昼ご飯を食べ終えて残りの昼休憩を兵舎や食堂が建ち並ぶ通りを歩いていたら、突如下から、まるで意思を持った生き物のように風が吹き上げる。ナマエの髪が舞い、そして砂が目に入り反射的に目を瞑る。涙がぶわっと溢れて、目を擦り、開ければ涙とともに砂は出ていったようで、痛みはなくなった。風の吹き抜けていった上空を見上げれば、まるで花びらが舞うように、なぜか無数の紙が空を舞っている。紙は風にのって不規則に動いていて、 蝶々のようにも見えた。
眼前に広がるその異様な光景に、ナマエは暫し口を開けて惚ける。
「うわああああ!!!! 最悪だ、戻ってこおおおおい!!」
人の叫び声がした。声の発生源を見れば、ナマエが密やかに想いを寄せているハンジが悲痛な表情で頭を抱えて膝から崩れている。その様子から、なんとなく状況が読めた。ナマエはハンジのもとへと駆け寄る。
「ハンジさん、大丈夫ですか?」
絶望をそのままに、ハンジは顔をナマエの方へ向ける。
「全然大丈夫じゃないよ! 見てのとおり、私のすべて風でバラバラに! ……ははは」
その顔は絶望を通り越して、もはや半笑いだ。書類がすべて空を舞っているのだから、無理もないだろう。ふわふわと優雅に舞いながら、数枚の紙が地上に舞い降りる。ナマエは手前に落ちた紙を一枚拾い上げると、次の瞬間、無情にも悪戯な風が強く吹きすさび、再び書類が高く飛んでいき、方々へと散っていった。ある紙は木の葉に引っかかり、ある紙は兵舎の屋根の上へ飛んでいき、そこから先は見えない。拾い上げた紙に目を落とすと、論文のようなものだった。次にハンジに再び目をやれば、がっくりと項垂れている。想い人の辛そうな姿に、ナマエまで胸が締め付けられる思いになる。
「ハンジさん、あの、手分けして集めましょう! 大切な書類なんですよね?」
とにかくハンジの役に立ちたい、笑顔にしたい、その一心だった。気がつけば手伝いを申し出ていた。
「うん……漸く研究の成果がまとまったんだ……」
「わかりました。絶対に全部見つけましょう」
ひとまず手に持った一枚をハンジに差し出せば、ハンジはナマエを見上げて、暫し呆けたように見つめる。その視線に耐えかねて、ナマエは目線を逸らす。心臓が爆発するのではないかと思うほど早鐘を打っている。
「……ありがとう、ナマエ」
ハンジはナマエから紙を受け取ると、一言一言噛みしめるように礼を述べた。その言葉一つ一つがナマエの胸がじんわりとしみて、温かくなる。好きな人から感謝されるって、どうしようもないくらい嬉しくて、幸せで、苦しい。
「いえいえ、全部で何枚ですか?」
「確か……30枚だね」
早速捜索を始めた。近場に落ちているものを手分けして拾い上げる。25枚までは順調だったが、そこからが難航を極めた。地上はあらかた探したので、あとは屋根の上なども見る必要がある。休み時間は刻々と終わりへ近づいていき、午後の業務がもう少しで始まる。
ハンジは未だ捜索をやめないナマエのもとへ赴き、
「ごめんねナマエ、もう大丈夫だよ。あとはもう諦めるよ。頭の中にはあるから、また書き起こせばいいし」
「ですが……」
「ナマエは優しいんだね」
食い下がろうとするナマエに対し、ハンジはぽんぽんと頭を撫でると、「ありがとう」と改めて礼を述べた。
「もし午後の訓練に遅れてしまったら、私に掴まってしまったと言うんだよ!」
ハンジはくしゃくしゃになってしまった紙を掲げると、「じゃあね」と走り去っていった。残されたナマエはやり切れない思いを抱えつつも、午後の訓練へと向かった。
いまいち身の入らない午後の訓練を終えても尚、やり切れない思いは昇華できずにいた。日が暮れるまではまだ時間がある。ナマエは再び例の通りへと向かっていった。
通りは訓練帰りの兵団員がぞろぞろと食堂へと向かっている流れができていた。その流れが一段落してから捜索を始める。平地はあらかた探したので、残るは建物の上くらいだ。誰もいないのを確認すると、まずはじめに宿舎の壁に照準を定め、トリガーを引く。高速でアンカーが飛んでいき、建物に突き刺さった感覚が伝わってくる。ガスを少量ふかして、ワイヤーを巻き取りながら急速に身体が空へと向かう。飛んでいく勢いをそのままにアンカーを抜き取ると建物の上へと舞い降りた。確か時間外の立体機動の使用は禁止だったはずだが、仕方ない。
屋根の上には予想通り紙が挟まっていて、ひらひらと風が吹くたびに揺られている。
「やった……!」
小さくガッツポーズをとると、早速取りに向かう。屋根は三角形で、中心に向かって斜めに組み立てられているため、斜度のついた屋根の上をバランスに気をつけながら歩いていく。ゆっくり、慎重に歩いてついに紙の救出に成功した。紙の内容はやはり巨人に対する論文で、この字は確かにハンジの文字だ。残りは四枚。次は食堂棟だ。屋根を伝って食堂棟の一番近くまでやってきて目を凝らすと、紙のようなものが二枚見える。一枚は屋根材の間に挟まっていて、もう一枚は雨樋に挟まっている。
一度違反を犯してしまえば、二度も三度も変わらない。ということで、気が大きくなる。なんの躊躇いもなく食堂棟に向けてアンカーを発射し、夕暮れ時の空を舞う。壁外調査中だったら、もうそろそろ野営の準備をする時間だろうか、なんて考えているうちに食堂棟の上にたどり着いた。屋根の上を歩く音が食堂に聞こえないように、先程よりも、より慎重に歩きながら、紙を一枚、 二枚と拾い上げていく。これで残りは二枚か。見たところ、屋根の上にはもう無さそうだ。屋根の上の捜索を終えて地表に降りると、もう一度周囲をよく観察してまわる。すると植込に紙が入り込んでいたのを発見する。残り一枚。もう日はすっかりと暮れていて、真っ暗になってしまった。
「あと一枚なのに……」
幸い月が出ているため、真っ暗ではないので捜索は可能だが、効率はかなり落ちる。また明日改めて探したほうがいいのだろうか、しかし今夜雨が降ったり、風が吹いてもっと遠くへ行ってしまったりするかもしれないと考えると、居ても立っても居られない。それに、一秒でも早くハンジに届けて、笑顔が見たい。
「もう少しだけ頑張ろう」
己を奮い立たせて、捜索を続行した。
それからどれくらい経ったのだろうか、時間の経過とともに焦りも濃くなっていく。一通り探しているため何度も同じところを見て回っているが、やはり見当たらない。月明かりを頼りに探しているため視界も悪い。それに夕飯を食べそこねたため空腹もナマエを邪魔してくる。しかし、挫けそうになるとハンジの顔が浮かんできて、その度あと少しだけ頑張ろう、と心が奮い立つのだ。
もう何度目か、植込の中を覗き込んでいたその時だった。
「あれ、ナマエ?」
後ろから声をかけられて色々な意味で心臓が跳ね上がる。驚きと、そしてーーー
「ハンジさん……!」
喜びと、気まずさ。ハンジの書類を探しているのだと分かったら、優しいハンジのことだから、きっと申し訳なく思ってしまうだろう。これはナマエが勝手にやっていることだから、一つも申し訳なく思ってほしくないのだ。
「あの、これは、散歩です!」
焦るあまり、聞かれてもいないのに勝手に喋りだす。かえって怪しいのだが、焦りが判断を鈍らせてしまっている。案の定ハンジは訝しげな顔になり、ナマエの表情もどんどんと焦りが滲み出す。ハンジの視線がナマエの手元の紙へと移り、目を見開いた。
「まさか、まだ書類を探してくれているの?」
「あの……ええと」
早速核心を突かれた。悪いことをしているわけではないのに、心臓が嫌に早鐘をうち、脂汗が額に滲む。ハンジの顔を真っ直ぐに見ることができない。なにかいい言葉が降りてくるのを待ったが、全く降りてこないどころか、頭が白一色に染まっていく。ナマエは観念して、「実は……」と項垂れる。
「どうしても見つけたくて、少しだけ探してました」
「もう結構な時間だよ? 夕飯は食べたの?」
「……食べてません」
ハンジが息をつくのが聞こえてきて、なんだか絶望的な気持ちになる。勝手なことをするやつだと失望してしまっただろうか、余計なことをしてしまっただろうか。怖くて視線をハンジのつま先から動かすことができない。視界がどんどんと暗くなり、頭痛までしてくる。
「……私のせいで夕飯も食べずに探し回ってたなんて、本当にごめんね。実は私もまだ夕飯を食べてないんだ。よかったら一緒にどうだい?」
弾かれたように顔を上げると、ハンジの表情は思いの外柔らかかった。よかった、嫌われていなさそうだ。安心したら一気に空腹感が押し寄せてきた。何度も頷いて、「はい!」と勢いよく返事をする。
「とはいってもこの時間だと食堂もやってないし、外に食べに行くことになるけど、いいかな?」
願ったり叶ったりです、なんて言葉を心のまま口走りかけたが、なんとか呑み込む。ハンジと二人でご飯に行けるなんて、とんだご褒美だ。
「もちろんです!」
「じゃあ、団服と立体機動装置を置いておいで。兵舎の前に集合ね」
「はい!! あ、これ見つけた4枚です。あと1枚は、また明日探します」
ナマエから紙を受け取ると、ハンジの顔が驚愕と喜びで染まる。
「ええ、4枚も見つけてくれたの!? これだけあればもう十分だよ! あと1枚だったら探すより思い出しながら書いたほうが早い。本当にありがとう! 正直もう諦めてたから、こんなに見つかるなんて吃驚だし、ナマエには感謝してもしきれないや」
「いえいえ、お安いご用です!」
この顔が、見たかった。大好きなハンジのこの顔が。今日一日どころか今までの人生で起きた嫌なことすべてが報われた気がした。
「一つだけ聞いてもいいかい?」
「はい」
眼鏡の奥のハンジの瞳と視線が交わる。身体の芯がびりびりと甘く痺れて、宙に浮くようなふわふわとした感覚。
「どうしてそんなに一生懸命探してくれたの?」
「それは……」
ハンジさんが好きだからです。
言ってしまえば、ただその一言だ。けれどこの気持ちは、今、勢いのまま言ってしまってはいけない気持ちだ。ナマエの中でずっと大切にしてきた、宝石のようにキラキラ輝いて、砂糖のように甘い、太陽のように暖かくて、月のように切ない感情。伝えたいけれど、伝えてしまったらあとには戻れない。
「……少しでもハンジさんの役に立ちたいって、思ったからです」
誰かのために何かをしたいと思う、言うなれば“無償の愛“のようなこの感情を、少しだけ表現を変えて伝える。ハンジのためなら、とにかく何でもしたいと思うのだ。
ナマエの言葉に、ハンジは面食らったように目を見開くと、視線をずらして頭をガシガシとかいた。
「……そっか」
「では、準備してきます!」
このときハンジがどんなことを思っていたかなんて、ナマエにはわからない。ドキドキと高鳴る心臓を抑えながら、兵舎へと駆け抜けていった。その後姿を、ハンジはずっと眺めていた。
