逆鱗

 最近よく話す男がいる。同期でも同じ班でもないけれど、食堂で顔を合わせば一緒に食べようよ、と誘われて近くに座り、気さくに話をするような存在で、たまに同世代の男女何人か交えて飲みに行ったりもする。
 そのことについてハンジに尋ねたことがある。

「ハンジさん、今度の飲み会なんですが、男の人がいるんですけど行ってきていいですか」

 ハンジは一瞬きょとんとしたものの、すぐに目を細めた。なんだそんなことか、と目で言っているようだった。

「勿論だよ。楽しそうで何よりじゃないか、気をつけて行っておいで」
「ありがとうございます、行ってきます」
「うんうん。別にサシだって気にしないからさ、私のことは気にせず楽しんでね」

 あまりにあっさりと言うものだから、ナマエは面食らう。これは、大人の余裕というやつなのだろうか。だがさすがにサシというのは気が引けるのが本音だ。だって自分だったら、ハンジが他の誰かとサシで飲みにいくのは妬けてしまう。勿論ハンジのことは信じているけれど。
 だからその時は、自分の恋人の心の鷹揚さにただただ感心した。
 それから少し経ち、枯葉を揶揄うように吹き抜ける風はとても冷たい今日この頃。調査兵団が一同に介する忘年会が開催された。明日からは年末年始の休みなので、この日ばかりは盛大に食べたり飲んだりを楽しむ。
 やがて一次会は締められて、そのまま残っているメンバーで二次会に突入した。だいたい半数くらいは帰っただろうか。ちら、とハンジの様子を見れば、ベテラン兵士たちの輪の中でほんのりと頬を上気させて、何やら楽しげに語っている。まだ帰るつもりはないのだろう。
 別段、このあとハンジと予定があるわけではない。けれど、大体こういった飲み会の後はハンジの部屋で一緒に眠ることが多いため、少なからず意識してしまう。そうでなくても愛しい恋人の行動というものは気になってしまい、無意識に気にかけてしまうものだ。
 ナマエは時折ハンジの姿を見やりながらも、年代の近い兵士たちと酒を酌み交わしていた。今は兵団のゴシップに花を咲かせていて、誰と誰が付き合っているとか、別れたとか、くだを巻く。その流れでナマエも最近どうなのと色々と探られたが、のらりくらりと交わし続ける。宣言したつもりはないが、この兵団でナマエとハンジの関係は不文律のようにそれとなく知れ渡っているらしい。
 とんとん、と不意に肩を後ろから叩かれて、ナマエは叩かれた方を見る。ぐに、と何かが頬に突き刺さった。そこには件の仲のいい男が立っていて、頬に刺さったのは彼の指。彼はさっきまで近くの席で飲んでいて、トイレに行くと言って席を外したのだが、戻ってきて早々にしょうもない悪戯をされたらしい。ナマエはオーバー気味に顔を顰めれば、彼は顔をくしゃっと破顔させて肩の手を退けると、不意に声を顰めて「あのね」と切り出した。先ほどは悪戯に使った手を口元に添えて、ナマエの耳に近づける。

「相談したいことがあるんだけど、聞いてくれない?」
「相談? わたしに?」

 同じように声を顰めて問えば、彼は頷いた。

「ナマエにしか言えないようなことなんだ」

 眉を下げて言う姿がどことなく頼りなげだった。ナマエにしかいえないこと、と言われれば、応えてあげたいと思うのが人情というものだろう。ナマエは気がつけば頷いていた。

「分かった。わたしでよければ何でも聞くよ」
「本当? ありがとう。そしたらちょっと出ようか」

 出ようかという言葉に若干の引っ掛かりを感じつつも、立ち上がった男につられるようにナマエも立ち上がって、男についていく。ハンジのことが気になって視線を巡らせて探すが、相変わらず楽しそうに身振り手振りを交えて何かを熱弁している。そうこうするうちに酒場を出た。
 扉が開いた瞬間、冷たさをはらんだ夜の風に包まれて、外の匂いがした。そうして扉が閉まると、先ほどまでの喧騒が嘘みたいに遠ざかり、まるで別の世界に来てしまったような心細さを感じる。

「こっち」

 男はナマエの手を掴んで、歩き出す。突然のことに手を振り解こうとしたのだが、硬く握られた手は緩まない。男らしい骨ばった手は火傷しそうに熱くて、急にこの男が知らない人に思えて不意に怖くなった。けれど、悩みがあるというのだから聞いてあげなくてはという正義感にも似た思いもあり、結局のところ為されるがまま手を繋ぎ、歩き続けた。ハンジに見られたらどうしよう、という焦りもあったが、今もハンジはお店の中で楽しく酒を飲んでいるだろうし、ハンジの鷹揚さを考えれば、取るに足らないことかもしれないとも思った。
 お店の壁に沿って歩いて行き、建物の裏にやってきた。すると倉庫だろうか、木造の小屋があり、その近くに身を寄せる。月が明るくて星が見えない夜で、人も、音も、月に呑み込まれてしまったみたいに月だけが二人をじいっと見下ろしている。

「どうしたの」

 酔いなどとっくに醒めた声でナマエは尋ねながらも、じわじわと何か悪いものが忍び寄ってくるみたいに、嫌な予感が背後から音もなく押し寄せるのを感じていた。月明かりに照らされた男はよく知った男のはずなのに、その男の貌を被った何かに見える。

「俺のものになってよ」
「……は?」

 男の言葉は耳を通り脳に到達したのに、理解できなかった。

「ナマエがハンジさんと付き合ってるっていうのはなんとなく知ってるよ。でも俺と付き合うって考えられない? 俺の方が絶対、ハンジさんよりいいよ。自信ある。なんなら身体だけでもいいよ、気持ちいいことしようよ」

 酔ってたとしても、到底許すことのできない言葉を浴びせられた。悪寒を背筋を通り抜け、次の瞬間には一瞬でふつふつと煮えたぎった湯のように頭が沸騰して、どうにかなってしまいそうだった。

 ―――俺の方が? ハンジさんよりいい? どこが? 何が? 誰が?

 身体が奥底から震えるような怒りを人間に抱いたのは初めてで、頭の中が男への罵詈雑言でいっぱいになる。それを声に出す前に、男が近寄ってきた。怒りで頭がいっぱいになり、行動するのが遅れた結果、ナマエは身動き取れないほどの強い力で拘束される。

「やだ、やめて……! やめてよ、怒るよ」
「本当に嫌なら俺から離れなよ。ほら、ほら」

 対人格闘はやり慣れているはずなのに、男も兵士なだけあって隙がない。抵抗しようとしても、彼の強い力には太刀打ちできない。
 彼への怒りに身を焦がし抵抗しながらも、ナマエはやるせなさも感じていた。

 ―――わたしたちが築いてきたものって、なんだったんだろう。大切な同僚だと思ってたのはわたしだけなの?

 そのやるせなさがナマエから争う力を奪っていきそうになる。そこに男のまさぐるような荒い息が耳にかかり、ぞわぞわと粟立つ。こんな姿ハンジにはみられたくない。なんとか、なんとかしなくては。

「離して、やめて」
「やだ、離さない。俺のものにする」

 この男は今から何をしようとしているのだろうか。得体の知れないものと遭遇したみたいに頭が恐怖で染まっていく。叫びたいのに、恐怖で喉がきゅっと締まってしまいうまく声が出ない。こんなやつ、巨人に比べれば恐るるに足らない存在なのに、そんな存在にナマエは圧倒されている。それが悔しかった。
 その時だった。

「何してるの」

 この場に不釣合いな声が、張り巡らされた透明な膜を切り裂くように響いた。本当に、それが不思議なのだと言わんばかりの声色だった。男の拘束する力が緩んで、二人は声のした方を見る。ハンジが、そこにはいた。

「どうしてそんなことしてるの」

 けれどその瞳を見ればすぐに分かる。その、今にも溢れてしまいそうな怒りが。今はなんとか抑えられているものの、何か少しでも刺激があればひとたびそれは溢れ出て、止まることを知らない。そんな静かで獰猛な、研ぎ澄まされた怒りが、ハンジの鳶色の瞳の中に内包されている。

「あ、これは、その」

 男はナマエから離れ、見るからに狼狽えながら何とか言葉を探し出そうとしている。
 ハンジは表情のない貌で手足を動かして歩み寄りながら眼鏡を胸ポケットにしまうと、男の胸ぐらを掴んで軽々と持ち上げた。男の足は地面につくかつかないかくらい浮いて、溺れそうな人みたいにばたばたと動いている。ナマエは息を詰めて二人の様子を見ていた。

「ねえ、何してたの? それにこれから何しようとしてるの? 教えてよ。それからどうしてそんなことをしていたのかも、詳しくね。私には理解できないんだよね、人の恋人を勝手に連れ出して、無理やり抱きしめて、挙句、俺のものにする、だって? ははは、笑っちゃうよね。誰を、誰のものにするっていうの。全く、面白いなぁ」

 嘲笑混じりにハンジは捲し立てる。それが伝わっているかどうかなんてどうでもよさそうな口ぶりだった。とにかくその怒りを発散させないと、どうにかなってしまいそうな、そんな危うい狂気すら感じた。
 男の呻き声のようなものが聞こえてくる。答えられない男に、苛立ちをより一層濃いものにしたハンジは、男を前後に揺さぶって追い詰める。

「早く言えよ、聞いてあげるからさぁ。まさか納得する理由を教えてくれるんだろう? ほら、ほら」

 ナマエは何も考えることができなくなり、どうすればいいのかわからなくなってしまった。ナマエはハンジの味方なのは間違いないが、このままでは暴力沙汰になりそうなくらい一触即発の不穏な空気が漂っている。

「ハンジさん……!」

 もうやめてとも、もっとやってしまえとも言えなかった。ただ、名前を呼ぶことしかできなかった。
 するとハンジはハッとしたように止まって、男を前に投げ棄てるようにぱっと手を離した。男はどしゃりと地面に落ち、咳き込みながら呼吸を整えて、怯えたように後ずさる。ハンジは胸ポケットにしまった眼鏡をかけると、「はは」と渇いた笑い声を上げる。

「なーんてね、冗談だよ。でも忘れないでね、この子は私の大切な恋人なんだ。手出したらさ、どうなるかわかるでしょ」

 男の返事を待たずに、ハンジは「さ、帰ろ」と言ってナマエの手を取って歩き出す。その手に引かれながら、ナマエは「ごめんなさい」とうわ言みたい謝る。緊張の糸が弛緩して、故障したみたいに涙がとめどなく出る。
 ハンジは振り返らない。怒りすぎてかける言葉もないのだろうか。全ては自分の危機管理能力のなさが招いた結果だと思えばそれも頷けた。嫌われたら、フラれたらどうしよう。そんな不安で心が押しつぶされそうになるけれど、ハンジは歩き続けるのでナマエもハンジの背中を見ながら必死に足を動かし続ける。
 どれくらい歩いただろうか、細い路地に入り込んだところでハンジは立ち止まり、こちらを振り向かないまま言った。

「私こそごめんね。……今は顔を見ないで欲しいから、このまま喋らせてね」

 歩きながらハンジは頭の中を整理していたのかもしれない、と思った。ナマエは返事の代わりに繋がれた手に力を込めた。後ろから見たハンジの横顔の強張りが少し和らいだ気がした。

「まず、無事でよかった。あいつに抱きしめられてる姿を見たら一瞬で我を失ってしまった。あんな姿見せてしまって、怖かっただろう。冷静に相手の言い分を聞いて対話しなければいけないのだろうけど、私は特にナマエのこととなると周りが見えなくなってしまう。ごめんね、どうしようもなく貴方のことが好きなんだ」

 ハンジに謝らせてしまっていることが申し訳なかった。ハンジが謝ることなんて何もないのに。

「そもそも、私が格好つけないで最初から男と飲みになんて行かないでっていえばよかったんだよね。本当は嫉妬してるくせに、物分かりのいい恋人を演じて。でも結局ナマエのことが気になって仕方なくて。あー…‥ほんと、何してるんだろう」
 
 ハンジは繋いでない方の手で眼鏡を上にずらし、目元を手で覆う。ナマエは気がつけばハンジの目の前に回り込んでいた。ハンジは両手で顔を覆い隠す。それでも構わない。ナマエは胸の中で膨らんだ熱く滾った想いを伝えるまでだ。

「ハンジさん、ごめんなさい。大好きです」
「……うん。私もだよ」

 ハンジに抱きつけば、それに応えるように腕が背中に回された。優しく、どこか恐々と、壊れものを触るように撫でてくれて、やっぱりハンジだけが特別で大好きなんだと改めて思った。これまでも、これからも。
 それから数日後、彼にはあの事件のことを謝られた。それから、「ハンジさんって、怒らせたら兵団内で一番怖いって、本当なんだね」と自嘲気味な笑みを口の端に浮かべて言った。
 ナマエはあの時言えなかった気持ちをぶつけるみたいに、まっすぐ伝える。

「ハンジさんは一番素敵なんだよ。あんたなんか比べる土台にも上がってない。ハンジさんよりいいとか何一つないから。絶対にありえない。二度とあんなこと言わないでね」

 その男とはそれきり疎遠になった。それでよかった。
 あの事件以降、見知らぬ男がナマエへとちょっとでも近づくような動きがあろうものなら、ハンジは露骨に牽制するようになった。

「私の恋人に何か用かい?」

 そして語り継がれるようになる。ナマエには手を出すな、さもなくばハンジが兵団一恐ろしい人間になる、と。

◆◆◆
リクエスト書かせていただきました!ありがとうございます…!ブチギレハンジさん、美味しいスーハースーハー

いただいたリクエストは以下の通りでした☆
「兵団内でハンジ×夢主が付き合っている事が噂されているにも関わらず兵士の大馬鹿野郎共が夢主に手を出してハンジさんの地雷を盛大に踏みつけいつも温厚なハンジさんが兵団内で怒らせると1番怖い人間になる」
何回でも言いますけどリクエストの文面だけで私はもうニチャニチャが止まりません。いつもありがとうございます。
こんなん書いて!とか、こんなんどうよ!っていうのありましたら教えくださいね!うふふ。