勘違いを拗らせた二人はすれ違う 問題編

 すうっと意識が浮上して重たい瞼を開ければ、視界には見慣れた天井が広がっている。次の瞬間には頭全体を締め付けるような鈍い痛みが襲ってきて、思わず呻き声を漏らす。なんでこんな頭が痛いんだっけ、という問いの解は、昨日の夜の記憶を思い出すことにより浮かんできた。

「二日酔い……」

 寝起きの掠れた声で呟いてその事実を認識すると、より一層痛みが増した気がした。
 思考はゼンマイを巻くようにゆっくりと昨夜へと遡る。昨夜は班員の一斉調整日前ということで班で久しぶりの飲み会をしたのだ。こんなに頭が痛いということは、結構な量を飲んだのだろうか、と思い出そうとして、ほとんどの記憶が抜け落ちていることに気づいた。どこのお店に行って、最初の頃にどんな会話をしたのかは覚えている。あとは要所要所の大事な場面は覚えている。周りに煽られてモブリットさんとケイジさんがキスしたところなんかは腹が捩れるほど笑った。起き抜けの今思い出しても笑えてくる。
 けれど、それ以外の記憶がなくて、どうやって帰ってきたのかも定かではない。このところずっと研究続きで疲労と寝不足の中開催されたから、だいぶ酔ってしまったのだろう。そう考えればこの頭痛も納得がいく。
 上体を起こすと、まるで頭の中で鐘が鳴らされているようかのように痛んで思わず顔を顰める。この鐘が鳴り止まない限りは何もできなさそうだ。今日が仕事じゃなくて本当に良かったと安堵しつつ、なんの気なしに部屋の中に目を遣れば、扉からベッドまでの道のりに、抜け殻のような服が列を成して脱ぎ散らかされているのが見えた。きっとベッドに入る前に脱いだのだろう。そういえば今のわたしは下着しか身につけていない。
 それにしても頭が痛い。二日酔いという大きな代償を噛み締めながらわたしは再び身体を横たえて目を瞑り、二度寝することにした。
 そして次に目が覚めた時には時計の針は午後を指していて、幾分体調がよくなってきた。食欲も湧いてきたが、生憎今は食堂がやっている時間ではない。折角休日ということもあるので、風呂に入って身体を清めた後に街へ出てご飯を食べることにした。仕事上休みが不規則なものだから一人飯も慣れたものだ。大体の店なら一人で行ける。
 そういうわけで、一人でご飯を食べていると、ふと頭によぎるのは大好きな人のことだ。

(ハンジさん……)

 ハンジさんのことを思うだけでほんのわずかに体温が上がる。ただの片思いだが、ハンジさんに特定の人がいないというのがまだ救いというところか。
 恋人になりたいなんて、そんな身分を弁えていないことは思っていない。ただ少しでも一緒にいて、そばで見ることができたらいいなと思っているだけだ。ただの部下で十分だ。

(ハンジさんは今日何してるんだろ)

 ハンジさんのことを想像してみる。ハンジさんのことだから、休みの日だろうと関係なく仕事関係のことでアレコレとやっているのかな。図書室にない書物を買ったり、製図用の紙やペンを買ったり、次の実験に向けて構想を練っていたり。
 でもあくまでそれはわたしの想像でしかない。もしかしたら実は既に特定の人がいたり、あるいは気になる人がいたりして、その人と一緒に過ごしてるのかもしれない。

 まだ誰のものでもないハンジさん。いつかは誰かのものになってしまうハンジさん。

 そう思ったら、途端にわたしの心臓は握りつぶされたように痛んだ。ただの想像だというのに、解の分からない問いの答えを勝手に想像して落ち込むのは実に非生産的だと思う。けれど、やめられない。
 食べているご飯が急速に味を失っていくのを感じる。わたしは身体の内側をぐるぐると巡っているマイナスな感情を吐き出すように息を吐いて、そもそも、誰の“もの”でもない、なんていう表現は失礼極まりないな、と反省しながら、残りのご飯を平らげていく。
 例え遊びだとしても、ハンジさんから求められたらきっと幸せなんだろうな。一度でいいから求められてみたい、たった一度だって、きっとわたしの宝物のような思い出になるに違いない。そんなことを思った。
 それから気分を変えるために街並みを歩きながら、通り沿いにある書店に寄ってみた。もしかしたらハンジさんに会えるかもしれない、なんていう浅はかな下心もあるが、本を見たいと思ったのも事実だ。せっかくの調整日で街に出ているのだから、有意義に時間を使うべきだろう。
 静けさに包まれた店内をぐるぐると適当に歩いていると、不意に目の前に現れた人物に思わず息を呑む。わたしの中の時が止まった。

 ―――静寂に満ちたこの空間で、その静寂すらも身に纏ったその人は、真剣な顔をして手に持った本に目を落としている。息をするのも躊躇ってしまうような空気がそこには漂っていた。

 わたしはその人に声をかけることもできなければ、そこから立ち退くこともできなかった。まるで動くことを封じられたかのように、ただひたすらその場に立ち尽くすのみの存在となった。

(ハンジさんだ……)

 白色の無地のカッターシャツを着て、細身のズボンを履いたその姿はまごうことなき私服姿で、見慣れないその姿はそれだけで胸がキュッと締め付けられる。
 同じ班だから昨日の仕事中もその後の飲み会でも会っているが、やはり私服姿というのは特別感がある。兵団服を纏ったハンジさんも好きだ。私服姿のハンジさんも好きだ。むしろどんな姿でも好きだというものだ。
 ハンジさんがわたしの存在に気づかないのをいいことに、わたしは気がつけば壁にでもなったような気になっていた。食い入るようにその姿を見つめ続ける。細くしなやかな指がページを捲る。前髪の隙間から見える表情は真剣そのもので、長いまつ毛は伏せられて、本に書かれた文字を左から右へと追っている。
 そしてその顔が、ゆっくりと上げられた。その瞬間、わたしは壁ではないことを思い出して息を呑む。
 先ほどまで文字を追っていた髪と同じ焦茶色の瞳と視線が混ざり合った。ハンジさんは驚いたように肩を震わせて目を見開いた。わたしは何か弁解しなければと慌てた結果、あえぐように声を漏らすことしかできなかった。

「あ……は……え、と」
「びっくりしたぁ。全然気づかなかったよ」
「すみません、あの、わたしもびっくりして……固まっちゃいました」

 こんなとき、『ハンジさんがあまりに素敵で見惚れていました』、なんて言えたら少しは意識してもらえるだろうか。ただの班員ではなくて、一人の女として見てもらえるだろうか。そんなことを考えたが、勿論そんなことを言う勇気なんてひとかけらもない。
 ハンジさんは手に持っていた本を棚に戻しつつ言った。

「買い物中? まさかこんなところで会うとはね」
「もう帰るところだったんですが、たまたま立ち寄ったんです」

 ハンジさんに会えたらいいなと思っていたが、まさか本当にハンジさんと会えるなんて思わなかったので、ドキドキと心臓が逸る。こんな幸運があるなんて、わたしは森羅万象全てのものに感謝をしたくなった。
 そんなわたしに、とんでもない福音が降り注いだ。

「そうだったんだね。もし良かったら一緒に帰らない?」
「ッッいいんですか?」

 興奮から思わず声が大きくなりそうになりながらも、かろうじで抑えて尋ねる。ハンジさんと一緒に帰れるなんて、願ってもないチャンスだ。

「ナマエと私の仲なんだから、当たり前じゃないか。それじゃあ行こうか」

 ハンジさんが歩き出す。その後ろをついていき、わたしたちは扉へと向かう。ナマエと私の仲、か。班長と班員。それ以上でも以下でもない関係。少しだけそれを悲しく思いながらも、ハンジさんの面倒見の良さを改めて実感する。そんなところも、わたしは好きなのだ。
 扉から外に出れば、書店特有の紙の匂いから爽やかな外の匂いに移り変わる。いつのまにやら空は橙色に染まっていて、鳥が連れ立って飛んでいる。あの鳥たちも巣へと帰るのだろうか。
 兵舎の方へとハンジさんの長い足が迷いなく進んでいく。歩調はわたしに合わせてくれて、並んで歩く姿が石畳の道に影を落としている。この影を見ているだけでもわたしは幸せな気持ちになれる。
 と、そこに昨夜の記憶が蘇る。昨夜は一緒に飲んだのだ。そのお礼を口にした。

「そういえば昨日はありがとうございました。すごく楽しかったです」
「こちらこそ。でも昨日の今日で会うと、なんだか少し緊張するね」

 ハンジさんも緊張なんてするんだ、なんて新たな一面と出会ったことに嬉しくなる。でも確かに、飲んだ次の日の休日に遭遇すると言うのは緊張してしまう。ましてわたしなんて、大好きな人だ、緊張しないわけがない。本屋で遭遇して固まってしまうくらいには緊張する。

「本当にそうですね。……わたし、結構酔ってたみたいで記憶が抜け落ちてるんですけど、大事な場面はちゃんと覚えてます」

件のケイジさんとモブリットさんのキスを思い出して、わたしは込み上げてくる笑いに思わず口元が緩む。隣を歩くハンジさんを見上げれば、微笑んでいて、わたしを見ていた。

「あのことね、覚えてるならよかった」
「忘れるわけないじゃないですか。多分一生覚えてます」

 どうしてそんな流れになったのかは忘れてしまったが、モブリットさんとケイジさんはキスすべきという話になったのだ。そして、キーッス! キーッス! とわたしを含む班員から煽られた結果、ケイジさんが高らかに挙手して『自分、行きます!』と宣言をした。そこから物凄い勢いでモブリットさんをホールドして、圧の強めな熱烈なキッスをしたのだ。取っ組み合いをするかのようなキスと、モブリットさんの悲鳴。あんな光景、忘れられるわけがない。脳裏にくっきりと焼き付いている。
 それはハンジさんも同じらしい。笑みを零した。

「私もだよ。いやー本当に、まさかだったけどね」
「ふふ。あー明日、どんな顔で会えばいいか分からないです」
「今と同じでいいんじゃない? 自然体でさ」
「……そうですね。自然に」

 今の自分が自然かどうかはわからない。大好きな人の隣に並んで歩いているわたしは酷く緊張していて、何を喋れば少しでも好印象を持ってもらえるか、なんて一生懸命考えながら歩いている。それがハンジさんに伝わってないのであれば良かった。
 ふと、ハンジさんが足を止めた。何事かと思いわたしも足を止めると、「少しだけいいかな」と言われて、わたしは心臓がキュッと締め付けられるのを感じる。白状すれば、一瞬、愚かなわたしは、まさか今からハンジさんに告白されるのでは? と思ったのだ。しかしそれは本当にただの一瞬で、すぐにそんな訳がないと正気に戻った。わたしたちを照らしている夕日は少しずつ壁の向こう側へ落ちていく。

「改めて。不慣れな点もあるけど、よろしく頼むよ」

 ハンジさんが右手を差し出した。握手を求められている。改まってどうしたのだろうか、と不思議に思うが、手を取らない理由なんてあるはずない。わたしはその手を取る。優しいハンジさんの体温がゆっくりと雪崩れ込んでくる。ハンジさんの手を握ることなんて滅多にない経験だ。これができるのは、わたしがハンジさんと同じ班だからだ。胸の痛みは全て身体の内側で飲み込んで、わたしは笑った。

「はい、よろしくお願いします」

 ただの班員でいい。それでいいんだ。
 不意に繋がれた右手をグッと引かれて、わたしはハンジさんの身体にもつれるように倒れ込んだ。そしてそれをキャッチするようにハンジさんはわたしのことを抱き止めて、一体何が起こっているのかわたしは瞬時に理解することができなかった。
 わたしの視界はハンジさんの白いカッターシャツでいっぱいになって、ハンジさんの匂いが鼻腔に広がる。慌てて体勢を立て直すが、ハンジさんに抱きしめられていて、わたしたちはぴたりとくっついたままだ。

「え、ハンジさん、あの……!」
「こういうこと、してもいいってことだよね」
「え、それは、えと、どうなんです、か……ね?」

 頭が白んで、うまく物事を考えることができない。ハンジさんは人との距離感が近い方だと思うけど、これもそういうハンジさんのスキンシップということだろうか。分からない、ただひたすら頭の中は混迷を極めていた。

「私も分からないことが多いし、人とズレてることもあるからね。思ったことはなんでも言ってね」

 抱きしめられながら言われた言葉は、振動すら伝わってきて、身体に溶けていくような心地がした。正直、もう処理が追いついていない。ハンジさんの言葉にどういった意図があるかなんて考えられなくて、ただただ心臓が忙しなく動いている。だからこそ、

「はい……」

 そう返事するのが精一杯だった。

「ふふ、すごい。心臓が一生懸命動いてるのが伝わってくるよ。可愛いなぁ」

 少しだけ声を顰めて、ハンジさんが囁くように言った。鼓膜から入り込んだその声は、脳を強く刺激した。先ほどから刺激が強い出来事がありすぎて若干麻痺している部分もあるが、好きな人から言われる“可愛い”という言葉はやっぱり、泣きたいくらい特別な宝石みたいな言葉だ。
 と、そこで冷静な自分が、はっと気づく。“可愛い”という言葉がわたしのことを指していると思い込んでいたが、ハンジさんのことだ。この場合、わたしのことではなくて、わたしの心臓のことを指しているのではないだろうか。そうと思ったら、もうそうとしか考えられなくなってしまった。
 わたしの心臓が一生懸命動いている様を想像して、その臓器に対して可愛いと思ったのだ。さらに言えば、そこから派生して、巨人もドキドキしたりするのかなー。なんて考えているに違いない。
 そう考えたら、期待に膨れたわたしの胸は急速に萎んでいく。一喜一憂とはまさにこのことだろう。こうやって期待しそうになる自分を制するのが精一杯で、わたしは何も紡げなかった。
 するとハンジさんは離れて、よし、と呟くと、

「帰ろうか」

 といって何事もなかったかのように歩き出した。わたしの身体に残った微かな体温は、吹き抜けた風に連れられてすぐに消えてしまった。
 夕日は壁の向こう側へと沈んでいき、空は濃紺色に染まって少しずつ夜の気配が濃くなっていく。わたしは少し遅れて歩き出し、ハンジさんの背中を見る。
 一体、ハンジさんは何を考えているんだろう。全くわからないけれど、少なくともわたしにとってハグはただ事ではないが、ハンジさんにとっては取るに足らないことだということだ。
 それからわたしは隣に並んで、他愛ない話をしながら帰路についた。昨夜のこと、仕事のこと、あとは普段休みの日はどんなことしてるの? なんて聞かれたりもした。普段の仕事中には絶対に話さないような内容だ。勿論、ただの世間話の一環に過ぎない。けれどわたしのプライベートに興味を持ってくれているようで、胸が温かくなる。
 隣を歩くハンジさんの横顔を見上げて、このまま永遠にたどり着かなければいいのに、なんて強く願った。そうしたらわたしはずっとハンジさんと一緒にいることができる。けれど当たり前だが現実は一歩一歩兵舎へと近づいている。
 すると、ハンジさんの手がわたしの手を掠めた。辺りが暗くなってきたので、自然と身を寄せ合ってわたしたちの距離が近づいているからかもしれないが、この道中で何回かわたしたちの手はぶつかっている。その度にわたしは「すみません」と謝って手が当たらないように引っ込める。

「いや、こちらこそごめん。なかなか難しいね」

 ハンジさんが謝るので、わたしは頭を振る。悪いのは近寄りすぎているわたしなのだ。

「距離感掴めないわたしがいけないんです。あまり慣れないもので、すみません」
「難しいよねえ。……そうこうしているうちに、兵舎が見えてきたよ」

 ハンジさんの言う通り、少し先に燭台の火に照らされて宵闇に浮き出た兵舎が見えてきた。ああ、ついてしまった。夢のような時間はもう終わりだ。だからこそ、もっと一緒にいたい、と再び強く願った。そしてそう願えば願うほど、わたしの中で窮屈そうにしている膨れきった想いを伝えたい衝動に駆られる。だがそれは殆ど自己満足だ。だって、わたしから想いを伝えられたってハンジさんは困ってしまう。
 優しいハンジさんは、出来るだけ傷つかないような言葉を探してわたしに、“ごめんね、君が望むような関係にはなれないよ”と伝えてくれるだろう。わたしは身体がばらばらに張り裂けそうなほど辛い思いをするけれど、勿論、納得をする。そして、明日からも変わらず接してくださいね、と歯を食いしばって笑顔を作る。
 けれど表面上はいつも通りでも、一度歪んでしまったわたしたちの関係は元通りにはならない。ただの上司と部下という関係から、フッた人間とフラれた人間、という称号がもれなくついてしまう。
 だから、絶対に伝えてはいけない。何もいいことなんてないのだから。
 わたしは溢れそうになった想いを鎮めるように深呼吸して言う。

「……なんだかあっという間でした」
「本当だね。とても楽しかったよ」

 暗がりでハンジさんの表情はうまく見えないけれど、わたしには優しく微笑んでいるように見えた。
 そうして兵舎に戻ると、ハンジさんはわざわざわたしの部屋まで送ってくれて、帰り際にわたしの頭を撫でつけた。そして「あー」と呟いて何か言葉を探すように視線を移ろわせる。
 わたしは再び自分の想いをぶつけたい衝動が身体の内側から湧き上がるのを感じた。急速に喉が渇いていく。

 ―――大好きです、ハンジさん。
 だめ、言ってはダメ。

 ―――本当に、本当に、どうしようもないくらいハンジさんが好きで堪らないんです。
 やめて、言ったら絶対に後悔するから。止まって、止まって……っ!

 わたしが溢れそうな気持ちを必死で抑えていると、ハンジさんはひとつ息を吐いて、

「じゃあ、また明日ね」

 そう言って、ハンジさんは手をひらひらとはためかせて帰っていった。その背中が見えなくなるまで見守って、わたしは自室の扉を開けた。
 良かった、危なかった。と衝動的な告白をしなかったことに安堵しつつ、最後までハンジさんの距離感に戸惑うばかりの一日だったな、と改めて思う。
 殆ど呆けながらベッドに座り込むと、無意識にハンジさんに撫でてもらったところを触ろうとして、はっと我に返る。ハンジさんの残した感触を感じたくて危うく自分で上書きするところだった。
 今日の出来事を振り返ってみれば、神イベントの連続だった。ハンジさんと会ってからの時間が濃すぎて、午前中このベッドに横たわって二日酔いでぐったりしていたのが遠い昔に思えた。
 ハンジさんに握られた手、ハンジさんに抱きとめられた背中、ハンジさんに撫でられた頭。
 改めて、衝動に任せて告白をしなかった自分を褒めてあげたい。
 時刻は既に夕飯時で、食堂にいかなければ夕飯を食べ損ねてしまう。けれどなんだか胸がいっぱいでわたしはご飯を食べられるような気がしなかった。

◆◆◆
 
 翌日以降、当然ながら仕事でハンジさんと会うわけだけれど、特段変わらず過ごしている。上司のハンジさんと、部下のわたし。
 あのとき勢いで告白しなくてよかった、としみじみ思いながら、一週間が経った。明日は調整日なので、今日は調整日前のウキウキの日なのだ。
 仕事を終えて「お疲れ様でした」と声を掛け合いながらぞろぞろと帰っていく中、まだ書き物を続けていたハンジさんに「ナマエ」と呼び止められたので、わたしは一緒に帰ろうとしていたニファと別れてハンジさんのもとへと赴いた。ハンジさんは手を止めると、顔を上げて微笑みを浮かべた。

「ナマエ、明日は調整日だったよね。このあとって時間ある?」

 もしかしたら頼みたい仕事があるのだろうか。つまり、二人で残業!? 勿論、大歓迎だ。わたしとハンジさん以外がいなくなって静まり返ったこの部屋で、気持ちを落ち着かせて口を開いた。

「はい、ありますよ。何をすればいいですか」
「あはは、違うよ。残業してほしいわけじゃなくて、私ももうそろそろ終わるからさ」

 そこで言葉を切って、ハンジさんは立ち上がるとちょいちょいと手招きをした。わたしは吸い寄せられるように近寄ると、ハンジさんは口元に手を添えて、わたしの耳に顔を近づけた。

「もし良かったらこのあと私の部屋で一緒に過ごさない? ってお誘い」

 内緒話をするように声を顰めて、わたしの耳に蠱惑な言葉を注ぎ込む。と同時にハンジさんの吐息が耳にかかって、背筋を抜けるような甘やかな刺激が奔り、思わず目を瞑り息を呑む。
 そして、少し遅れて吹き込まれた言葉の意味を咀嚼する。今、なんて? ハンジさんの部屋? え? あまりに現実味のない言葉だったので、聞き間違えたのだろうかと不安になる。混乱する頭の中で、告げられた言葉がパズルのピースのようにバラバラになってしまって、言葉として理解が出来なくなってしまった。

「……え?」

 唐牛で絞り出した声は、混乱を示すたったの一文字。ハンジさんは姿勢を元に戻すと、どこか意味ありげな笑みを浮かべてわたしを見ている。

「時間、あるんだよね」

 ハンジさんの外堀を埋めるような言葉に、わたしは言葉を継げずにいた。これは、一体どういうことなんだろう。深い意味はない? ただ単に、暇潰しの相手ということ? でもなんでわたし? どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう。

◆◆◆

 気がつけば、わたしはハンジさんの部屋のベッドに組み敷かれていた。心臓が過去にないくらいの早さで動いていて、呼吸が乱れている。痛いくらいの沈黙に包まれたこの部屋で、わたしの耳には自分の激しい鼓動の音だけが聞こえている。
 なんの取り繕いもない、どこまでも真剣な表情でわたしを見下ろすハンジさんは、一体何を考えているんだろう。何もわからない。こんな表情で見られるのは初めてだ。身体が熱く、むずむずとする。
 やがてハンジさんはゆっくりと顔を近づけて、鼻先同士が触れる。まるでじゃれるように鼻先を擦るので、わたしはぎゅっと目を瞑り、唇を引き結んで無意識に呼吸を止めていた。
 そして、わたしの唇は柔らかい感触で包み込まれた。それが何なのかすぐには理解できなくて、数拍を要した。
 その間にちゅっと音を立てて柔らかい感触は離れて、再び角度を変えて柔らかなそれが触れる。そして何度も何度も蠱惑な音を立てて、わたしの唇は啄まれた。
 わたし、キスをされている。
 その事実を認識して、胸が潰れてしまいそうなほど痛く深く脈を打った。
 やがてキスの雨は止み、わたしは薄らと瞼を開ければ、

「緊張、してる?」

 僅かに顔を上げたハンジさんが小さく尋ねた。わたしは声にならない声を伝えるために、小刻みに頷いた。するとハンジさんが、優しく笑う。

「私もだよ。キスってさ、唇と唇がただ触れるだけなのにどうしてこんなに官能的なんだろうね」

 ハンジさんの言葉は耳を通り抜けていくだけで、頭の中には残らなかった。とにかくわたしは、今どうしてキスをされているのか、その答えがほしかった。

「どうして……キスをしたんですか」

 声が震えている。ハンジさんはわたしの言葉を聞くと、目を丸くして「え?」と不思議そうな声を上げて、僅かに顔を離した。

「だってナマエはわたしのこと、好きなんでしょ?」

 邪気のない笑顔で放たれた言葉は矢となり、わたしの胸の柔らかくて脆い部分を射て、強くて苦しい痛みとなった。

 ああ、わたしは遊ばれているんだ。

 漸く自分の置かれた状況を理解して、気がつけば嘲笑が込み上げてきた。頭からさあっと血の気が引いて、目の前が暗くなっていく。
 わたしがハンジさんのことを好きな気持ちはとっくにバレてて、そんなわたしにキスをした。このキスは何の感情もない、遊びのキスだ。
 途端に目頭が熱くなって、温かい雫が溢れ出ると目尻からぽろぽろと零れ落ちていく。

「ナマエ?」
「ごめん、なさい」

 気がつけばわたしはベッドから転げるように飛び出すと、無我夢中でハンジさんの部屋から出た。

 それからわたしは自分の部屋戻ってベッドに入ると、毛布を頭まで被って幼子のように声を上げて泣いた。
 大好きなハンジさんからキスをしてもらったのに、わたしの胸は辛くて、苦しくて、痛かった。
 遊びだっていいから求められてみたいと思っていたのに、いざ遊ばれてみるとこのザマだ。わたしは結局、ハンジさんから愛されたいんだ。ハンジさんが求めるたった一人の人間になりたいんだ。
 馬鹿なわたし、愚かなわたし。
 それからどれくらい泣いただろうか、突如聞こえてきた声でわたしの意識は現実に戻る。

「ナマエ、ねえ」

 びくりと肩が震えて涙が止まる。毛布から顔を出すと、涙に濡れて滲んだ視界の中に誰かいる。ゴシゴシと目を擦って視界をクリアにすれば、困ったような、焦ったようなハンジさんがベッドのそばに立っていて、わたしを見ていた。

「ごめんね、鍵が開いていたから勝手に入らせてもらったよ」

 わたしは身体を起こして、嗚咽交じりに涙を流し続ける。泣きたくなんてなかったけど、どう足掻いても涙が止まらなかったのだ。
 ハンジさんはベッドに腰掛けると、優しい声色で「ナマエ」と名前を呼んだ。

「急にキスしたから驚いちゃった? ごめんねナマエ。まだ早かったかな。前も言ったけど、不慣れな分野だからさ。……ちゃんと、聞けばよかったね」

 ごめんね、と再び謝罪の言葉を口にすると、ハンジさんはわたしの頬に手を添えて、壊れモノに触れるような優しい手つきで涙を拭った。その手は冷たくて、その冷たさがかえってわたしに冷静さを取り戻させてくれた。少しずつ呼吸が整って、涙が止まっていく。
 ハンジさんはわたしの手をぎゅっと握ってくれた。冷たいハンジさんの手がわたしの手と同じ温度になるくらい時間が経った頃に、ハンジさんは伺うように言った。

「少し落ち着いた?」

 ハンジさんは心配そうに眉を下げていて、わたしはハンジさんのせいで泣いていると言うのに、心配をかけてしまって申し訳ない気持ちになる。
 わたしはハンジさんに握られていない方の手で涙や鼻水を大雑把に拭うと、深く深呼吸をした。よし、大丈夫だ。わたしは頷いて、言葉を紡いだ。

「心配かけてすみません。わたしの気持ち、気づいていたんですね」
「え? まあ、そりゃあ……」
「わたし、遊びでもいいって思ってたんです。恋人になりたいなんて畏れ多いって。でも、キスされた時に気づいたんです。わたし……」

 途端に質量の大きな感情が胸の内から込み上げてきて、わたしは再び大粒の涙を零す。でも大丈夫。わたしは微笑んだ。

「わたし、やっぱりハンジさんの恋人になりたかったみたいです。わたし、ハンジさんのこと、本当に好きだから」

 心を軋ませながら関係を続けることなんてわたしにはできない。ずっと抑えていた感情を、まさかこんな形で伝えることになるとは思わなかったけれど、後悔はしていない。少なくとも、今は。
 いつの日か、やっぱり遊びでもいいからハンジさんのそばに居たかったな、って後悔するかもしれない。でも今のわたしの下した結論は、揺るがないのだ。

「だから、ごめんなさ―――」
「え、ちょっと待って、ナマエは私の恋人でしょ?」
「はい……はい?」

 ……今、なんて? 恋人? え?
 ハンジさんの顔はとても困惑している。多分、わたしの顔も同じように困惑しているに違いない。
 わたしの頭の中はかつてないくらいの疑問符で埋め尽くされて、何も考えられなくなってしまった。
 ハンジさんはわたしの反応を見て、ますます戸惑いの色を深くした。

「ナマエに告白してもらって、私たち付き合うことになったじゃない」
「え? わたし、告白なんてしてませんよ……!?」

 ハンジさんは何を言っているのだろう。わたしが告白をしたはずがない。そんな記憶は欠片もないし、第一、告白は絶対にしないと誓っていたのだ。

「え? え? ほら、ちょうど一週間前、飲み会があっただろう。その時の帰り道でナマエは私に告白をしてくれたじゃないか」
「え……? う、そ」

 ケイジさんとモブリットさんがキスをしたあの日の飲み会で、わたしが告白を、した……? 全く記憶にないが、ハンジさんが嘘や冗談を言っているようには見えない。

「嘘なんてつくものか。もしかして記憶にないのかい? ほら、半分キレたみたいな、ヤケクソみたいな感じで、『ハンジさんが好きなんですってば!』って言ってたじゃないか」

 ハンジさんの言葉を聞いて、断片的な記憶が一瞬脳裏に浮かんだ。宵闇の中で、嬉しそうに破顔するハンジさんの顔。
 ハンジさんはその時のことを思い出すように斜め上を見上げて、

「私は、『全然気づかなかったよ』って言ったら、『そんなところも大好きです』って……」

 わたしは言葉を失った。思考回路が断線してしまったみたいにわたしはフリーズして、何も考えることができなくなってしまったのだ。
 そしてハンジさんは、その日の出来事を順を追って説明し始めた。