「ハンジさん、何か欲しいものはありますか」
声は震えてないだろうか。不自然ではないだろうか。さりげなさを装って聞いたものの、ずっと聞くタイミングを伺い、満を持して聞いたものだから、それが声の端に出ていそうで怖かった。
月が世界を照らす夜半、二人きりの会議室。ハンジはさらさらと羽ペンを走らせながら、「んー」と唸り、顔を上げることなく呟いた。
「予算、かな」
「予算ですか」
思ったよりも規模が大きくて、おうむ返ししていた。書きやすいペンとか、座りやすいチェアとか、もっと個人的なものが返ってくると思っていたのだ。
ここで漸くハンジは手を止めて羽ペンをデスクに置くと、ぐっと伸びをした。
「多種多様な巨人研究を出来るような潤沢な予算があったら、最高だよねぇ」
考えてみれば、ハンジが何かを欲しがるなんて巨人絡みでしか聞いたことがない。そう考えると、巨人実験用の予算がほしいというのはない話ではないのだ。しかし、予算か。そうきたか。
と、いうのも、もうすぐハンジの誕生日だ。ナマエはハンジが本当に欲しいものを贈りたいと思ったから勇気を振り絞って聞いたわけだが、思ったより難儀そうだ。
しかし、部下として、ハンジのことを好きな一人の人間として、ハンジが喜ぶ顔を見たい。
「いいですね。予算」
「でしょう? 今度エルヴィンに直談判しようかなあ」
ハンジは頬杖をついて、呟くように言った。
難易度は高いものの、誕生日プレゼントが決まった。あとは用意するだけだ。ナマエの頭の中は、予算を獲得するためにどうすればいいか、それだけになった。
+++
「ファンミーティングか」
エルヴィンは手元の資料に目を落としながら呟く。普段入ることのない団長室は調度品から何からがすべて重厚で、そのすべてから一挙手一投足をじっと観察されているようだった。
ナマエは何度も練習したとおり、今回の企画について説明を始めた。
「はい。調査兵団に憧れる子どもや、応援している支持者の皆様向けにイベントを開催するんです。具体案としては、握手会や、絵の販売、立体起動装置の実演などです」
握手会は言わずもがな、兵士との握手だ。女性ファンが多いと言われている男性兵士たちと握手できるチケットを販売する。絵の販売は、例えばリヴァイのファンがリヴァイと並び、その様子をスケッチブックに書いて一枚いくら、と言う形で販売するものだ。エルヴィンやリヴァイは特に人気があるので、ファンなら多少高くとも買うのではないかと考えた。あとは立体機動装置の実演など、一般市民が珍しく思うようなものも興味を惹かれるのではないかと考えた。
そのような旨を口頭で説明している間、エルヴィンは企画書に目を通していく。大きな瞳がぎょろぎょろと右へ左へと動いているのを見ていると、心臓が嫌に早くなるのをを感じる。
やがて今回持ち込んだ企画の説明をすべて終えたのち、審判を待つような気持ちで立っていると、エルヴィンは小さく頷いた。
+++
こんな夜に自室を訪ねるなんて、誰かに見られたらどうしようという不安もあるものの、部下であるナマエが上官の部屋を訪ねるのは理由として通るだろう、と自分を落ち着かせる。もう消灯時間を過ぎているため廊下は暗くて、手元の蝋燭だけが視界を支える。
そもそも自室にいるのだろうか、起きているのだろうか。心臓がいつもよりも早く動くのを感じつつ、ぐるぐるといろんなことを考えている間に、目的の場所にたどり着いた。しかし、ノックをして声をかけても反応がない。もしや、と思いその足で執務室へと向かえば、案の定ドアの下から微かに灯りが漏れている。どうやらまだ仕事をしているらしい。
ノックをして「ナマエです、ハンジさんはいらっしゃいますか」と声をかければ、「え、ナマエ!? いるよ、どうぞ」と焦ったような声が扉の奥から聞こえてきた。
ナマエが扉を開ければ、執務机に向かって書き物をしていたと思われるハンジがいた。
「失礼します。夜分遅くにすみません」
「どうしたのこんな時間に。まさかモブリットに何か言われた?」
モブリットの小言を想像したのか、ハンジは苦い顔で首を掻いた。確かに、いまだに仕事をしている姿をモブリットが見たら絶対怒るだろうけれど、今回はそうではない。ナマエは首を横に振った。
「いえ。今日は違います」
持ってきた蝋燭の火を消すと、入り口近くにある会議用テーブルの端に燭台を置かせてもらって言葉を続ける。
「実は……ハンジさん、明日、お誕生日ですよね」
「たんじょうび……?」
ハンジは誕生日という単語を初めて聞いた人のようにきょとんとして、それから「今日って何日?」と尋ねたので、「今日は9月4日です」と答える。ハンジの誕生日の前日だ。
「そうだね、明日は私の誕生日だ。すっかり忘れてた」
あはは、とハンジは笑って、「年々誕生日というものの存在が希薄になっていくよねぇ」と腕を組んだ。ナマエの心臓が早鐘を打ち始め、口の中が急速に乾いていく。薄く開いた唇から、勢い余った心臓が飛び出そうだった。
「あの、ですね。ハンジさんのお誕生日のプレゼントとして、予算を贈りたくて……エルヴィン団長に掛け合ったのですが―――」
ナマエの記憶が、エルヴィンに企画書を持ち込んだ時にまで遡る。
エルヴィンの大きな瞳が企画書からナマエへと移って、微笑んだ。
『うん、とても面白い企画だ。これならば確かに調査兵団が独自に財源を獲得することができ、それを利用することができるだろう』
『あ、ありがとうございます』
いい流れがきていると思った。これならば予算を獲得できるかもしれない、とも。しかし、現実はそう甘くなかった。エルヴィン曰く、大規模な催しを開催するとなると他の兵団や、上へのお伺いが必要となるので、すぐには難しいとのことだった。本イベントの成果によってはゆくゆく研究へ予算を回すこともできるかもしれないが、あくまで未来の話。長い目で見てほしい、と。
ナマエはその内容を掻い摘んで説明すると、頭を下げた。
「なので、予算を用意することができませんでした。せっかくのお誕生日なのに、何もお渡しできず申し訳ございません」
頭を下げながら、せめて他の何かを用意できればよかった、と今更ながら後悔する。けれど用意する時間もなければ、ハンジが喜ぶものを思いつくこともできなかった。
そんなナマエに、ハンジは焦ったように声をかけた。
「いやいや顔あげて!」
足音が近づいてきて、気がつけばナマエの肩に何かが触れた。ナマエが顔を上げれば、ハンジは困惑したような表情でナマエの両肩を掴んでいた。
「えっと……確認させてね。つまりナマエは、予算を引っ張ろうと思って金策を練ってくれて、エルヴィンに交渉してくれたの?」
「その通りです。先日、ハンジさんは予算が欲しいと仰っていたので」
けれど、実際に予算を獲得することはできなかった。不甲斐なさに涙が出てしまいそうになるが、グッと堪える。
「え……なにそれ、ちょっと……ぷふ」
次の瞬間、ハンジは弾けるように笑い声を上げて腹を抱えた。まさかこんなことになるとは思わず、ナマエはしばし呆然見つめる。ハンジが大口を開けて笑ってるなんて、それを見ているだけで幸せな気持ちにもなった。先ほどまでの泣きたい気持ちはすっかり消える。好きな人の笑顔は、何よりも特別で、尊いものだ。
ハンジは一頻り笑って目尻の涙を拭き取ったあと、呼吸を整えて言った。
「いや、ほんとごめん。笑うつもりはなかったんだけど、あまりに真面目な顔してとんでもないことを言うものだから、つい笑っちゃったよ」
「そんなに変なことを言ってましたでしょうか……?」
自分としては変なことを言ったという自覚はないため、堪らず尋ねる。するとハンジは慌てたように両手を振った。
「いや、変なことだなんて思ってないよ! ただ、予算が欲しいなんて私の何気なくて他愛ない一言を本気で受け取ってくれて、予算を獲得するために奔走してくれたわけでしょ? やっぱりナマエって、まっすぐで、すごいなって思って」
「いえ、そんな……」
恥ずかしくて頬の奥がカッと熱くなるのを感じた。普通ならば真に受けないよ、と言うことなのだろう。自分は確かにそういうところがある。恥ずかしくて、今すぐ逃げ出したいけれど、ハンジに他に欲しいものを聞くという使命があるので、逃げるわけにはいかないのだ。
「ねえ、どうしてそこまでしてくれるの?」
「どうして……」
不意にハンジに問われて、ナマエは言葉に詰まった。どうして、って。答えは一つなのだ。けれどそれをこの流れで伝えるのは憚られた。ハンジは上司でナマエは部下だ。想いを告げてはいけない。だって、困らせてしまう。だから、なんと言えばいいのか咄嗟に思い付かず、口篭ってしまった。
ハンジはじっとナマエを見つめながら、言葉を続けた。
「とても嬉しいんだけど、ただの上司にそこまで尽くしてくれるなんて、ちょっと勘違いしちゃいそうだよ」
勘違いとは、どういうものなのだろうか。それにしても近い距離で見つめられて、ナマエの心臓は物凄い勢いで弾んでいる。見つめるハンジの目は不思議そうで、答えを知りたい、という気持ちで満ちているようだった。
口の中が乾いて、生唾を飲み込もうとすれば、喉の奥までもが水分を失っていたらしく、うまく飲み込めなかった。
―――言って、いいのだろうか。
恥も、立場も、何もかもをかなぐり捨てて、ナマエの中でゆっくりと育っていったこの思いを差し出す。
そしてそれを、ハンジが待っているのだとしたら。
勿論、ナマエの気持ちを伝えたら最後、その瞬間にナマエはフラれることになる。けれど、それと同じくらい、今すぐ伝えて玉砕して、楽になってしまいたいという気持ちも確かにある。
相反する二つの願いがハンジの無垢な瞳の前でせめぎ合い、やがて収束した。
「………です」
「ん?」
「好き! だから、です。ハンジさんのこと、好きだから、ハンジさんが一番欲しいものをあげたくて……」
衝動に任せた言葉はしだいに尻すぼみになり、そのかわりに勢いに任せて伝えてしまったことへの後悔が急速に膨れ上がる。ああ、言ってしまった。もういっそ、この気持ちと一緒に消えてしまいたい。
沈黙が落ちた。ナマエの頭はぐるぐると何かでかき混ぜられたかのように眩暈がしてきた。間も無くフラれるわけだが、もうその前に逃げ出してしまいたかった。
「……じゃあ、さ。欲しいもの、今もらってもいい?」
一歩、後退りしようとしたところで、意を決したような感じでハンジが切り出した。おずおずと、少しこちらの様子を伺うようで、なんだか珍しい表情だと思った。
「え、あ、でも予算は―――」
ハンジが欲しいものを、ナマエは用意できなかった。だから今は渡せないのだ。
「君だよ。ナマエが欲しいな。だめ?」
言われた言葉の意味が、まるでわからなかった。少し遅れて、もしや? と理解が追いついていく。だが、そんなわけがないと冷静な自分が即座に否定する。ナマエは無意識に首を振った。
「わ、わたしですか? わたしがほ、ほほ、欲しいというのは、どど、どういう意味でしょうか」
言葉が詰まってうまく出てこないが、なんとか聞きたいことを聞く。瞬きの数が、ナマエの動揺を表しているようだった。
ハンジはメガネを上にずらし、視線をウロウロと彷徨わせる。場違いながら、普段見ることのない裸眼姿に、ナマエは胸が苦しくなるのを感じた。この姿を、ずっと瞳の奥に灼きつけておければいいのに。やがてハンジは意を決したように「えーっとね」とナマエと向き合った。
「そのままの意味だよ。ナマエが欲しい。今までずっと、あなたの上司だからこの気持ちを封じ込めてたけど、好きだなんて言われたら私だって抑えられないよ。ナマエが好き、好きなんだ」
脳の処理能力を超えた情報が与えられて、頭の動きが急速に鈍くなるのを感じた。
―――ハンジさんが? わたしを欲しい? ハンジさんがわたしを好き? え?
「………そ」
気がつけば声が出ていた。
「そ?」
「そんなわけないです! ハンジさんが、わたしなんて……!! し、失礼します!」
「えぇっ!? ちょっと待ってよ!!」
ナマエは勢いよく頭を下げて、執務室を飛び出した。ハンジがナマエを好きだなんてありえない。そんなわけない。何かの間違いだ。
しかし一つ、大きな誤算があった。持ってきた燭台を執務室に忘れてきてしまったので真っ暗で、辺りが全く見えない。明るい場所にいたものだから目が慣れるのに時間がかかる。壁伝いになんとか勘で歩くけれど、追いかけてきたハンジにあっという間に腕を掴まれて、「一旦戻ろう、ね」と静かに言われた。ナマエは観念して、二人は執務室に戻った。
ぱたん、と執務室の扉が閉まれば、痛いくらいの沈黙が流れる。二人は会議テーブルに横並びに座り、ハンジは「あのさ」と体をナマエの方に向けて言葉を切り出した。メガネはもう、いつも通り掛けられている。
「確認なんだけど、ナマエは私のことが好き。合ってる?」
「……はい、合っています」
好きな人に確認されるとは思わなかったものの、こくりと頷く。今更隠すことなんてない。
「それは、上司への親愛……ってこと?」
「ち、ちがいます!」
思わず声が大きくなる。そんな綺麗なものではない。もっと汚い部分を内包した、恥ずかしいくらい欲に塗れた気持ちだ。
「私も好きだって言った時、そんなわけないって言ってたよね? それはどうして?」
ハンジは複雑に絡まった毛糸を一つ一つ解いていくかのように、丁寧に、順を追ってナマエの気持ちを確認をしていく。
「それは……、ハンジさんがわたしなんかを好きになるわけないから、です」
あり得ないのだ。こんなナマエのどこを好きになるというのだろうか。自分の駄目なところばかりが泡のように浮かんでは消え、自己嫌悪を深くする。
ハンジはそんなナマエの心をギュッと抱きしめるように、優しい声色で言葉を紡ぐ。
「私はね、ナマエのこと好きだよ。一人の女性として好き。他の人のものになって欲しくない。他の男に笑いかけて欲しくない、喋って欲しくない。なんて、言葉にすると私、結構重症だね。それでね、キスしたいし、裸を見せ合いたいし、何かあった時一番に頼って欲しいとも思ってる。とにかく、ナマエの“一番”で、“唯一”の存在になりたい。……なんかすっげぇ恥ずかしいんだけど、ここまで言ったら信じてくれる?」
夢みたいな言葉たちが、ナマエに寄り添っては染み込んでいった。そんなことがあるのだろうか、ハンジがナマエを好きだなんて、これは現実なのだろうか。ハンジの言葉を、受け取っていいのだろうか。
迷いが顔に出ていたのかハンジが少し笑って、
「ほんとナマエって自己評価低いと言うかなんと言うか……いや、そんなところも含めて好きなんだけどね。ナマエの真面目で、真っ直ぐで、何事にも手を抜かないところ、すごく好きだよ」
と言って、手を握ってくれた。その手は冷たくて、もしかしてハンジも緊張しているのだろうか、だなんて錯覚する。ナマエの指先も、緊張によって凍りついたように冷たい。ハンジはナマエの手の感触を確かめるように、温めるように、摩ったり揉んだりした。
「あー私、自分がこんなに好き好き言うなんて思わなかった。なんか変な感じだ。……あ」
ハンジは手を動かすのをやめてどこかを見つめている。ナマエがその視線を辿ってみれば、そこには壁掛けの懐中時計があった。時計の針は、0時過ぎを指していた。いつの間にやら結構な時間が経過していたらしい。ナマエは、誰よりも先に伝えたかった言葉を口にした。
「誕生日おめでとうございます、ハンジさん」
この部屋に来た時は、まさか手を握られながらお祝いするなんて思わなかったけれど。ハンジは「ありがとう」と目元を細めて「それで?」と首を傾げた。
「私の気持ちは受け取ってもらえたかな?」
もう、ここまできたら、肯くしかなさそうだ。
「う………あ、はい」
「ふふ、最高の誕生日プレゼントだ」
何もかもが予想外で、あり得なくて、正直今でも信じられないけれど、でも、もしこれが本当なのだとしたら、今この瞬間は、この壁の中で一番の幸せ者だと思う。
好きな人に手を握ってもらえて、好きだと伝えてもらえる幸せ。こんな近い距離で瞳を見つめることができる喜び。そのすべてに感謝したい。
しかし、誕生日プレゼントはまた別の問題である。
「予算は必ず勝ち取ってみせます。近いうちに絶対、ハンジさんに捧げますからね」
ハンジは目を丸くして、次の瞬間にはまた声をあげて笑った。
「本当に君って子は……。ありがとうね、待ってるよ」
囁くようなその一言で、ナマエはなんでもできる気がした。ハンジのためならば、どんな手を使っても予算を獲得してみせる。
繋いだ手はいつの間にか温かくなっていて、体温を分け合ったかのように同じ温度だった。この奇跡をてのひらに閉じ込めたくて、ナマエは指を絡めでぎゅっと握れば、応えるようにハンジも握ってくれて、二人の手が繋がった。
ハンジと気持ちが通じ合ったと言う実感が急速に湧いてきて、ナマエの瞳に薄い膜が張る。奇跡の温度は体温と一緒だ。この温かな奇跡が、どうか永遠に続きますように、と祈らずにはいられなかった。
