さした。山田先生と相澤先生と目があって、ドキッと心臓が跳ね上がる。わ、わたしの隣の席ってこと……? 気まずい、正直、相澤先生と喋る話題が一つもない。非合理的な行動を嫌う合理主義、ヒーロー名はイレイザー・ヘッド。合理的に話さなければ怒られそうだ。飲み会中はアルコールで脳を溶かして中身のない会話をしがちだが、気を付けようとしゅっと背筋が伸びる。

「じゃあオレは司会があるからよ!」

 山田先生は軽快な足取りでその場を去ると、相澤先生は再び気怠そうにため息をついて、諦めたようにこちらへと向かってきた。そしてわたしの隣に座り込むと、ここらへん一帯の空気がピリつくのを感じる。わたしが気まずいと思うのと同じで、他の職員も気まずいと思っているのだろう。誰がこの空気の中で口火を切るのか、わたしは窺うように同じ席の人達顔色を見る。みんなお通夜みたいな顔をしている。

「よろしくおねがいします」

 すると、意外なことにトップバッターは相澤先生だった。それに周りも口々に挨拶をする。次の瞬間にはいつもの黄色い寝袋にくるまって寝てしまいそうな覇気のなさを感じる。
 そこから何となく時間を持て余していると、プレゼント・マイクの声が会場に響き渡る。助かった、と素直に思った。お酒も飲まずに耐えられる空気ではなかった。

「雄英高校に勤めてるレディースエーンドジェントルメン!!! お疲れ様だぜー! 今年も司会を務めるのは、プレゼント・マイクだぜーーーー!」

 山田先生の司会の合間に、乾杯酒が注がれていく。因みに今日の給仕は、今日の為に雇っている外部の人だ。その殆どが普段は一流のホテルで働いている人だとか、そうでないとか。さすが天下の雄英高校だ。
 次に根津校長のお話が始まる。いつもながら、根津校長のお話は長い。このときばかりは生徒みたいな気持ちになりながら根津校長のありがたーいお話を聞いていると、不意に根津校長は手にしていた乾杯酒のグラスを高く掲げ、「乾杯!!!」と発声した。完全に油断していた。皆口々に乾杯を発声する中、わたしも慌ててグラスを掲げ、乾杯し、酒を飲んだ。すると、どこからともなく拍手が上がり、わたしもグラスを置いて拍手をした。お決まりの儀式がこれにて終了だ。ぐいぐいと残りの乾杯酒を飲み干して、空になったグラスを置いた。
 一応隣の席だし、わたしの方が後輩だし、話しかけないと、と謎の使命感が赴くまま、相澤先生に気持ち身体を向ける。

「今年も一年お疲れさまでした、相澤先生」
「名字さん……でしたよね、お疲れ様です」

 一つも表情を変えることなく淡々と言う相澤先生。認知はあるらしく、少し嬉しい。と、そこに注文を取りにウェイターのような姿の男性がやってきて、このテーブルの注文を取っていく。皆、ビールを注文すると、程なくしてジョッキに入ったビールが運ばれてきた。改めて同じテーブルの人たちで乾杯をすると、ビールをあおる。喉元を通り過ぎる冷えたビールが自分の身体を流れていくのを感じる。1/3くらい飲んだところでジョッキを置いて相澤先生を見るとまだまだ飲み続けていて、そして最終的にすべて飲み干してジョッキを置いた。

「結構飲むんですね」
「いや、普通ですよ」

 これが普通だとしたら、とんでもない酒豪だと思うんだけど。どこからともなくウェイターがやってきて、おかわりを尋ねると、相澤先生は短く「ビール」と答えた。入れ替わるように料理が運ばれてきて、わたしは適当に取り分ける。取り分け終わるころには相澤先生のビールが運ばれてきて、わたしもおかわりを頼んだ。おかわりはすぐに運ばれてきて、飲みながら職員たちと当たり障りのない会話をする。隣の相澤先生は特に会話に混じる様子はない。段々と会話の内容よりも、相澤先生のほうが気になってしまい、「あの」と相澤先生に声をかける。少し酔いが回って気が大きくなっていたこともあると思う。

「普段は飲むんですか?」
「……いや。普段は飲みませんね」
「料理に手を付けてないですけど、お腹いっぱいなんですか?」
「飲んでるときは食べないんですよね」
「ビール飲むとお腹膨れますもんね」

 わたしが質問をして、相澤先生が答える。それを繰り返している。その間も相澤先生は顔色を変えることなくいいペースで飲んでいく。

「酔ったりするんですか?」
「いや、酔った記憶はないですね」

 これは会話と言えるのだろうか。質問をして、それに対して回答する。これは面接と同類項じゃないか。しかしここで挫けるわけにはいかない。という謎の使命感に背中を押されて、わたしは勢いのまま相澤先生に話しかけ続けることにする。このときわたしの頭には、ウザがられたらどうしようなんて言う心配はなかった。酒は人を勇者にする。気が付けば同じ席にいた職員は席を移動していて、わたしたちだけしかいなくなっている。
 他愛のない質問を繰り返して、どれくらい時間が経っただろうか。段々と会話のネタもなくなってきたし、飲んでいるせいで判断力もグダグダになってきている。
 会場はそれぞれ色んな場所で盛り上がっていて、それが逆にわたしたちだけ空間から切り取られたかのような不思議な感覚になった。薄い膜で覆われたような、わたしと相澤先生の二人だけの空間。

「ビール党ですか」
「まあ、大体ビールですね」

 とはいえ、会話が広がる気配は、ナシと。と、そこで、それまで目の前ずっと見ていた相澤先生の三白眼が、わたしを捕えた。その瞬間、なんでかわたしは動きを封じられたみたいに動けなくなってしまう。相澤先生の個性? なんてアホなことを思ったけど、即座に違うと気づく。相澤先生の個性は、見つめた相手の個性を消すこと。相手の動きを止めることではない。
 わたしは相澤先生の見た目が結構好きだったりする。顔立ちが整っているし、無精髭が伸びて髪もボサボサだけど、嫌いじゃない。だからこそ、そういう補正もあると思う。普段わたしを見ることがない目がわたしを今見ている、その事実でなんだか胸がムズムズするのだ。

「次、何飲みますか」

 しかも、わたしの飲み物を聞いてくれている。そんなことをされると思わなくて、頭が真っ白になってなにも考えられなくなった。

「えと……同じので」
「名字さんもビール党じゃないですか」

 ふっ、相澤先生の口角が上がった。そういえば、相澤先生と話すことに必死で、ずっと同じもの、つまりビールを飲んでいた。既にお腹は炭酸でパンパンに膨れ上がっているが、何も考えることができなくて、やっぱり同じものと答えてしまう。ビール以外も飲むんだけど、でも相澤先生のあんな笑顔を見れるなら、もうビール党でいいや。名字、今日からビール党になります!
 そしてめちゃくちゃ失礼なこと言うと、相澤先生もこんな風に微笑んだりするんだって驚いた。更に言えば、そんな表情をわたしに見せてくれるんだ、って少し嬉しくも思った。そんなわたしをよそに、相澤先生が目線をウェイターにやって軽く会釈をすると、すぐにウェイターがやってきて、注文を聞き取っていった。

「あの……相澤先生って彼女とかいるんですか?」

 気がつけば口が勝手に聞いていた。頭の中にかすかに残っている冷静なわたしが、何でそんなこと聞いてるんだ、って焦る。

「そんな非合理的な存在は、いらないですね」

 相澤先生らしい。彼女いないんだ。いないっていうか、いらないのか。確かに相澤先生が女性とデートする姿とか想像できない。恋人は非合理的な存在、か。分からなくもないけど、なぜか胸にぷすっと針が刺さったような小さいが鋭い痛みを感じた。

「いよーーーーゥ!!! イレイザー、楽しんでるか!?!?」

 山田先生がするっとやってきて、わたしとは反対側の相澤先生の隣に座り、肩に手を回した。当然ながらわたしと相澤先生の空間は切り取られたわけじゃない。山田先生によって透明の膜は破かれて、あっという間に食堂の中に戻ってしまった。

「うるせぇのが来た……」
「名字さん、ずっとイレイザーの隣じゃねェか!? 絞め技とかされてないか!?」
「絞め技?」
「ぐぇっっ!!!」

 わたしが呟くと同時に、相澤先生が山田先生に絞め技をかけた。あとから山田先生に聞いたけど、この技はチョークスリーパーと言うらしい。

「するわけねぇだろうが……」
「してる! 今してるゥ!! ギブギブ!!」

 たんたんと首に回されている腕を山田先生は叩くと、ようやく相澤先生の腕から開放された。「MCは喉が命なんだぜ?」と山田先生は恨めしそうに言う。

「やっぱり座る場所間違えたッ! 名字さんの隣だな!」

 山田先生はいそいそとわたしの隣に座りなおし、図らずもプロヒーローに両脇を囲われる形になった。山田先生と相澤先生は一見、全く違うタイプだけど、二人は学生時代からずっと一緒で、なんだかんだ仲がいいらしい。

「名字さんとマジマジと話すのって初めてだよな」
「そうですね。名前覚えていただいていて嬉しいです。事務の名字名前です」

 沢山の生徒に対して教鞭をとっているだけでなく、プロヒーローとしても活躍している山田先生が一介の事務員の名前を覚えてくれているなんて、本当に嬉しい。相澤先生も覚えててくれてたし、ほんと、プロヒーローってすごいなぁ。

「ずっと聞きたかったんだがよォ、名字さんってもしかして、雄英の普通科出身?」
「あ、はい。山田先生の2個下だと思います。すごい、そんなことまでご存知なんですか?」
「いやぁ、高校の頃見たことある気がしてよォ! やっぱりそうだったかぁ」

 すごいすごい! 同じ雄英高校でも、ヒーロー科は花形だ。普通科のわたしがヒーロー科の山田先生を知っているというのはよくある話だが、逆があるなんて考えたこともなかった。取り立てて目立つ個性でもないわたしのことを覚えてるなんて、本当にすごいし、素直に嬉しいし、寧ろなんでご存じなのかと疑問に思うくらいだ。

「いやァ、なんとなく見たことあるなーって感じだったんだけど、確信に変わったぜ!!」
「わたしみたいな普通科のことを記憶にとどめてくれるなんてすごいです!」
「ほら、男ってついつい後輩の女の子のこと意識しちまうワケなんだよなァ」

 わたしは山田先生のことも、相澤先生のことも知っていた。大学を卒業してから雄英高校の事務として働き始めて、お二人のことを知ったとき、二個上の先輩だってすぐに分かった。高校時代の姿もぼんやりだけど思い浮かんだ。それくらい、同じ雄英高校でも、ヒーロー科は有名だ。そんな山田先生が一普通科の学生であるわたしを……さすがプレゼント・マイクです。一気にファンだよ。最高のファンサだよ。

「すっっっごく嬉しいです、山田先生のファンになりました!」
「YEAHHHHHH!!! ありがとなリスナー!!! これからもっと仲良くなっていこうぜ! マイクって呼んでくれよなッ!」
「……俺だって、知ってた」

 よく通る山田先生……マイクの大きな声が響き渡る中、ぼそっと相澤先生の声がやけに鮮やかに聞こえてきた。静かで低くて、おまけにモゴモゴと喋った相澤先生の声は聞き取りやすいとはお世辞にも言えないはずなのに、なぜかやけにクリアに聞こえてきたのだ。思わず相澤先生を見れば、相澤先生はわたし……かと思いきや、視線を辿ると、わたしの先に置いてある観葉植物をしげしげと見ている。急にどうしたんだ。

「あの、どうかしたんですか?」
「……俺も名字さんのこと、覚えてる」

 相澤先生もわたしのこと覚えてくれてたんだ。ほんの少し自分の体温が上がるのを感じる。相変わらず目線は観葉植物だけど。山……マイクが可笑しそうに、クックック、と笑っている。

「イレイザー、完全に酔ってやがる」
「え、酔ってるんですか? 酔ったことないて……」
「それはヨォ、名前ちゃん……。酔った時の記憶がないってやつだ! イレイザーは酔いが冷めたら記憶がすっぽり抜けてるタイプのやつなんだぜ」

 気持ち声を小さくして山田先生が言う。わたしは思わずビールを飲み続けている相澤先生を見る。蒼白な顔からは全く酔いを感じないが、マイクいわくこの人は酔っているらしい。

「イレイザーも名前ちゃんのこと覚えてんのか?」
「……お前が後輩の可愛い子リストに入れてただろうが」
「おまッ! 言うなソレ!!」
「ええ、そんなリスト作ってたんですかっっ!」

 面白くて思わず笑ってしまった。後輩の可愛い子リストか……高校生がやりそうなことだ。でもそんなリストに入れてくれていたなんて、畏れ多い気もする。ヒーロー科ほどの派手さはないにしても、普通科の女の子も割とかわいい子が多かったと思うが、そこに自分が名を連ねられるかどうかは、疑問だ。
 マイクは焦ったように言うけど、わたしはわたしで酔ってきているので、おかしくて仕方なかった。笑いが止まらない。

「バレちったら仕方ねェ。だから顔覚えてるワケさ。でももう時効だよな」
「名字さん、コイツになんかされたらいつでも言ってください。俺がシメときますんで」
「あの、でもそれ、わたしじゃないです……ぷはは!」

 相澤先生って、酔うとこんな感じなの? 懇々と話している相手は相変わらずわたしではなくて、観葉植物だ。堪えきれなくて吹き出してしまった。
 これがわたしと相澤先生が初めてまともに喋った忘年会の日の出来事。相澤先生は、いつからかはわからないけど、結局最後まで、観葉植物のことをわたしのことだと思っていた。

「名字さん、気をつけて帰ってくださいね」

 と、帰り際に相澤先生は観葉植物に言っていて、「こっちのセリフです」と思わずツッコんでしまった。