瞬きで目を閉じるたびに深い微睡の沼に引き摺られていきそうになり、今は現実なのか、はたまた夢の中なのか分からなくなる。足が動いてるのは奇跡に近い。
早く眠りたいのだけど、どうしても会いたくてハンジは今重い足を動かして廊下を歩いている。いつもは何も感じないその道のりも、三徹明けのハンジには永遠に続く回廊のように思えた。ナマエに会って、その存在に癒されて、めちゃくちゃキスをして、その身体に溺れた後に気絶するように眠りに就きたい。その気持ちだけが原動力となり、この無限回廊を歩いている。
そしてようやく目的の場所に辿り着く。ノックもそこそこに、「入るよ」と言って鍵を開けてナマエの部屋に滑り込む。当然のように部屋は暗くて、カーテンの隙間から覗く一条の月明かりだけがハンジの視界を支える。ベッドにはナマエがいて、眠り込んでいる。当たり前だ、もう草木さえも寝静まる時間なのだから。
「かーわいいなぁ……」
規則正しい寝息と、肺の動きに合わせて上下する身体。あどけない寝顔は、ありとあらゆる毒気を抜いてくれそうな気がした。こんなに疲れていても、可愛いものは可愛いと思う。魂が洗われていくのを感じた。
メガネを外したハンジはナマエの横に潜り込むと、寝具からお日様の匂いがした。もしかしたら昼間に干していたのだろうか。その匂いを嗅いだら、まるでそれは睡眠ガスだったかのように一気に瞼が重くなった。だがお日様の匂いの隙間、ナマエの匂いも感じ取って、眠りの淵から蘇る。
「すっげー眠いけど、すっげーヤリてぇー……あー可愛い可愛い過ぎ、なんでそんな可愛いんだよばーか……」
疲れ過ぎていて頭を使っていないことが丸わかりな言葉ばかりが出てくる。しかしこんなに安らかな顔で眠っている恋人を起こしてまで情事を始めるほど鬼ではないし、そもそも疲れ過ぎていて、指先一つ動かすのも難儀だ。だが、せめて疲れた自分へのご褒美におやすみのキスだけでもしたい。その気持ちを原動力にして、なんとか気力を込めて腕を動かす。一度動き出せば、あとは歯車が周り、動力が伝わったかのように身体全体も動き始めた。片肘をついてナマエの顔に這い寄ると、薄く開いた唇に自身の唇を重ねる。
「ん……」
その柔らかな感触のあまりの気持ちよさに、堪らず抜けるような声が漏れ出る。この世にある、ありとあらゆるものの中で一番柔らかい感触だと思った。柔らかくて、それでいて官能的な唇にハンジの中の何かが触発された。ぴたりと吸い付くように重なった唇の角度を変えながら何度も何度もキスをした。唇をただ合わせたり、食むように重ねてみたり、たまに舌先でナマエの唇の隙間をなぞったり。あわよくば起きないかな、なんて下心がむくむくと芽生えたけれどナマエは規則正しい呼吸を繰り返すだけでなんの手応えもなく、唇が舌を迎え入れる気配はない。なんなら最終的に眉根を寄せられて至極煩わしそうな表情をすると、身体ごと横を向いてしまった。ハンジを拒絶するような背中に、胸が鈍い痛みを訴える。
「ナマエ……」
情けない声がナマエの背中に向かって行き、やがて無情にもペシッと跳ね返ったような気がした。ハンジはモゾモゾとナマエに這い寄ると、背中に沿ってぴたりと寄り添う。ナマエの頭に顎を乗せると、髪からいい匂いがした。頭の先からつま先まで甘やかなもので満ちていく。
手を回してナマエを閉じ込めるように抱きしめるとそのまま柔らかな山に手を添えて、殆ど無意識に手が揉み出した。ハンジの手の動きに合わせて柔らかなそれが形を変える。あまりに気持ちのいい触り心地に、ハンジの眠りメーターがぐんと上がるのを感じる。やがて動力を失ったゼンマイ仕掛けのオモチャのように、少しずつ手は動かなくなっていった。その手の中にあるナマエの胸から、鼓動が伝わってくる。とくん、とくん、と身体の奥深くで脈打つ生命の動き。
生きている。そう思ったら、深い安堵に包まれた。当たり前だけど、あまりに尊い奇跡。瞼が重くて、縫い付けられたように開けることができない。どんどんと意識が遠のいていく。今できることは呼吸をすることだけだ。ハンジの耳にはナマエの呼吸する音と、自分の呼吸の音だけが聞こえてくる。今この瞬間が夢か現か分からない、狭間の世界にどんどんと意識が沈んでいく。
―――人が死ぬ直前、最後まで残っている感覚は聴覚だ。というのはなんの本で見たのだっけ。
微睡んでいく意識の片隅、取り止めのない思考が巡る。
その思考の果て、ハンジが死ぬその時は、今みたいにナマエの呼吸の音を聞いていたいと思った。愛する人の命の証。それを聞きながら死ねるのならば、いい人生だったと胸を張っていえる気がする。けれどそんなことを言ったらナマエは、
『なんでわたしがハンジさんを看取る前提なんですか! 寂しいからやです。わたしより先に死なないでください』
なんていうに違いない。ハンジの頭の中でナマエがむくれている。
―――ははは、むくれてる顔も可愛いなあ。ねえ、例えばだけど、私たちの心臓が見えない何かで繋がっててさ、どちらかの心臓が止まったらもう片方の心臓も自動的に停止すればいいのにね。そしたらお互い寂しい思いしなくて済むじゃないか。
そんなことを考えたのを最後に、完全に眠りの世界へと意識が埋もれていった。二人分の呼吸、二人分の鼓動が静かな夜のしじまに溶けていく。
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ふっと意識が浮上して瞼が持ち上がる。白く眩い光がカーテン越しに朝を報せている。
と、背中にぴたりと何かが張り付いていることに気づいた。寝返りを打ってその存在を確かめようとしたが、服越しに胸に覆い被さる手を見て、あ、ハンジさんだ。とホッとした。所謂スプーンハグをされているようだった。
起こさないように手をそっと外して、慎重に寝返りを打ってハンジと向かい合えば、いつも好奇心にギラギラと虹彩を輝かせている瞳は閉ざされていて、すうすうと穏やかな寝息を立てている。昨夜のうちに来てくれたのだろうが、全く気づかなかった。確かハンジは三徹していたはずだが、わざわざ会いに来てくれてここで眠ってくれたという事実に、朝から胸がきゅっと縮こまる。微かに開いた口がまたあどけなくて、堪らなくキスをしたくなった。でも今キスをしたら起こしてしまう。ハンジの安眠を妨げるようなことはしたくない。
だから、一回だけ。と、ナマエは呼吸を止めて顔を近づけると、キスをして素早く顔を離す。ハンジはまだ規則正しい呼吸を繰り返していて、心底ホッとした。が、それも束の間。僅かに身じろいでハンジの瞼が持ち上がった。焦点の甘い瞳がナマエを捉えて、ふにゃりとほどけるみたいに笑った。
「おはよ、ナマエ」
僅かに掠れた声は寝起き特有のものだ。ああ、やっぱり好きだな。
「おはようござい……わっ」
腕が伸びてきて、抱き寄せられる。
「昨日キスしたらさ、身体ごとそっぽ向かれて淋しかったんだぁ」
まだ芯が固まり切ってないようなふにゃふにゃの声が頭上から降り注ぐ。それにしても寝ている間の自分がそんな不敬を働いていたなんて、なんということだろうか。
「ごめんなさい。次からは叩き起こしてください」
「そんなことしないよ。いやまぁ、あわよくば起きたら嬉しいなあって思いながらキスはしたけど」
起きればいいなと思いながらのキス……想像するに、とても艶かしい。無意識に喉を鳴らしていた。そしてキュッと心臓が深く収縮したと思ったら、次の瞬間には忙しなく動き出して、顔は火が灯ったかのように熱い。
「でもいいの。ナマエの寝顔見て、ちゃんと息して心臓動いてるのを感じてたらスッゲー幸せな気持ちで寝れたから」
「そうなんですか?」
「うん」
そう言ってハンジの顔が、ナマエの胸のあたりにモゾモゾとやってきて、ぎゅっと抱きしめられる。その姿はまるで子どもみたいで、愛おしい思いも込み上げてくる。
しかし、そんなことを考えたのは束の間だった。
「んっ……」
背中に回っていた手が急に艶めかしい動きで背中をなぞり上げたので、たまらず仰け反り、鼻から抜けるような声が出た。
あからさまに情欲を帯びたその手つきは、それが伝播したように一瞬でナマエの身体までも熱くさせる。
「ハンジさん……?」
顔を埋めているからその表情がわからないけれど、背中を這っていた手は今度は身体の稜線をなぞり、臀部まで到達する。そこでようやくハンジは顔を離すと、さっきまでの寝起きのふにゃふにゃとした顔はもうなくて、夜の続きを待つ妖艶な捕食者の顔をしていた。
「ちょっと背中なぞっただけであんな声出すなんて、いつの間にそんな身体になっちゃったの?」
「だってハンジさんが……ぁ」
「ハンジさんが、なぁに?」
あっという間に体勢は変わり、気がつけばナマエはハンジに組み敷かれている。ハンジの顔に浮かんだ薄い微笑みに、身体の内側はまるで熱いものが注ぎ込まれたかのように熱をもつ。そして少し乾燥した唇が押し当てられて、ちゅっと音を立てて顔が離れる。見つめあった瞬間、それが合図みたいに二人は貪るようなキスを始めた。
結局この後、清廉な朝の日差しに包まれながら身体を交えた。行為の最中、ハンジはナマエの身体の至る所にキスを落とした。鎖骨、肋骨の窪み、古傷、ブレードを握ってできたタコ、膝の裏、つま先、そして心臓の上にある肌膚。まるでその全てに敬意を払うみたいに、丁寧に、恭しく。とても恥ずかしかったけれど、まるで自分が脆い硝子細工にでもなったような優しい手つきにどんどんと酔いしれて、与えられる少しカサついた唇の感触以外何も考えられなくってしまった。
もしも口付けたところに色がつくのならば、ナマエはハンジのつけた色で全身飾られていて、誰が見てもハンジの所有物だとわかることだろう。そうならないことを残念に思う。
そして今度こそハンジは満足したように深い眠りについた。それにつられてナマエも二度寝をすると、不思議な夢を見た。
夢の中でもナマエとハンジはベッドに並んで寝ているのだけど、ナマエにはなぜかハンジの心臓が動くのをやめたのがわかった。穏やかに、ゆっくりと。けれどちっとも悲しくなんかなくて、なぜならばナマエの心臓はハンジの心臓と見えない糸で繋がっていて、一緒に動かなくなるのだとわかっていた。このまま二人、また一緒に生まれ変われる。だから何も心配はいらない、と深い安らぎに包まれる。そんな不思議な夢。次に目が覚めたときには忘れてしまっているような取り留めのない夢は、また違う夢の世界へと向かう途中で輪郭がぼやけ始める。
―――こんな夢、ハンジさんに言ったら笑われちゃうな。
夢と夢の狭間でひとり笑みを溢した。
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リクエスト第五段!徹夜明けに夜這いに行ったが、寝ている夢主が可愛すぎて大人しく一緒に寝るというリクエストでした!素敵で幸せな気持ちになるリクありがとうございますっ!大人しく寝るだけじゃ飽き足らずもっと先の地点で着地してしまいましたすみません…!改めまして、素敵な夢を書かせていただいて本当にありがとうございます!
起こしたくないからキスだけ、と二人して同じことをしています。付き合っていくうちに行動も思考も似ていったらいいな…なんて妄想です。
