調査兵団の分隊長であり恋人のハンジは、何かに夢中になるとそれ以外のことを全て頭の中から追い出してしまい、没入してしまう根っからの研究者気質だ。そのことについては恋人になる前から分かっていたので、今更な事柄ではあるし、それが、いやそれこそがハンジだ。だから今回のことも、少し期待していた部分はあるものの、殆んど諦念していたのでショックはさほどなかった。
そう、今日はナマエの誕生日だ。頭上には気持ちいいくらいの晴天が広がっていて、まるで天候も祝福してくれているようだった。だか、今日も今日とてハンジは目の前にいる被験体の巨人に熱を上げている。その少し後ろでモブリットと並び立ち、巨人に語りかけているハンジの後ろ姿を見守る。モブリットの手には次に巨人に与える食材を刺した槍があり、ナマエの手には食材が載ったリストがある。
現在、巨人が人間以外の何かを食べるか否かの実験をしているが、今のところ食べる様子はない。ハンジは今、槍に刺した人参を突き出して巨人の目の前で泳がし、まるで小さな子に聞かせるように語りかけているが、巨人の目は最初こそ人参を追っていたものの、結局は目の前の捕食対象であるハンジを見て、何度かハンジ自身が食べられそうになっている。危ないときはモブリットが羽交い締めにして身体を引き離すが、本当にいつ見ても心臓に悪い光景だ。
結局人参にも興味を示さなかったため、ハンジは踵を返してナマエたちのもとへとやってきた。ナマエはリストにある人参の横にバツ印をつけた。
「うーん、人参は好きではないかぁ。馬だったら涎垂らしてただろうにね。次はと……」
ぶつぶつと呟きながら戻ってきたハンジにモブリットが次なる食材、燻製した肉を手渡す。穂先の燻製肉を見ると、ハンジは「おお」と僅かに声を上擦らせる。
「我々だってなかなか食べられない貴重なお肉じゃないか。さて、どうかなぁ」
うきうきと巨人のもとへと戻っていたハンジの背中を見守りながら、モブリットは「そういえば」と切り出した。
「今日、誕生日じゃないか」
堪らず副官の顔を見上げれば、モブリットは一瞬ナマエに目をやり、すぐにハンジへと戻す。主語はないものの、それがナマエのことを指しているのは分かった。ハンジは「やあ、お待たせー」と巨人に声をかけている。毎年のことながら誕生日を覚えていてくれるモブリットに感動を覚えつつ、ナマエも視線をハンジへと戻して「はい」と頷く。
「さすがモブリットさんですね、またひとつ年を取りました」
「いいことだ。おめでとう。……ハンジさん、覚えていそうか」
「ありがとうございます。いえ、多分覚えてませんね」
言いながら肩を竦める。ナマエの誕生日を覚えているときは、数日前に当日何をしようかと打診をされたり、提案されたりするが、今年に関しては特に何も聞かれていない。つまり、覚えていないパターンだ。そもそも実験をしている期間に覚えているとは思えなかった。目の前のハンジは「さあ、次はお肉だよ! お! に! く!」と声を張り上げている。
「そうか……今夜の予定は?」
「ありませんとも」
きっぱりと告げるが、なんとも物悲しい響きを持ってしまったことは否めない。
「俺と飲むか?」
福音が少し上から降り注いで、心臓が弾む。目の前でハンジが槍を動かしながら「ねえ、美味しいお肉だよー? 食べないなら私が食べちゃおっかなー! いいのかなー!」なんて巨人を煽っている。
モブリットの提案は、本当なら飛び跳ねたいくらい喜ばしいものだが、今は業務中だ。ナマエはできるだけ感情をフラットに戻して言う。
「いいんですか?」
「可愛い部下の年に一度の大切な日だろ。それじゃあ、仕事終わったらあの店集合で。もしハンジさんとの用事が出来たら俺は一人で飲んでるから気にするな」
モブリットさーーーん!! 好き!!! と叫び、抱きつきたい衝動を必死に抑えて、「承知しました、ありがとうございます」とフラットなまま呟いた。
ハンジが時折ナマエのことをなおざりにすることについて、初めから理解していたから期待をあまり持たずにいられるということもあるが、こうやってモブリットや周りの人が気にかけてくれるというのも大きいな、と改めて思った。公私共に優しくて面倒見の良い上官には感謝でいっぱいだ。
結局最後までハンジは誕生日のことを思い出すことはなかった。今日用意していた食材をすべて検証し終えたあとでハンジは、
「それじゃあみんなお疲れ様。私はもう少し残ってから帰るから、みんなは先に帰ってて」
と言って事務仕事を始めた。一段落すれば巨人のもとへ赴いて、寝ているかどうか確認するに違いない。ナマエの誕生日をかけらも覚えていなさそうなハンジの姿にはやはり一抹の寂寞感を抱きつつも、モブリットのおかげで幸せな気分だ。誕生日はこれからだ、と思わせてくれる。ナマエは帰って立体機動装置を外して私服に着替え、身だしなみを整えると、“あの店”へ向かった。
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モブリットの言っていた“あの店”は調査兵団ならば誰もが一度は来たことがあるであろう兵舎近くの酒場だ。木製の扉を押し開けるとカランコロンと鈴の音が鳴り、来訪者を店内へ知らせる。いらっしゃいませ、と言うマスターの声を受けつつ店内に入ってナマエが見渡せば今宵もチラホラ仕事終わりの兵団員が散見される。モブリットはカウンター席に座って先に一杯やっているようで、ナマエに気づくと片手を上げた。ナマエはモブリットに並んでカウンターに座り、同じ物を頼んだ。すぐにマスターが持ってきてくれて、二人でグラスを掲げた。
「改めてナマエ、誕生日おめでとう」
「わーいありがとうございます!」
乾杯、と言ってグラスを合わせて、お酒を飲む。モブリットは一息に飲むと、グラスを置いて「ところで」と切り出した。
「いくつになったんだ?」
「女性に年齢を聞くのは失礼ですよ、モブリットさん」
「すまんすまん。だが、無事に年を重ねることができて何よりだな」
大して悪びれた様子もなくモブリットは詫びて言った。だがモブリットの言う通り、壁外調査の度に巨人に食べられる可能性がある中、こうして五体満足でまた年を重ねることができて幸せな限りだ。
二人は仕事の話やハンジの話、兵団のゴシップ等、様々なことを話しながらお酒を飲んで、少し前まで仕事をしていたとは思えないほどの楽しい誕生日を過ごすことができた。とは言え明日も仕事なので、日付が変わる前には切り上げて、兵舎へと戻っていく。道すがら、「そういえばモブリットさんー」と隣を歩くモブリットを見上げる。
「ん?」
「お誕生日プレゼントはないんですかー?」
にやっと笑いながら両手を差し出す。勿論「あるわけないだろ!」と言うツッコミ待ちだ。
「ん、ああ。先に言われたら仕方ないな、ほら」
といってモブリットはショルダーバッグから何かを取り出してナマエの手に載せた。暗くて詳細はわからないが、包装されてリボンが巻かれたそれは所謂プレゼントのように見える。まさか本当にもらえると思わず、ナマエは「え」と呟きをこぼすと歩みが止まった。少し先でモブリットも立ち止まり、「え」と呟き返して立ち止まった。ナマエは混乱をそのままにモブリットに問う。
「え、なんですかこれ」
「なんですかって、プレゼントだよ。さっき自分で言っただろ」
呆れたようにモブリットがいうが、ナマエはますます混乱してしまい、手に乗った包みとモブリットとを見比べる。
「え、え、誕生日プレゼントくれるんですか」
「大した物じゃないけどな」
仕事が終わった後酒場に直行したわけだから、今日の今日用意したわけではなさそうだ。つまり、事前に用意してくれていたということだ。手のひらに乗るこの包みと、それを用意してくれたモブリットが堪らなく愛おしい。
「………ッ!! モブリット副官、一生ついていきます!」
「はいはい。ほら、帰るぞ」
モブリットの優しさが沁みに沁みた誕生日となった。
+++
一通りの実験を終えた第四分隊は、過日の実験の結果をまとめる時期に差し掛かった。執務室にて皆が紙と向き合って、黙々と調査結果報告書を書き連ねている時だった。
「ッ!? うっはあああああッッ!!!!!」
突然奇声を上げてハンジが立ち上がり、頭を抱える。結構な声量で叫ばれたため文字がぶれてしまったが、なんとか誤魔化せそうなレベルでホッとする。こんな時、普通の人ならば何事かと心配になるところだが、ハンジは別だ。こんなことは日常茶飯事なので、第四分隊一同はハンジをチラと一瞥するだけで、すぐに目の前の仕事に向き直った。声をかけずとも、何かあればハンジから何か言うはずだ。
「あ、あぁ〜〜! いっけねぇ。持ってこなきゃいけないものがあったんだ。ナマエ、ちょっと手伝ってもらっていい?」
どこか芝居がかった様子で言ったハンジから指名を受けたナマエは、不審に思いつつも「はい」と返事をしていそいそと執務室を出て行ったハンジの後をついていく。何かに急かされたようなハンジの背中と、歩きに合わせて揺れる髪の毛を見ながら疑問を投げかける。
「どちらへいくんですか?」
ハンジの方が足が長いので追いかけるナマエは必然的にほとんど走ってるような形になり、懸命に追従していく。ハンジは振り返らないで答えた。
「ん、ああ、どこにしよう。……そうだ、備品倉庫、あそこにしよう」
「あそこにしよう……?」
さらっととんでもないことを言われて、思わずおうむ返しするが、ハンジには恐らく聞こえていない。もしかしたら誕生日のことを思い出したのだろうか、などと思いつつも、ひとまずついていく。ハンジは依然として何かに突き動かされているようにセカセカと歩き、鍵を取ると備品倉庫へと向かった。
備品倉庫に入り、ハンジは流れるような動きで扉を閉めると、物凄い勢いで両手を合わせて頭を下げた。
「ほんっとごめんッッッ!!! ナマエの誕生日、すっかり忘れてた!」
やはり思い出したようだ。ナマエは慌てて両手を振って「顔をあげてください」と言い、言葉を続ける。
「大丈夫です。忙しい時期でしたし、全然気にしてませんよ」
顔をあげたハンジは眉を八の字にしてナマエの顔を窺い見ると、両手を包み込んだ。
「近日中に埋め合わせを必ずするから、本当にごめんよ」
「ありがとうございます。でも無理しないでくださいね」
「無理な訳があるものか。寂しい思いをさせてしまって本当にごめん……」
萎れた花のように項垂れるハンジから罪悪感がひしひしと伝わってくるので、少しでもその罪悪感がなくなるようにという思いでナマエは言った。
「モブリットさんが一緒に過ごしてくれたんで、寂しくなかったですよ」
部下の誕生日覚えてるなんてさすがモブリットさんですよね、と続けると、ハンジの両手に僅かに力が籠められたのを感じた。不思議に思いハンジの顔を見ると、顔が強張っている。
「えっ、と。聞き間違いじゃなければモブリットと過ごしたって?」
ハンジが聞き返したので、伝え方を間違えてしまったかもしれない、と思い始めてきた。この感じは間違いなく、面白くないと思っている。しかし後悔しても遅い。あとはもうあるがまま事実を伝えるしかないのだ。
「はい、あの、モブリットさんが気にかけてくださって、仕事終わりに一緒にお酒を飲みに行きました」
「へえ。二人で?」
「はい……」
「そうなんだ。それはナマエから誘ったの」
「いえ、モブリットさんから」
「へえ。なるほどね。ふうん」
先程まで謝られていたのに気がつけば形勢が変わり、詰問を受けているようだった。えええ! なんて勝手な! ハンジさんがわたしの誕生日を忘れてたのがそもそもの始まりなのに!? なんて言えるわけもなく、ナマエはハンジの瞳の奥に宿った静かな炎を見つけて、生唾を飲む。
ハンジはいつもよりも低い声で言った。
「誕生日、私以外の男と過ごしたんだ」
「だって……っん!」
気がつけば肩を押され扉に押しやられ、噛みつくようなキスを何度もされる。執務中に誰もいない備品倉庫でキスだなんて、誰かに見つかったらどうするのだろう、なんて頭の隅で考えるが、備品倉庫へつながる扉は今、自分が背中を預けているから開かないので誰かが入ってくることはないことに気づいた。安心すると冷静な自分は霧散して、思考が泥のように溶けてハンジからの熱いキスをひたすら享受する。
ああ、今きっとハンジは嫉妬にかられているのだ。そう思うと背筋がゾクゾクした。
唇の隙間から舌がねじ込まれ、歯列をなぞられ、舌を捕らえられて足りない何かを埋めるように求め合う。二人の浅い呼吸とくちゅくちゅと艶めかしい水の音が、普段は静寂を湛えた備品倉庫に響き渡る。やがて顔が離されると二人の間を銀の糸が繋いで、そして切れた。と同時に、ハンジは我に返ったように瞠目し、目を逸らした。
「ナマエ、本当にごめん。私がいけないって分かってるんだけど、つい抑えきれなくて。勿論二人のことは信頼してるんだけどさ、その……あー仕事中に何やってるんだか」
ハンジが衝動的に込み上げてくる自分の感情を抑えきれないことは百も承知だ。髪をかきむしって自己嫌悪に陥っているハンジに、ナマエは応えるように微笑む。
「今日、お部屋にいってもいいですか」
「……うん。待ってる。よーし、報告書頑張るか!」
執務室に戻る前に、持ってこなきゃいけないものがあると言って二人で来た手前、何かを二人で持っていかなければならない。悩んだ末、備品倉庫の鍵を返した後に購買に行き、あるだけの食べ物や飲み物を買い占めると執務室に戻り、
「差し入れだよ! あともう少し、頑張ろうか!」
とハンジが朗らかに言った。突然のお菓子や軽食、紅茶などに第四分隊は湧き上がって、その後の作業効率が上がった。
その日の夜、ハンジの部屋で夜の時間を共に過ごしているときに、誕生日当日何をしたのかその詳細を聞かれたので、モブリットから誕生日プレゼントを貰ったという話をしたところ、再びハンジのスイッチが入ってしまった。
「へえ、モブリットと誕生日の夜を過ごしたあげく、プレゼントまで貰ったんだ。随分嬉しそうじゃないか。でもいくら優しくて部下思いでナマエが喜ぶプレゼントをくれるモブリットでもさぁ、ナマエがベッドの上でどんなことをされたら喜ぶのかなんて知らないよねぇ。私しか知らないんだから。さて、一つ一つ検証といこうじゃないか」
誕生日忘れたのハンジさんなのにぃ!! と心の中で叫ぶ。だが、スイッチの入ったハンジに何を言っても届かないことは分かり切っている。被験体となったナマエはもう、ベッドの上で実験される以外の道はないのだった。
