36.観測者たちと星は巡る

 通り抜けていった秋を惜しむ間も無く冬が来た。日毎早くなる日没は、太陽から寄り道しないで早く帰りなさいと言われているようだった。
 あっという間に一年は終わりに向かい、忘年会シーズン到来だ。今年も間もなく終わりを迎える。去年の今頃は消太さんとこんなことになるなんて、思いもしなかった。消太さんがどんな人で、どんな顔で“好き”っていうかなんて、知らなかった。わたしを呼ぶ、胸が苦しくなるような優しい声も、全部知らなかった。今は分かる。優しく細められた目元も、耳朶をくすぐる低く甘やかな声も。誰にも教えたりしない、わたしだけの宝物だ。

 ただ淡々と仕事をこなしていくだけの日々の中で、漠然と“今年は何かあるといいなあ”と思っていたけれど、まさか本当に“何か”が起こるとは思わなかった。
 消太さんに惹かれて、気持ちがどんどんと膨張していくから胸が苦しくて、抑えきれない思いを一生懸命伝えて、でも届かなくて。諦めなくちゃ、と仕事に明け暮れていたら、奇跡的に消太さんから好きだと言ってもらえて。
 たくさんの軌跡が積み重なったからこそ消太さんと気持ちが繋がって、今わたしたちは隣にいることができる。これまでのすべての出来事に意味があって、何一つ無駄なことなんてないのだと、過去のわたしに伝えてあげたい。
 そして、その軌跡のひとつであるマイクとミッドナイトと、今日は忘年会だ。二人にはたくさん背中を押してもらったし、消太さんへの恋心を通じてこうやって定期的に飲む仲になることができて本当に良かった。沢山お世話になったなぁ、などと年末らしく今年一年を振り返りながら店内で二人を待っていると、まずマイクがやってきた。

「名前ちゃんお疲れ! 今日寒すぎねぇ!?」
「お疲れ様です。今日寒いですよね」

 マイクは綺麗な長い金髪を低い位置で団子にして、まとまらなかった髪を流している。いつもの鶏冠みたいな髪型もマイクっぽくていいけれど、休日のこのスタイルもわたしは好きだ。
 ハンガーを渡すと、マイクはコートをかけながら、先にかかっていたわたしのコートとマフラーを見て目を丸くした。

「その赤いマフラー、もしかしてイレイザーのじゃねーか!?」 
「あ、よくわかりましたね。今日は寒いから巻いてけって、貸してくれました」

 居酒屋の匂いがついちゃうしいいですよ、なんて断ったのだが、ほとんど強引に巻きつけられたマフラーから消太さんの匂いがしたものだから、大人しくお借りすることにしたのだ。勿論そんなことは言葉にしなかったが、多分消太さんにはお見通しなのだろう。自分で巻きつけておいて、複雑な顔をしていた。

「HAHAHA! ほんとアイツ、そういうとこ可愛すぎだろ!」

 マイクは大爆笑しながらわたしの前に座った。それから程なくして、「お待たせ」という声とともにミッドナイトが参上した。

「二人ともお揃いね。ねえ今日寒すぎない!?」

 ミッドナイトは夜空のような美しく艶やかな濃紺の髪を緩く束ねている私服姿だ。眼福である。コートを脱いでハンガーにかけている時、マイクと同じようにマフラーについてツッコまれ、マイクに答えた時と同じように答えれば、

「相澤くんったら、ほんとに可愛いわねぇ。あぁ青くさ……」

 と恍惚とした顔でつぶやいた。到着してから大体マイクと同じ流れをなぞっているあたり、マイクとミッドナイトは似ているなとしみじみ感じる。
 三つのビアジョッキを合わせると、カチンと小気味のいい音がして忘年会の始まりを告げた。食べたり飲んだりしながら今年一年を振り返っていく。

「名前にとっては激動の一年だったわよね」
「ですね。まさか最終的に相澤先生とお付き合いすることになるなんて思いませんでした」

 人生とは不思議なものだ。わたしたちは全く別の軌道を回っている、交わらないジャイロスコープだったのに、小さなことがきっかけで軌道がずれ、巡り巡って今は同じ軌道を描いている。

「あのイレイザーの心を掴むって、本当に大したもんだぜ。すげェよなぁ。名前ちゃんが進むのを諦めなかったから、アイツのカッチカチに凝り固まった心を動かして、さらにはがっちり掴んじまったんだからな。しかも日増しに愛が増してる気がするんだけど、そう感じてるの俺だけ?」
「分かる!! 最近は本当に名前のこと好きなんだっていうのを隠そうともしないわよね。学生の頃から知ってる分、感慨も一入だわぁ……」
「いやいやそんな……」

 何だか気恥ずかしくて、わたしは顔に熱が集中するのを誤魔化すために一頻り否定して酒を煽った。他の人の目からみてもわたしのことを好きだというのが伝わってくるなんて、本当にそうだとしたら、幸せでどうにかなってしまいそうだ。

「案外、来年の今頃には結婚してたりしてね」

 結婚。ミッドナイトが発したその単語に心臓が跳ね上がる。別に意識しているわけではないが、それでも先日、

『そんな待たせるつもりはないから安心しろ』

 と言われたような覚えがあるから、過剰に反応してしまったのだ。とはいえ寝る直前に言われたことなので都合のいい聞き間違いかもしれないが。
 わたしの微かな動揺を、目ざとく気づかれてしまったらしい。ミッドナイトとマイクの瞳が愉快そうに細められ、三日月の形になった。

「え、なになにお二人、もうマリッジの話とかしちゃってるわけ!? ヒュー! イレイザーの結婚報告は俺のラジオで発信するって決まってんだから、決まったら報告しろよな!?」
「いいいいいや、そんな、そんな全然決まってないですよ! まだ一年もお付き合いしてませんし」
「でもあんたたち、お互いいつ結婚したっておかしくない年齢なんだし、ありえない話ではないと思うわよ」

 ミッドナイトの言葉に、ぐっと息を呑んだ。確かにわたしの友達もちらほら結婚し始めているし、早い子はもう子どもがいたりする。とはいえ、結婚はどちらか一方の思いだけでは成立しない。

「結婚できたら幸せだな……とは思います。相澤先生がどう思ってるかは分かりませんが」
「これはあくまでダチの勘だけど、アイツも色々考えてると思うぜ。真面目だし、愛情深ェやつだからな」

 マイクが言うと、隣のミッドナイトも神妙に頷く。

「確かにそうね。付き合ってるんだから結婚するのが当たり前だろ、ぐらいに考えてそう。それくらいの覚悟で向き合ってるし、名前のことを好きだし、愛してるのよね」
「でも口では、結婚してた方が色々合理的だろ? とか可愛げねぇこと言うんだぜ!」
「間違いないわね。でも相澤くん、名前を逃したらもう一生誰のことも好きにならなそうだし、早いとこプロポーズして結婚しちゃえばいいのよね!」

 キャッキャ二人で盛り上がってるのを眺めていると、スマホが震えた。ちらっとみれば、消太さんからだ。メッセージの内容を確認して、わたしは顔を上げた。

「相澤先生、もうそろそろ着くみたいです」

 消太さんは家で仕事を片付け次第合流する予定で、仕事が片付いたので向かっている、と言う連絡が届いたのだった。
 いつもはこの会に消太さんはいないが、今回はミッドナイトがどうしても隣同士に座って喋る姿が見たいとのことなので、消太さんも参加することになっていた。消太さんは、俺は別に行きたくない。と拒否していたが、ミッドナイトに押し切られた形だ。
 さっきまで結婚のことで盛り上がっていた二人が、今度はその話題で盛り上がる。
 なんとなくソワソワしながら会話をしていると、店員さんに案内されてのそりと黒ずくめの男がやってきた。

「……どうも」
「いや〜〜ん! 早く座りなさいよ!!」

 ミッドナイトの歓声に、消太さんは顔を顰めながらわたしの隣に座った。「お疲れ様です。お仕事大丈夫でした?」と尋ねれば、「うん。思ったより時間かかったけど終わったよ」と言った。

「何見つめ合ってんのよ! あー、いい。肴にして一生飲んでられる」

 ミッドナイトがうっとりとした目でわたしたちを見ながら酒を調合している。あ、始まったようだ。グラスが絵の具を洗うバケツのように、とんでもない色に変わっていく。

「見つめ合ってませんよ」

 消太さんの否定は多分、ミッドナイトには聞こえていないだろう。恍惚とした表情で、さまざまな調味料を配合している。「祝杯よ」、と消太さんに渡そうとしたが、「最初の一杯くらいビール飲ませてください」と断ったので、「それもそうね」と言ってあっさり引き下がり、マイクへと渡された。マイクが絶句したのはいうまでもない。
 改めて新しいビールと、ミッドナイトはテキーラを頼むと、四人で乾杯をした。

「二人が並んでる姿見ると、本当に付き合ってるって感じがするわね」
「そりゃあ、付き合ってますからね」

 ミッドナイトの言葉に消太さんが淡々と答えて、わたしは隣で口元が緩くなりそうなのを必死に引き締める。付き合ってるということを、改めて消太さんから聞かされると、体の内側から温かいもので満たされていくのを感じる。

「フゥー! 名前ちゃん乙女の顔してる、ソーキュート! 可愛い!!」
「いやいや、そんな」

 わたしは表情を引き締める。いかんいかん、やっぱり顔が緩んでいたらしい。

「黙れ」
「なんで怒られた!?」

 消太さんがじろりと睨んだので、マイクが心外とばかりに言う。

「ねえ相澤くん」
「はい」

 ミッドナイトが不意に真面目な表情になった。メガネの奥の瞳に、鋭さを伴っている。

「付き合ってるってことは、名前のこと好きってことよね」
「……そりゃあそうでしょ」

 途端にマイクとミッドナイトが悲鳴とも歓声ともつかない声を上げるものだから、消太さんは眉間に皺を寄せて「もういいだろ、帰ろう」と言う。わたしは「まあまあ」と宥めつつ、“みんなの前での消太さん”を束の間堪能する。
 二人でいる時の消太さんも好きだけど、教鞭をとっている時の消太さんも、今みたいに気心の知れた人たちといる消太さんも好きだ。いろんな表情と出会うたびに、より消太さんのことを知れたような気がする。その度、この人の彼女はわたしなんだ、とその事実を噛み締めては幸せな気持ちになる。
 それからも、やいのやいのミッドナイトやマイクに茶々を入れられながら飲んで笑って、いろんな話をした。マイクと消太さんはミッドナイトの悪癖である激烈不味いカクテルの餌食になったりと、大変なこともあったが、教育者たちは真面目な話もしていた。と思う。確か。記憶が曖昧だが。
 ミッドナイトとマイクは同じタクシーで帰って行き、わたしたちは酔い覚ましがてら歩いて帰ることにした。
 帰り道、二人の姿が星明かりに照らし出される。ぐるぐると巻いたマフラー越しに大きく深呼吸をすれば、消太さんの匂いがして、うふふ。とたまらず笑い声を漏らしてしまう。

「なに」

 突然笑い出したわたしに消太さんは怪訝な視線を送る。

「消太さんの匂い」
「出た。変態」
「出てません。変態。うふふ」
「酔ってんな」
「酔ってるかも」
「可愛いな」
「えっ」

 濁点が尽きそうな勢いで腹の底から声が出た。さらりと可愛いなんて言われて、嬉しさよりも前に驚愕の方がやってきた。

「消太さんも酔ってる?」
「ちょっとね」

 人通りの少ない通りに入ると、消太さんに手を取られた。普段は冷たい指先に、熱が巡っているのを感じる。十二月の夜は凍りついてしまいそうなほど寒いけれど、この温かさがあればわたしはどこへでもいける気がした。

「可愛いって言われて、嬉しそうだったな」
「そりゃあ消太さんに可愛いって言われたら嬉しいですよ」
「違う。山田に」

 一瞬、なんのことかわからなくてパチクリと瞬く。山田、つまりマイクに可愛いなんて言われたっけ? と記憶を掘り起こしてみるが、そういえば今日の忘年会で言われたような気もする。あの可愛いは、どちらかと言うと揶揄う意味だと捉えていた。
 不意に消太さんの足が止まり、歩いていたわたしは後ろに引っ張られて、そのまま消太さんに抱き寄せられた。繋いでいない方の手が頭に添えられて、ガシガシと些か乱暴に撫でられる。

「んっ!?」
「俺だけ見てろよ、とか言うやつの気がしれねぇと思ってたけど、今ならわかる。世の中の男全員が敵に思えるわ。クソ」

 消太さんが、やきもち妬いてくれてる? しかもまさかのマイクに?

「気のせいですよ。わたしのことなんて、誰も見てないです」
「こんな可愛いのに、放っておくわけないだろ。しかもアイツは高校の時、名前のことを可愛い子リストに入れてたんだぞ」

 体が離れたと思ったら、消太さんは体をかがめてわたしの両頬に手を添えて、じいっとわたしのことを見つめた。消太さんが、わたしを見ている。わたしだけを見つめている。体が甘やかな痺れに包まれる。

「そんなことないよ」

 ゆるく否定する。でも確かに、わたしだって同じようなことを考えている。消太さんは格好いいし、優しいし、本人がその気になったら世の女性の大半が好きになってしまうはず。そしてそれは、恋は盲目とかそう言うのではなくて、紛れもない事実だ。根拠はないけれど。
 でも消太さんにそのことを言ったら、「んなわけないだろ」と一蹴されるに違いない。あれ、そう考えたら、わたしがそんなわけないって思うのとおんなじこと? なんだかもう、よくわからなくなってきた。
 それにしても、本当に格好いいなあ。消太さんの瞳はブラックホールで、わたしはやっぱり、その引力に逆らうことができない。この宇宙で唯一、わたしの心を惹きつけて離さない強い引力。
 なんかすっごく、キスしたい。なんてことを考えていたら、わたしの頭の中を読み取られたかのように、柔らかな唇がわたしの唇に押し当てられた。もしかしたら、消太さんも同じことを考えていたのかな。そうだとしたら、うれしいな。

「帰ろう」

 低くて、甘い囁き声。やっぱり二人だけの時に見せてくれる消太さんが、一番好きだ。
 送っていく、から帰ろう、になった関係性を噛み締めながら、今度はわたしから唇を寄せて、「うん」と頷いた。