結婚前夜

 たかが紙切れ、されど紙切れ。両名の名前が付随する情報が書かれた一枚の紙がテーブルの上に置いてあり、蝋燭の光に照らされている。
 明日、これを提出すれば、ハンジとナマエは晴れて夫婦になる。
 二人で並んで椅子に座り、ハンジは婚姻届に視線を落としながら静かに口を開いた。

「今も実感がないなぁ。この紙を提出すれば私たちは夫婦になるんだね」

 夫婦。ハンジから放たれたその言葉の心地よい重みを胸に感じつつ、婚姻届の奥に置いてある指輪ケースを見やる。開け放たれたそこには、先日二人で作った二つの指輪が鎮座している。明日には、今、左手薬指に嵌めている婚約指輪をとり、それぞれの左手薬指に目の前の結婚指輪を嵌めて、ナマエの姓はゾエとなる。

「わたしも実感ないです。ずっと慣れ親しんできたミョウジから、ゾエになるんですよね」

 そう言ってハンジを見やれば、「たしかに」と同意を示し、感慨深そうに腕を組んだ。

「ということは、ナマエ・ミョウジと過ごす最後の夜ってわけだね」
「そう言われるとそうですね。明日には、ナマエ・ゾエになりますから」

 自分で口にしてみると、その響きの新鮮さに胸がくすぐったい。
 大好きな人の姓をいただくこと。それはとても甘美で、どうしようもなく幸せなことだ。
 今までも何度だってその感触を確かめたくて、その聞き馴染みのない名前を口にしたりもしたが、いざ実際に姓が変わるとなると、いまいち実感が湧かない。名字よりも圧倒的な名前で呼ばれることが多いというのもあるし、目に見えて変わるわけではないからだろうか。
 婚姻届を出せば、ナマエの名前はナマエ・ゾエになり、二人は法律上で夫婦となる。
 けれどきっと、届を出す前と出した後で二人の中の本質が変わることはないのだろう。
 これまでどおり、ナマエはいいことがあっても悪いことがあっても、真っ先にハンジのことが思い浮かぶし、一日の始まりと終わりに言葉を交わすのはハンジがいいと思う。
 夢中になると実験以外の全てを疎かにしてしまうし、デリカシーのないことを言うときだってある。でも全てひっくるめてハンジだし、その全てをひとつ残らず受け入れたい。
 そして願わくば、死が二人を分かつそのときまで、ずっとそばに居たい。一秒でも長くハンジの隣にいたい。
 愛なんて感情、よく分からない。訓練兵団でも、調査兵団でも習わなかった。けれどもし今ハンジに抱いている感情を全てひっくるめて愛と呼ぶのだとしたら、ナマエは納得してしまう。
 ハンジはかけていたメガネをテーブルに置いて手慰みに触れながら、ポツリと囁くように言う。

「私はさ、正直自分が結婚するとは思わなかったんだ。そうする必要もないし、そうなりたい相手が現れるとは思えなかった。それくらい、私は夢中なことが多くてさ、縁のない話だと思っていた」

 それにさ、とハンジが言葉を紡いでいくのをナマエは傾聴する。

「たかが紙切れひとつじゃないか、そんなものになんの価値があるんだろうか、なんて思ってた。でも私はナマエと出会った。不思議だよね、そんなこと考えてた私が、人を好きになって、結婚したいと思って、いつまでもそばに居てほしいと願っている。隣にいる女の子を、自分の手で幸せにしたいなんて柄にもなく思ってる」

 ひとつひとつの言葉がナマエの心臓に沁みていく。たくさんの感情が生まれて、溢れ出そうになった。
 いつだってハンジは色んなことを考えていて、時にはその中からナマエの存在は、はみ出てしまう事もあるけれど、すぐに戻してくれて。ちゃんとハンジの頭の中に居場所があるのだと思わせてくれる。
 ハンジは眼鏡を見ていた瞳を、ナマエへと向けた。

「紙切れを提出しなくたって、私たちは私たちだ。私たちの中の何かが変わるわけではない。けれど、なんとなくじゃなくて、きちんと夫婦になりたいと思ったから、紙切れを提出したいと思ったんだ。ケジメって言ったら聞こえが悪いかもしれないけれどね、私なりの覚悟の現れなんだよ。私はナマエと、名実共に夫婦になりたいんだ」
「ハンジさん」

 無性に切なくて、苦しくて、ハンジの何もかもが愛おしくて。名前を呼ぶ声にそんな感情が載った。
 きっとこの感情は−−−
 ハンジは目元を細めると、ナマエの唇にゆっくりと自身の唇を重ねた。ぴったりと嵌ったパズルのピースのように隙間なく重なった唇はやがて僅かに離されて、ハンジは言の葉を紡いだ。

「愛しているよ」

 ハンジの声は耳を通って、心臓に行きつき、そして全身に駆け巡っていく。

「わたしも、愛してます。愛ってこんな感情なんですね。ハンジさんには教えてもらってばっかりです」
「いいや、私が教えてもらったんだよ。貴女が私に、人を愛することを教えてくれたんだ」

 大抵のことは調べれば分かる。書物に載っていたり、誰がが知っているので、それを見たり聞いたりすれば知ることができる。けれど愛という感情はきっと、自分が実際に人を好きになり、慈しみ、尊ばないと本当の意味では分からないのかもしれない。書物を見たって、誰かに聞いたって、きっと本当の意味で理解することはできない。二人がいるから、愛というものの温度を、感触を、その美しさを実感できるのだ。
 今度はナマエから唇を寄せて、何度も何度も刻み込むようにキスをすると、続きを欲しがるようにハンジの瞳をじいっと見つめる。

「さて、貴女を最後に抱いていいかい? ナマエ・ミョウジさん」
「……はい。ハンジ・ゾエさん」

 明日、ハンジとナマエは夫婦になる。

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最終回放映直前の持て余した気持ちを。。
ハンジさんと出会えて幸せでした。