「嫌いになる薬を、既に嫌われている人に飲ませたらどうなると思う?」
ハンジの問いに、ナマエはうーんと思案し、やがて自分の考えを述べた。
「マイナスとマイナスをかければプラスになるので、“好き”になったら面白いと思います」
「なるほどね」
面白そうに口の端を上げて、ハンジは試験管立てに立ててある一つの管を持ち上げて、中の液を小刻みに動かして撹拌する。数少ない非番が重なった午後の昼下がり。ハンジの自室の一角で同じ時間を共有するこのときが、ナマエもハンジも好きだった。今は試験管を前に椅子を並べ、じっと眺めていた。
「じゃあ惚れ薬を、既に惚れている人の飲ませたら?」
「プラスとプラスをかければプラスになります。よって、好きが強くなると思います」
「とってもナマエらしい答えだね。よし。じゃあ早速検証してみようか」
「はい。え?」
ハンジはニコニコと手に持っていた試験管をナマエに見せる。
「これ、所謂“惚れ薬”なんだ。ナマエは私のこと好きでしょ? 私のことを好きな人に惚れ薬を飲ませたらどうなるかなって」
先ほどまでの問いかけはそういうことだったのか。しかし、ハンジの言葉に疑問が浮かぶ。
「は、はあ……。しかしこれが惚れ薬としての効能があるというのはどこで実証したんですか?」
「さすがナマエ、鋭い質問だね。この薬の効能はね、飲んで初めて目が合った人を好きになるものなんだけど、この間モブリットが間違えて飲んじゃってさぁ、そのあと私と目が合って大変だったんだよ」
「モ、モブリットさんがハンジさんを……」
反射的にモブリットがハンジに求愛する姿を想像してしまい、ナマエは苦い笑みがこぼれてしまった。ハンジもそれはそれは苦い顔をしていて、それを振り払うように、とにかく。と仕切りなおす。
「効能は実証済みってわけ。さて、飲んでくれる? 効果は30分」
ごくりと思わず生唾を飲んだナマエ。ハンジの実験に付き合うことはよくあるが、自分が被験体になることは殆どない。ただでさえハンジのことが好きなのに、これ以上好きになってしまったらどうなってしまうんだろう。到達したことのない領域に足を踏み入れるのは正直怖い。しかし、ハンジからのお願いを断れるわけなかった。
「……今回だけですよ」
「やったー! ナマエ、大好きだよ」
ちゅ、と音を立ててハンジは頬にキスをした。惚れた弱みとはよく言ったものだが、ハンジが嬉しそうな顔をすると思うと、断れない。何と都合のいい女なんだろう。と、ナマエはため息をついた。
ハンジは試験管からコップに液を移し替えて、ナマエに渡す。じいっと透き通った桃色の液体を眺めて、ハンジに目をやると、ハンジは頷いた。ナマエも頷き息を止め、目をつぶると、その液を一気に飲み干した。生ぬるい液体が喉を通ったのを感じる。だがそれ以外に変わった点はなかった。
ゆっくりと瞼を開けて、隣のハンジを見ようとしたそのときだった。突如扉が開く音がして、反射的にナマエは振り返り、そして見てしまったのだ。扉を開けた人物の姿を。
「おいクソメガネ。休みのところ悪いが―――」
「リイイィイヴァイイィィイイィィ!!!」
タイミング悪くリヴァイが現れたのだ。ハンジは頭を抱えて悲痛な叫び声を上げる。そう、ナマエは見てしまったのだ。薬を飲んで一番最初に、リヴァイの姿を。
「リヴァイ兵長……」
「ナマエ、丁度いい。明日―――」
「ナマエ!!!!!!!!」
すっと立ち上がるナマエ。ナマエを行かせまいとハンジは手を伸ばしてナマエを捕まえようとするが、その手は寸のところで届かなかった。ナマエはすたすたとリヴァイのもとへ駆け寄ると、おもむろに抱き付いた。まさかそんなことをされると思わなかったリヴァイは、されるがまま抱きしめられた。
「オイオイオイオイ、どういうことだハンジ」
ナマエを無理やり剥がして、絶望に満ちた表情で手を伸ばしたまま固まっているハンジに声をかけるも、返事は返ってこない。目の前のナマエはうっとりとした表情でリヴァイをじいっと見つめていて、なんだか居心地が悪い。
「リヴァイ兵長、大好きです」
「あ?」
今、何と言った。リヴァイはこの混沌とした状況を把握しようと努め、辺りに目をやった。ハンジの近くには試験管がいくつもある。差し詰め、実験でもしていたのだろう。そしてナマエは座っていた場所には空のコップがある。このことから、導き出されることは、ナマエが薬の被験体となり、何らかの作用が働いて、今のような状態になった、というところだろう。
「リヴァイのバカ!! なんで今来るんだよお!!」
フリーズが解けたハンジが叫んだ。そして立ち上がり、ナマエとリヴァイの間に入ると、ナマエを抱きしめてリヴァイから引き離そうとする。が、ナマエの視界はリヴァイしか捉えておらず、リヴァイの近くへ行こうとする。
「リヴァイ兵長……」
「キィィイィイイィィ!!! ナマエ、私を見て! 貴女が好きなのは私でしょ?」
「わたしが好きなのはリヴァイ兵長です。離してくださいハンジさん、リヴァイ兵長のお傍にいたいのです」
「……ハンジ、明日の午前中ナマエを借りたいのだが」
「駄目だよ!!」
振り返り、キッとリヴァイを睨んでハンジが断る。面倒くさいことになったな、とリヴァイは思い、出直すことに決めた。
「またくる」
「待ってくださいリヴァイ兵長!」
ナマエの叫びを背中で受けながらリヴァイはハンジの部屋を後にした。
残されたナマエは、なんとかリヴァイを追いかけようとハンジから逃れようとするが、ハンジがきつく抱きしめるのでそうさせてくれない。
ハンジは絶望的な気持ちになりながらナマエを抱きしめていた。ナマエが自分の目の前でリヴァイに抱き付いて、好きだと言っていた。自分が飲ませた薬の効果とは言え、ハンジの胸をえぐるにはもってこいの言葉だった。効果は30分。ちらと時計を見れば、まだ経過は5分ほど。早く過ぎ去ってほしいと心の底から思う。
「リヴァイ兵長に会いたい……」
「ナマエ……違うよ、ナマエが好きなのは私なんだよ」
「違います。わたしが好きなのはリヴァイ兵長です。大好きです」
何度言ったって無駄なのに、それでもハンジは言ってしまう。やはり返ってきたのはハンジが耳を塞ぎたくなるような言葉だった。
「ハンジさん、困ります。離してください」
ハンジの腕の中で、なんとか出ようと抵抗するナマエ。やがてハンジは拘束するのも辛くなり、観念して腕を解いた。自由になったナマエはハンジの腕から抜け出すと、ハンジの部屋から出て行こうと走り出す。
ナマエがドアノブに手をかけたその時、「ナマエ」とハンジが呼びかける。身体ごと振り返ったナマエの表情はいかにも迷惑そうで、こんな表情をされたのは初めてでハンジはまた胸が痛むのを感じた。
「なんでしょうか」
「ナマエが好き。大好きだよ」
ナマエのもとへ歩み寄り、ドアに手を添えてドアと自分との間に閉じ込めると、口づけをした。怒られるだろうか、嫌がられるだろうか、拒絶されるだろうか。ぐるぐるとハンジの中で様々な感情が渦巻くが、顔を離して目に映ったナマエは、照れた様に頬を染めていた。そんなナマエに、今は違和感を感じる。なぜ怒らないのだろうか。
「ハ、ハンジさん、なんかドキドキしますねこのシチュエーション」
「……あ、れ?」
「恥ずかしいです」
今目の前にいるのは、いつものナマエだ。ハンジのことが好きなナマエ。
「……ナマエ、貴女が好きなのは私?」
「な、何を言ってるんですか。当たり前じゃないですか! あれ、そういえば今何しようしてたんでしたっけ」
ぽかんとするハンジと、自分の行動の理由が思い出せないナマエ。
この薬の効果が、キスによって解けたのか? 振り返り時計を見れば、効果が切れる時間まではまだまだある。たまたまナマエは効果が続きづらいのか、それとも薬の効果が出る時間は不安定なのか。色々と考えられるが、ひと先ずはナマエが元通りに戻ったのが堪らなく嬉しかった。ハンジはぎゅっとナマエを抱きしめると、首元に顔を埋めてナマエの香りを堪能する。
「わ、ちょ、ハンジさんくすぐったいです……っ!」
「ナマエだ。ナマエだ。ナマエだぁ~~~。あぁ怖かった……ナマエが好きなのは私だよね」
「んんんっ! そうですってば、どうしたんですかハンジさん」
「大好きだよナマエ、大好き」
状況がよく読めないが、ハンジから愛を囁かれているこの状況がとても嬉しかった。
その後、落ち着いたハンジから事情を聴いたのだが、薬の効果が発動している間の記憶がぽっかりと抜けていることに気づいた。全く思い出せないが、自分がリヴァイに抱き付いていたらしく、血の気が引くのを感じた。
ナマエとハンジは二人でリヴァイの部屋を訪ねて、先ほどの件について謝罪をした。リヴァイはいつも通り神経質そうな三白眼で二人を見据え、舌打ちをした。
「で、明日ナマエを借りたいんだが、いいよな」
「……承知しました。馬車馬のように働きます」
掃除かなあ、とナマエは遠い目をする。リヴァイのしごきは久しぶりだから掃除の腕が鈍っていないか心配ではある。
「私も手伝おうか?」
「お前はいい」
