古城にて 前編

 “新兵が巨人になった”。にわかには信じ難いその話が耳に入った時、一番最初に思い浮かんだのは、ハンジさん興奮するんだろうなあってことだった。案の定、ハンジさんは悲鳴とも歓声ともとれる奇妙な声を上げていた。
 その情報がもたされる前に、トロスト区に超大型巨人が出現し、壁門に穴を開けられたという情報が早馬で知らされた。対巨人は一番手練である調査兵団が不在の間にそのようなことが起こるなど、誰が想像しただろうか。そもそも超大型巨人が出現すること自体、誰も想定していなかっただろう。とにもかくにも壁外調査は中止せざるを得ず、情報を確認及び壁内に流入した巨人の対応をするべく急ぎ壁内へと戻る道中で件の新兵の話がやってきたのだった。そもそもその新兵が人類に仇をなす敵なのか、はたまた味方なのかも分からない。こんな大きな情報が一挙に押し寄せて、調査兵団の空気は張り詰め、混迷を極めていた。そんな中でもやっぱりハンジさんはハンジさんで、ちょっぴり安心したのを覚えている。
 新兵の名前はエレン・イェーガーというらしい。そのエレンを交えて先日捕獲した巨人、ソニーとビーンの実験をしたいと言い出したのは、トロスト区の対応の山場を越えてからすぐのことだった。わたしとモブリットさんは顔を見合わせて、やっぱりな。みたいな顔になった。と同時に、彼の意志とは関係なく実験されることが運命付けられているその新兵に憐憫の情を抱いたのだった。
 エレンはその後の特別兵法会議ですったもんだあった末、身柄は調査兵団に託されることとなった。そして、何かあったらすぐに対応できるように、リヴァイ兵士長及びその直下の通称リヴァイ班が監督を受け持つことになったのだった。

「あ~もう最ッッ高に滾る!!!! 今からエレンに会えるなんてさぁ~~~!!」

 月明かりが照らす夜道を馬に乗り、旧調査兵団本部に向かう道中。わたしが手に持っていた松明をハンジさんの方へ向ければ、ハンジさんの垂らした涎がキラリと光った。目的地に着いたら拭いてあげよう。
 リヴァイ兵長が古いお城を改築した旧調査兵団本部を根城に選び、エレンを監督しているとのことなので、今からそこへお邪魔してリヴァイ兵長にエレンの実験への参加のお許しをいただきに行くところだった。急ごしらえではあるがなんとかお礼の品は用意した。

「エレンはソニーやビーンと意思疎通ができるのかなぁ!? あークッソ楽しみ!! 何しよう! やりたいこと次から次へと出てくる!」

 ハンジさんの好奇心が掻き立てられ今のように興奮状態になると、その日の夜はその、興奮をぶつけるかのように激しい。エレンが巨人になれるという話を聞いたあとなんかは、超大型巨人の出現など色々なことがあったということもあるが、それはもう凄かった……。って、何を思い出しているんだわたしは変態か!! 頭の中から煩悩を振り払うように頭を振って、何事もなかったかのようにハンジさんへ声をかける。

「リヴァイ兵長、許してくれるといいですね」
「リヴァイのことだ、どうせ今日も明日も班員総出で一日中掃除でしょ。それにリヴァイ班には待機命令も出てるし、問題ないさ」

 ハンジさんのおっしゃるとおり、リヴァイ兵長には断る理由はない。それにしても、あの古いお城を埃ひとつない状態に持っていくのはどれくらいかかるのだろうか。前にペトラに聞いた時は、潔癖症がゆえ、とにかく文字通り埃ひとつ落ちていない状態までもっていくとかなんとか。ハンジさんとリヴァイ兵長は腐れ縁とはいえ、全くタイプが違うなあと思う。きっとリヴァイ兵長は、ハンジさんの汚部屋には何があっても入らないんだろう。目の当たりのした瞬間、蕁麻疹とか出ちゃうかもしれない。
 古城につくころには松明の火は消えてしまった。馬留に馬と松明を置いて古城に向かって歩き出す。隣を行くハンジさんを見れば、涎は既に乾いていた。わたしの目線に気づいたハンジさんが不思議そうな視線を向けた。

「ん? 私の顔に何かついている?」
「あ、いえ。行きましょうか」
「あ~~~~!!」

 急に叫び声をあげてわたしはハンジさんに抱きしめられた。多分、こういうところがリヴァイ兵長に奇行種と言われる所以だと思う。

「どうしようナマエ! 私の心臓の音聞こえる? 今すっごくドキドキしてる!」

 耳をハンジさんの胸板に当てれば、確かに鼓動が早い。でも多分、わたしもすごくドキドキしてる。夜の古城で恋人に抱きしめられているって、仕事中とはいえドキドキしても仕方ないと思うの。ハンジさんに包み込まれてハンジさんの匂いがして、ハンジさんの鼓動を感じて……。

「ん? なんかナマエもドキドキしてない? それとも私の鼓動かな」
「ええ!? あははぁ。ハンジさんのですよ~もう。ってことで、行きましょう!」

 無理やり身体を離して古城の入口へとつかつかと向かった。ハンジさんも「いこいこ!」と声を弾ませてわたしの横に並び、あっという間に城の入り口に辿り着いた。ハンジさんがぐっと扉を開けば、真っ暗闇が広がっていた。

「こんばんはぁ~~!」

 ハンジさんのこの場に不釣り合いな元気のいい挨拶は闇へと溶けていった。周囲を確認すれば、地下へ続く階段の燭台に灯りが燈っていたため、それをなぞる様に足場に気をつけながら地下へと降りていく。やがて地下室へと続く扉をハンジさんがなんの迷いもなく開いた。

「こんばんはぁ~リヴァイ班の皆さん!」

 地下室の奥ではテーブルの上の蝋燭にぼんやりとした灯りと、それに照らし出された何名かの人の姿が見える。距離があるためお互いの顔は認識できないが、恐らくリヴァイ班がいるのだろうし、向こうも今の挨拶で、ハンジさんだと認識しただろう。ハンジさんはそのままの調子で言葉を続けた。

「お城の住み心地はどうかな?」

 歩みを進めれば、やはりリヴァイ班がいて、紅茶を飲んでいるところだった。夜の古城で紅茶……なんとお洒落なのだろうか。ハンジさんはエレンの前に腰かける。わたしはハンジさんの隣に立ち、「こんばんは」とリヴァイ班に一礼した。

「ハンジ分隊長」

 エレンは記憶の中にあったであろうハンジさんの名前を手繰り寄せ、呟いた。

「やぁエレン! 隣の子は私の班のナマエ・ミョウジだ。よろしくね。さあナマエもお座り」

 チラとリヴァイ兵長の顔を窺うといつも通りの仏頂面だったため座っても差し支えないと判断し、言われた通りハンジさんの隣に座った。エレンはわたしの姿を認めると、ペコリと一礼した。

「よろしくお願いしますナマエさん」
「こちらこそよろしくお願いします、エレン」

 エレンは意志が強そうなきりっとした太眉に、大きな緑色の瞳の男の子だった。見た目はどこにでもいるような普通の新兵で若干拍子抜けをする。巨人になるというイメージが先行していたが、冷静に考えればそれはそうか、と妙に納得した。目の前にいる男の子は、巨人になるが、どこにでもいる普通の男の子と変わりないのだ。

「私は今、街でとらえた2体の巨人の生態調査を担当しているんだけど、明日の実験にはエレンにも協力してもらいたい。その許可をもらいに来た」

 ハンジさんは神妙に今回の来訪の理由を告げると、エレンは戸惑いを見せる。

「実験……ですか。オレが何を」
「それはもう……最ッ高に滾るヤツをだよ……」

 ああ、ハンジさんがまた興奮状態に。ハンジさんのこの持病を初めて見たエレンはますます戸惑いを深くしたが、ちらっとリヴァイ兵長へ視線を馳せる。

「あの……許可については自分では下せません。自分の権限を持っているのは自分ではないので」

 心なしか怯えたような様子は、きっとリヴァイ兵長から躾けられたからだろう。ハンジさんからさらっと聞いたが、なかなか凄かったと言っていた。ハンジさんがそういうってことは、つまり物凄かったのだろう。ハンジさんはリヴァイ兵長に視線を向ける。

「リヴァイ、明日のエレンの予定は」
「……庭の掃除」
「ならよかった決定! エレン! 明日はよろしくぅ!」

 淡々としたリヴァイ兵長の言葉を聞くなりハンジさんはエレンに向き直り、エレンの手を取るとぶんぶんと振った。

「しかし、巨人の実験とはどういうものなんですか?」

 エレンが問う。それは傍から見れば当たり前の問いだ。しかし相手が悪かった。エレンの隣に座っているオルオがエレンを小突くが、エレンはその真意を理解できない。どうしよう、わたしがハンジさんを連れ帰るべきかな。でもハンジさんスイッチ入っちゃったしな……。と逡巡していると、オルオが次にわたしを見た。その目は確かに、『連れて帰れ』と言っていた。

「ハン――」
「ああ……やっぱり……聞きたそうな顔をしていると思ったぁ……」

 わたしが名前を呼ぶが、その声が届く前にハンジさんはモードに入ってしまったようだった。ごめんなさいリヴァイ班の皆さん。もう遅かったみたいです。こうなってしまったら、わたしはもう待つしかないのだ。すべてを悟ったリヴァイ兵長が席を立ったのを皮切りに、ハンジさんに手を握られているエレン以外の皆は続々と席を立った。わたしもそれに倣い、申し訳ないけどハンジさんをエレンに任せて地下室を後にしたのだった。

「こらナマエ! ハンジ分隊長のアレ、始まっちゃったじゃねえか」

 階段を上がっていく途中、オルオに責められたので、ごめんごめん、とオルオに心の籠らない謝罪を述べた。オルオたちはわたしよりも入団が遅く、年だってわたしの方が上だけど、何かと関わる機会が多く、友達のような付き合いをしている。先輩後輩の垣根を超えた付き合いができていて、嬉しく思う。

「エレンが実験について聞いてしまった時点でもう避けられなかったわよ」

 ペトラの言葉にわたしは救われた。

「ありがとうペトラ。ハンジさんもすごく嬉しそうだったから、つい遮れなくて……」
「やだ惚気? も~ナマエったら。でも大変ね」
「おいナマエ、クソメガネをちゃんと連れて帰れよ。どれくらいかかりそうだ」

 リヴァイ兵長にピシャリと言われてほんの少し背筋が伸びる。そしてハンジさんの興奮状態を思い返して、ざっと目算をする。

「そうですね……実験の話だったら1、2時間くらいかと思います」

 何をして時間をつぶそう。あ、そうだ、渡さなければいけないものがあったのだった。階段を上りきったところでわたしは兵長、と声をかける。

「突然のお願いにもかかわらずエレンをお貸しいただきありがとうございます。少ないですが紅茶ですので、もしよかったら」

 明かり取りの窓から差し込んだ月明かりに照らされたリヴァイ兵長の目が一瞬見開かれた。いらねえ、と言われるかもしれないと思ったが、兵長は無類の紅茶好きだ。すんなりと受け取ってくれた。

「……手持ち無沙汰なら、俺の部屋で話が終わるまで待っていればいい。この紅茶を淹れよう」
「ありがとうございます! わたし、淹れてきますよ」
「いや、結構だ」

 わたしとしてもリヴァイ兵長のほうが絶対美味しい紅茶を淹れることが出来ると思っているので、手間をとらせて大変恐縮だがそっちの方が好都合だ。それに、仮に私が淹れた紅茶をリヴァイ兵長が飲み、その瞬間に顔が顰められたらと思うと、失神しそうだ。 なので、ここはお言葉に甘えて大人しくリヴァイ兵長に淹れてもらうことにしたのだった。