もし感情に色があるのならば、それは赤だろうか。目の前で真っ赤な顔をして笑っている彼女を見て、ふとそんなことを思った。
時折彼女から、強い意志のような、思いのようなものを感じることがある。ただ、それが何かはよく分からない。わたしを見て、と訴えるような眼差しにその感情は色濃く出ている。その感情と出会うと、ハンジの意識は途端に彼女に射止められる。理由は分からないが、無性にその赤に惹きつけられるのだ。言われなくたって、貴方だけを見ているよ。ずっとずっと、貴方だけ。
―――いつからだろうか。彼女のことを目で追うようになったのは。集団の中で彼女の姿だけが際立って見えるようになったのは。研究の成果を真っ先に共有したいと思うようになったのは。幸せな時も、辛い時も、隣にいて欲しいと思うようになったのは。
そしてその理由は、いつだってハンジの胸の奥、誰の手だって届かないような深い深い場所にしまってある。
+++
ここのところずっと続いていた研究が漸く一区切りついたので、明日は班員の一斉調整日だった。本当によく頑張ってくれたと思う。彼らは優秀で、切れ者で、泥臭くて、熱い。リヴァイ班が巨人討伐の精鋭揃いだとすれば、ハンジの班は研究に於ける精鋭揃いだと思っているし、実際にそうだと思う。身内贔屓かもしれないが、そう思うのだから仕方ない。
だから今夜はこれまでの労いを兼ねて、班で打ち上げをすることになったのだった。一区切りついたという開放感もあり、ハンジをはじめ皆が楽しく、酒を飲んでいた。
それなりに時間も経ったので一旦お開きとなり、ハンジが会計を終えて店の外へと出れば夜の涼しい風が頬を撫でて心地よい。少し酔っているのかもしれない。
モブリット、ケイジ、アーベル、そしてニファは次の店をどうするか相談していて、そのニファに後ろから抱きつくようにしてナマエが凭れかかっていて、目を瞑っている。そこまで飲んでいる様子もなかったが、最近ずっと仕事漬けで疲れていたと言うのもあるのだろう。
ほら、やっぱりナマエのことばかり見てしまう。全く不思議なものだ、とハンジは思う。
店を出たハンジの存在に気づいた班員たちは、口々にご馳走様でしたと言って頭を下げた。
ハンジは「いつも世話になっているからねぇ」なんて言いつつ、ナマエの様子を観察する。ニファの肩に顎を置いたナマエの顔は夜の暗がりでも分かるくらい真っ赤で、なぜかニヤニヤと締まりのない顔で目を瞑っている。絵に描いたようなへべれけ姿のナマエは、気を抜けばその場で眠ってしまいそうだった。そんな姿を見て心配にならないはずがなかった。
「私はここで失礼するよ。ここからは上司抜きで気兼ねなく話をしてくれたまえ。それで、ナマエは私が送っていくよ。見たところ、二次会は眠って終わりそうだしね」
「そうですね! もしハンジさんが良ければその方がいいですね! ね!?」
ニファが猛烈に賛成してくれて、同意を求めるように男性陣の顔を見渡す。モブリットたちはその勢いに若干たじろぎつつも、同意を示した。
そういうわけでハンジはニファからナマエを預かり、二次会へと向かう班員たちを見送った。
「さて、帰るよナマエ」
「んあーい……」
肩にナマエの腕を回して支えているのだが、気の抜けた返事をしたナマエはもう殆ど寝ているように見えた。いつもハンジを見る瞳は閉ざされて、縁取るまつ毛が枝垂れている。いつもハンジの名を呼ぶ口は微かに開けられていて、なぜだか無性にそれが情欲的に見えた。どうしたって酔った姿というのは妖艶に見えて仕方がない。
と、湧き上がる不埒な感情をいなそうと、慌ててハンジは頭を振る。上司がいやらしい目で見ていたなんて知ったらきっと軽蔑されるに違いない。ハンジは一先ずナマエのことを起こすことにした。
「ナマエ、起きて」
「起きてますう……」
「起きてないよ。なぜなら起きてる人は目瞑って口半開きになんてならないからねえ」
ハンジがからかうと、ナマエは急に背筋を正してハンジの肩から腕を外して自立した。その瞳は蜂蜜のようにとろんとしているものの、起きたことには変わりない。
「起きてます!」
「うん。よくできました。それじゃあ帰ろうか、歩ける?」
「歩けますとも!」
そう言ってさっさと歩き出すが、完全に兵舎とは別方向だ。ハンジは慌てて追いかけて、大手を振って歩いているナマエの腕を掴んだ。
「どこいくの。帰り道はこっちだよ」
「あれぇ……」
普段の真面目な姿からは考えられないポンコツぶりにハンジは少し笑う。ハンジはナマエの上司だが、そんな姿を可愛いなあ、と思うことくらいは許されるだろうか。
「ほら、こっち。おいで」
そのまま掴んだ腕を引いて、正しい道へと導いていく。ナマエは素直についてきて、ハンジとナマエの二人分の足音が夜に溶けていく。
「あー……もう、かっこいいです」
聞き間違えでなければ今、“かっこいい”と言われた気がする。
「ん? なにか言った?」
悪い気はしないから敢えて聞き返せば、ナマエは急に立ち止まった。それに伴ってハンジも引っ張られるように立ち止まり、振り返る。すると、ナマエは不機嫌そうにハンジを睨め上げていた。まさかこんな顔で見られるとは思わなくて、ハンジは茫然とナマエを見返す。
「だからあ〜〜」
ハンジが掴んでいた腕は振り解かれて、そのままの勢いで拳を握った。
え、殴られるの? なんて不安に思ったのは束の間。両手をギュッと握って、気のせいか先ほどよりももっと赤くなって、もはやトマトのような顔色のナマエは、燃え盛る焔のような赤い感情を瞳の奥に宿して、弓を放つように言った。
「ハンジさんがすきなんですってばぁ!」
「え?!」
放たれた言葉は想像もしない角度から降ってきた。いや、ちょっと待って、さっきかっこいいって言ってたよね? 好きだなんて一言も言ってないよね? だから、って言葉の使い方、おかしくない? ていうか好きなの? 実に様々な疑問がハンジの頭には明滅するように浮かんだ。詰まるところ、ひどく困惑していた。
とにかく、一番聞きたいことをまず聞いてみることにした。
「私のこと、好きなの?」
心臓が早く動いている。期待に膨れた胸が、今か今かとナマエの言葉を待ち侘びている。
「そうです! たまらなくだいすきです!」
頭がぽわぽわとする。ナマエが、大好きだと言っている。相変わらずその顔は不機嫌そうではあるが。ナマエがハンジのことを好きだなんて、考えたこともなかったから、言われた今も現実感が湧かない。と、そこまで考えて、好きにも色々あることに気づいた。
「好きって、上司として? それとも、一人の人間として?」
「上司としても勿論すきですけど、一人の人間として、だいすきです。大好き、大好き、わたしだけ見てて欲しいんです」
こんなにも胸が充足感で満たされることがあるのだろうか。彼女の放つ一言一言は確かな熱を持って身体の中に注ぎ込まれていく。そして彼女の紡ぐ“大好き”と言う言葉の持つ真摯さに、打ち震えそうになる。言いながら、少しずつ心細そうな、切なそうな顔をするナマエを抱きしめたい衝動に駆られる。そんな切なそうな顔をしないで、と囁いてあげたい。この衝動のまま今すぐキミを抱きしめたら、笑ってくれるだろうか。
「……全然気づかなかったよ」
「そんなところも大好きです!」
かと思いきや、今度はヤケクソみたいな言い方で言うものだから、ハンジは抜けるように笑った。今はおそらく告白をされているのに、不思議と笑いが込み上げてくるのはきっとこの好戦的な言い方のせいだろう。切ない顔をしたり、怒ったような顔をしたり、先ほどから百面相が忙しそうだ。
「わたしのこと、すきですか」
今度は怒った顔はどこかへと消えてしまい、今は野に咲くたった一輪の花みたいだ。周りに花はいなくてたった一人、心細そうに風に揺れている。だからハンジは、その花に傅く。ここにいるよ、キミを守るよ、と囁いてあげたいと思った。
ハンジの心奥深いところにしまっておいた気持ちは、その花の蔓が伸びてきていとも簡単に連れ出してしまった。
「うん、好きだよ。部下としても、一人の女の子としても、好きだよ」
柔らかくて脆い剥き出しの気持ち、どうか受け取って。
ナマエの瞳が驚きに染まっている。追い打ちをかけるようにハンジは言葉を続けた。
「大好きだよ、ナマエ」
ナマエは両頬に手を添えると、僅かに口を開いた。まるで悶えているようだった。赤い唇も、そこから覗く白い小さな歯も、可愛いな、とハンジは思った。そしてその唇が、ゆっくりと動く。
「わたしと、付き合ってくれませんか」
「え、いいの……?」
言われて、そのことについて全く抜け落ちていたことに思い至った。そもそも自分の気持ちをずっとひた隠しにして墓場まで持っていくつもりでいたハンジにとって、その先のことなんて考えもしなかったのだ。気がつけばごく自然に、脊髄反射みたいに言葉を紡いでいた。
「付き合おう。うん、付き合おうよ!」
上司だとか部下だとか、公に心臓を捧げた兵士だとか、明日をも知れぬ身だとか、全てのことが今この瞬間のハンジにはどうでもいいことだった。
腰を曲げておでこを合わせる。骨と骨がぶつかって痛いけれど、その痛みさえ心地よい。おでこから伝わってくるナマエの高い温度は、確かに生きているという証。全てが愛おしくて、全てに感謝したい。
「よろしくね、ナマエ」
思ってもいないタイミングで、思ってもいない奇跡が起きた。一つ、引っ掛かりを覚えるとすれば、そんな大切なことを“言わせてしまった”ことだろうか。けれどきっと、言ってくれなければハンジは一生気づくことはなかっただろうし、まして自分の気持ちを告げることもなかったと思う。そう考えれば仕方ないのだが、それは棘が刺さったみたいにハンジの心で主張をしていた。
少し顔を離してみれば、ナマエの瞳には件の赤い感情が潜んでいた。やっぱりハンジは射止められて、背筋をえも言われぬゾクゾクする何かが通り抜けて行った。
+++
翌朝は、いつも起きるぐらいの時間に目覚めて、一瞬仕事の準備をしなければと考えて上体を起こすが、すぐに今日は調整日だということを思い出す。再び身体を横たえて、昨夜の記憶を手繰り寄せる。
すぐに思い出すのは、真っ赤な顔をしてヤケクソみたいに告白をしたナマエのこと。寝起きでぼんやりする頭でも、ふっと笑ってしまうほどには、面白くて、愛おしい。
「まさか……好きだったなんてなぁ」
確かめるように一人、口にすれば、口元が徐々に緩まっていく。この幸せな気持ちのままもう一度寝ようと思って目を閉じた。
結局、寝たり起きたりを繰り返してダラダラと時間を過ごしているうちにお腹が減ってきた。普段ならば仕事をしたりするのだが、昨日で一区切りしたということもあって、そういう気持ちにはならなかった。
街に出て軽くご飯を済ませると、吸い寄せられるように足が本屋へと向かった。
ナマエは今頃何しているんだろう、ということはこれまでも思いを馳せることがあったが、今日は輪を掛けて考えているような気がした。ゆっくりしているのかな、昨日結構飲んでいたし。
それにしても恋人になったはいいものの、恋人同士が何をするかなんてハンジはよくわからない。手を繋いだり、キスをしたり、身体に触れ合ったりすることくらいは分かるが、どんな会話をするのかとか、どれくらいの頻度で会うのかとか、デートの仕方とか、てんで分からない。ハンジにとって最も縁遠い分野であるがゆえ、知識なんてあるわけもなかった。
分からないならば、分かればいい。ハンジは普段絶対寄りつかないような本のコーナーにやってきていた。そこから適当に本を取り、ぱらぱらとめくり目を通す。恋愛関係の本だ。
恋人同士のスキンシップというのは、手を繋ぐ、抱きしめる、キス、そして最後にセックス、らしい。
別にやましい本を読んでいるわけじゃないのに、ハンジは次第に居心地が悪くなってくる。なんとなく辺りが気になって見渡しては誰もいないことに安堵して、また目を落とす。息を潜めて任務を遂行し、片時も気が休まるときがないこの状況は、まるで壁外のようだと思った。
だが結局すぐに切り上げて、壁内―――いつもハンジが立ち寄るコーナー―――へ逃げるように向かった。
そこでぱらぱらと適当に本を捲り、その文字に目を通しながらも、それは頭には残らず、結局思考は遠く離れた彼方へと飛んでしまう。
先ほど書いてあったスキンシップは順序さえ守れば一日で済ますことも可能なのだろうか。それともある程度の期間が必要なのだろうか。疑問が次から次へと尽きることなく溢れてくる。
―――ああ、全く本に集中ができない。ならばもういっそ今日は帰るか? 寧ろ恥を忍んで恋愛本を買おうか? それともナマエに直接聞いた方がいいのだろうか、なんて考えながら本から顔を上げたその時だった。
こちらを食い入るように見ている人がいたのだ。それはまさに、今考えていた人物で、悲鳴は声にならず喉の中で暴れた。
「あ……は……え、と」
喘ぐようにナマエがいう。どうやら驚いたのはハンジだけではないらしい。しかし先に気づいていたのはどう考えてもナマエなのに、どうしてそんなに驚いているのだろう。
「びっくりしたぁ。全然気づかなかったよ」
「すみません、あの、わたしもびっくりして……固まっちゃいました」
びっくりして固まっていたとは。そんなに驚くかな、と考えたが、昨日から付き合い始めた人と街で偶然会えば、なるほど確かに驚くかもしれない。
ハンジは少し冷静さを取り戻して、本を戻しながら言う。
「買い物中? まさかこんなところで会うとはねぇ」
「もう帰るところだったんですが、たまたま立ち寄ったんです」
恋愛本を読んでいる時に会わなくて良かったと安堵する。そんなところを見られたら情けないったらありゃしないだろう。
「そうだったんだね。もしよかったら一緒に帰らない?」
「ッッいいんですか?」
「ナマエと私の仲なんだから、当たり前じゃないか。それじゃあ行こうか」
なんといっても恋人なのだから、と胸の中で呟く。書店を出ると、外は橙色に染まっていた。一日が終わる。一日の終わりに、一緒にいる。それを噛み締めながら、石畳の道をゆっくりと歩き出す。
歩調はナマエに合わせて歩きながら、何を話せばいいのだろうと考えを巡らせる。今までだったらナマエと話したいことがいくらでも浮かんできた。だが今はどうだ、何も言えないでいる。正確に言えば、心は饒舌で、いろんなことを話したいのに、どれを話せばいいのか分からないのだ。
燻っていたハンジに、ナマエから声がかけられた。
「そういえば昨日はありがとうございました。すごく楽しかったです」
「こちらこそ。でも昨日の今日で会うと、なんだか少し緊張するね」
一度火に薪を焚べれば、そこから燃えるのは早い。チラとナマエの顔を盗み見れば、前を見ながら口元を緩めている。それを見たハンジも自然と口元が緩くなる。
「本当にそうですね。……わたし、結構酔ってたみたいで記憶が抜け落ちてるんですけど、大事な場面はちゃんと覚えてます」
記憶が抜け落ちているなんて言うからまさか忘れているのかと思ったら、流石に覚えているらしい。あんなに大胆に告白をして忘れる人間もそうそういないだろう。気がつけばナマエを見ていた。ナマエもハンジの視線に気づいたのだろうか、顔を上げたので視線が混じり合う。それだけでハンジの心臓がキュッと締め付けられる。それでもなんでもないように装って言葉を紡ぐ。
「あのことね、覚えてるなら良かった」
「忘れるわけないじゃないですか。多分一生覚えてます」
可愛いことを言うじゃないか、と心がくすぐったくなる。
「私もだよ。いやー本当に、まさかだったけどね」
ナマエがハンジのことを好きだなんて、思いもよらなかった。今だって信じられないくらいだ。でも今、隣にいて、笑いかけてくれる。こんな幸せなことないだろう。
「ふふ。あー明日、どんな顔で会えばいいか分からないです」
「今と同じでいいんじゃない? 自然体でさ」
「……そうですね。自然に」
僅かな間ののちに、呟くようにナマエが言った。
と、不意に先ほど読んだ本の内容が脳裏に浮かぶ。
―――手を繋ぐ、抱きしめる、キス、そして最後にセックス。
「少しだけいいかな」
立ち止まり、向かい合う。
「改めて。不慣れな点もあるけど、よろしく頼むよ」
ハンジは右手を差し出した。僅かな間を開けて、ナマエの小さな手が握り返す。指先が冷たいのは緊張しているからだろうか。手を繋いだ途端、距離が近く感じた。これがスキンシップの効果とやらなのだろうか。
「はい、よろしくお願いします」
夕闇に溶けていきそうなナマエが微笑んだ。その儚さと対照的に確かな感触が右手にある。
気がつけばその右手を引いて、ナマエを引き寄せていた。ハンジの胸に吸い寄せられるようにナマエがやってきて、抱きしめる。柔らかい感触と、ふわりと香る甘やかな匂い、二人の間に隙間はなくなり、石畳の道に落ちた影は一つになった。
「え、ハンジさん、あの……!」
「こういうこと、してもいいってことだよね」
手を繋ぐのは恋人同士に許されたスキンシップだ。それを経たら、抱きしめることができる。
「え、それは、えと、どうなんです、か……ね?」
「私も分からないことが多いし、人とズレてることもあるからね。思ったことはなんでも言ってね」
一緒に走っていたはずなのに、気がつけばみんなを置き去りにして自分一人だけが走っていた、と言うことがよくある。夢中になると周りが見えなくなってしまうのは悪癖だと自覚している。今回ばかりは暴走せずにできる限り寄り添って、二人で歩いていかないと。
「はい……」
小さく返事したナマエ。重なった身体から、ナマエの心音が聞こえてきた。力強い鼓動がハンジの身体にも溶けてきて、鼓動を感じるたびに身体が幸福感で満ちていく。
「ふふ、すごい。心臓が一生懸命動いてるのが伝わってくるよ。可愛いなぁ」
なんて美しいのだろう、なんて尊いのだろう、なんて愛おしいのだろう。ナマエが可愛くて仕方がない。だが、これ以上抱きしめていては内側にある大きな感情に飲み込まれてしまい、自分が自分でなくなってしまう気がした。
咄嗟に離れて、「よし、帰ろうか」と歩き出す。身体の内側から出た矢印が痛いくらいナマエを指していて、その矢印が飛び出て危うく暴走するところだった。
それから他愛のない話をしながらも、さりげなくナマエの手を掠めとり、手を繋いで歩こうとしていたのだが、これがなかなかうまくいかない。手が掠めてはナマエは慌てて引っ込めて、なんなら謝られてしまった。
そうしてあれよあれよという間に兵舎に辿り着き、ナマエの部屋の前までやってきた。扉を前にしてナマエと向かい合う。今日はこれでお別れだ。そう思ったら、もっと一緒にいたいという切実な願いが溢れ出そうになる。手をナマエの頭に乗せて撫でつければ、自分とは違う髪質の髪の毛が指に触れ、そんなことからもナマエは自分とは違う個なのだと感じる。
その感触を楽しみながら、何か彼女に言いたかったことはないか、したかったことはないかと逡巡する。が、結局何も出てこなかった。
手を握る? 繋ぐ? 抱きしめる? キス? そのどれもが違う気がして、ハンジは最終的に諦念の息をついた。
「じゃあ、また明日ね」
そう言って、手を振って別れた。
+++
それから一週間が経った。その間、二人は部下と上司である時間が殆どだった。上司のハンジと、部下のナマエ。仕事となればハンジの頭は仕事で埋め尽くされるので、なんの不都合もなかった。ナマエもいつも通り、ただの部下で、それ以上でも以下でもない。あの夜に起きたことは二人だけしか知らないので、当然他の班員は知る由もない。二人が密やかに付き合い出したなんて夢にも思わないだろう。
ちらと窓に目をやる。窓から見える空が夕焼けに染まっているのを見て、ふと本屋で一緒に帰ったことを思い出した。それに引きずられるようにして、確か明日はナマエが調整日だったことを思い出す。自然な流れで彼女を見れば、真剣な顔でペンを走らせている。先週は顔真っ赤にして、ヤケクソ告白してたのに。そんなことを思って、口元が緩むのを感じる。思い出したら猛烈にスキンシップがしたくなった。他愛ないことを話したい、隣で笑う姿をずっと見ていたい、小さな手に触れたい、柔らかい身体を抱きしめたい。
どうやらハンジの集中力は、プツンと切られてしまったようだ。いかんいかん、と気を取り直して目の前の仕事に意識を戻す。だが、気がつけばスキンシップという言葉が頭に浮かんでくるのだ。慌てて水底に沈めるが気を抜けば再び浮かび上がってくる。
そうしているうちに仕事が終わり、班員が続々と帰っていく。ハンジはナマエを呼び止めた。この後時間があるか聞けば、残業をお願いされると思ったのだろう、
「何をすればいいですか」
と聞かれたので、笑みを零す。
「あはは、違うよ。残業して欲しいわけじゃなくて、私ももうそろそろ終わるからさ」
このあとの言葉は、ナマエだけに聞こえるように言いたかったので、手招きをして呼び寄せる。ナマエは親鳥を追いかける雛鳥みたいなひたむきさで近づいてきた。口元に手を添えて、ナマエの耳に顔を寄せて囁きかける。
「もし良かったらこのあと私の部屋で一緒に過ごさない? ってお誘い」
「……え?」
「時間、あるんだよね」
そうして仕事を片付けた後は、ハンジの部屋に一緒に行くことになった。ナマエの口数は少なくて、上の空みたいで、何を聞いても「はい」しか言わなくて少し面白かった。
「ねえナマエ」
「はい」
「リヴァイってチビだよねえ」
「はい」
「ミケの口髭とエルヴィンの眉毛どっちが太いと思う?」
「はい」
「ふふふ……!」
+++
部屋に入って早々、しまった、とハンジは頭を抱えたくなった。突発的に誘ったものだから、部屋が汚い。脱ぎ散らかした服が至る所に放置され、あちこちに書類の山があり、ソファには読みかけの本が積まれていた。これでは座ることができない。
「ごめんねぇ。とりあえずベッドでもいい?」
「はい」
ベッドに腰掛けてもらって、その間にソファを片付けようと思ったのだが、ナマエの顔を見ていたらハンジまでベッドに腰掛けていた。そして呆然と前方を見つめ続けているナマエのことを見つめる。
緊張しているのだろうか、いつもよりも多く瞬いていて、その度蝶が羽ばたくみたいにまつ毛が上下する。唇はキュッと結ばれていて、膝の上に置かれた手も同じようにキュッと握られていた。
その拳にハンジは手を重ねる。途端にナマエの肩がぴくりと跳ねる。虚ろに前を見ていた瞳がハンジを捉えた。虹彩に光が差して、ハンジの姿が映る。途端、ハンジの身体の奥深いところから強い衝動が起きて、それは瞬く間に質量を増した。
「ナマエ……」
気がつけばベッドの上に組み敷いていた。シーツの上に髪の毛がバラバラと散らばり、それがまた情欲的に映った。
あの日触れた手が、顔が、身体が今、ハンジの下にある。あの時の感触が、感情が蘇って、彼女に触れたいという願いが溢れ出そうになる。
ゆっくりと顔を近づけて、鼻先をくっつける。一頻り堪能したのちに、ハンジは僅かに顔を離して、今度は鼻が当たらないように顔を傾けて、柔らかなそこへ吸い寄せられていく。
そうしてハンジはナマエに口付けをした。なんと柔らかいのだろう、とその気持ちよさに脳が痺れるような心地がした。一度キスをしたらタガが外れたようで、ハンジは何度も角度を変えてキスを落とした。
これ以上したら理性が吹き飛んでしまうというところで、かろうじで残っている理性を総動員して、なんとかキスを中断して顔を上げた。
やがて薄らと瞳を開けたナマエの面持ちは強張っていて、手は胸の上で祈るように組んでいる。
「緊張、してる?」
そう問う。
僅かに開いた唇の隙間から音を出そうとしたがそれは叶わなかったのだろう、肯定を示すように小刻みに頷いた。
「私もだよ。キスってさ、唇と唇がただ触れ合うだけなのにどうしたこんなに官能的なんだろうね」
「どうして……キスをしたんですか」
ハンジのなんてことのない話は流れていき、変わりに震えた声でナマエが問うた。
「え? だってナマエは私のこと、好きなんでしょ?」
あの日告白をしてくれて、付き合おうと言ってくれて、二人は付き合い始めた。恋人同士のスキンシップの順序だって間違えてないはずだ。
するとナマエの瞳から瞬く間に透明の雫が溢れ出し、目尻から落ちてシーツにシミを作る。その顔は悲しみの底にいるように見えた。
まさか泣かれると思っていなかったハンジはぎょっとして、慌てて名前を呼んだ。
「ナマエ?」
「ごめん、なさい」
そしてハンジの下から抜け出して、瞬く間にハンジの部屋から出て行った。取り残されたハンジは一人、ナマエが開け放った扉を呆然と見やりながら何が起こったのかと考える。
急にキスをしたから怒ったのだろうが、しかし順序は間違えてないはずだ。ではなぜ? 考えても考えてもまるで何も出てこなかった。
結局一人で考えても答えが出るわけもなく、ハンジはナマエを探しに行くことにした。部屋だろうか? と考えて、ナマエの部屋の前にやってきて、扉と対峙する。首に手をやると、自分の手先の冷たさに驚いた。柄にもなく緊張していることに気づいて、たまらず苦笑いを零す。
試しにノブを回せば鍵がかかっておらず、難なく開いた。おかげでノックをするのを忘れてしまったが、ナマエのベッドには膨らんだ毛布があり、その中からくぐもった嗚咽が聞こえてくる。まだ泣いている、その事実にハンジの胸がチリチリと焦げ付くのを感じた。
ハンジはベッドのそばに歩み寄り、「ナマエ、ねえ」と声をかける。すると、嗚咽は止まり、やがて毛布の山からナマエの顔が覗いた。涙と鼻水でびしょびしょに濡れて、髪の毛はボサボサだ。
「ごめんね、鍵が開いていたから勝手に入らせてもらったよ」
ナマエは身体を起こすと、再び嗚咽交じりに涙を流す。今は何か具体的なことに対して泣いているというよりかは、涙の止め方を忘れてしまって、とめどなく流れ続けているように見えた。
「ナマエ」
ベッドに腰掛けて名前を呼ぶ。ナマエのまつ毛は涙に濡れているものの、ハンジのことを見つめている。だから言葉を続ける。
「急にキスしたから驚いちゃった? ごめんねナマエ。まだ早かったかな。前にも言ったけど、不慣れな分野だからさ。……ちゃんと、聞けばよかったね」
ごめんね、と再び謝罪を口にして、恐る恐るナマエの頬に手を添えて、涙を拭った。少しずつ呼吸が整っていき、涙が止まっていく。良かった、と口には出さずホッとする。
頬に添えていた手で今度はナマエの手を握る。暖かい手だった。だいぶ呼吸が整ったところで、ハンジは静かに尋ねる。
「少し落ち着いた?」
何度か瞬いて、そのたびにまつ毛の先の涙粒が揺れる。ようやくきちんとナマエと目が合った気がした。ナマエはゴシゴシと目や鼻を擦り、拭うと、大きく深呼吸をした。
「心配かけてすみません。わたしの気持ち、気づいてたんでね」
「え? まあ、そりゃあ……」
告白されたんだからね、気づくも何も、教えてもらったわけだけれど。
「わたし、遊びでもいいって思ってたんです。恋人になりたいなんて畏れ多いって。でも、キスされた時に気づいたんです。わたし……わたし、やっぱりハンジさんの恋人になりたかったみたいです。わたし、ハンジさんのこと、本当に好きだから」
……ん? ハンジの思考が中断し、同じところを行ったり来たりする。
え? 恋人になりたかった? 恋人じゃないの? え? どういうこと?
「だから、ごめんなさ―――」
「え、ちょっと待って、ナマエは私の恋人でしょ?」
「はい……はい?」
ナマエの顔が困惑一色に染まる。恐らく、ハンジも同じような顔をしているに違いない。どうにも何かが噛み合っていない。しかもきっと、致命的な何かだ。
「ナマエに告白してもらって、私たち付き合うことになったじゃない」
「え? わたし、告白なんてしてませんよ……!?」
「え? え?」
一体どういうことだ。告白なんてしていないときた。致命的な何かの正体が少しずつ分かってくる。こうなったらもう、このズレのようなものを修正するために、一つ一つ順を追って確認していく必要がある。ナマエが先週の飲み会の帰りに告白をしてくれた旨を伝えれば、心の底から信じられないといったような表情で「うそ……」と呟いた。
「嘘なんてつくものか。もしかして記憶にないのかい? ほら、半分くらいキレたみたいな、ヤケクソみたいな感じで、『ハンジさんが好きなんですってば!』って言ってたじゃないか。私は、『全然気づかなかったよ』って言ったら、『そんなところも大好きですって』……」
話を聞いていくうちにどんどんと顔が青ざめて、最終的に口を開けて呆然としている。
つまり、ナマエはあの時のことを覚えていなくて、ハンジはナマエのことを恋人だと思っていたけれど、ナマエにとってはただの上司のままで。いや、厳密に言えば片思いの上司といったところだろうか。それは噛み合わないわけだと一人納得した。
「全っ然、覚えてません……」
青ざめたままナマエは告げた。とすると、付き合った次の日偶然出会った際、手を握ったり抱きしめたりしたのも、ナマエからしたら付き合ってもない人から突如されたと言うことだ。今日部屋に誘ったのだって、さぞかし驚いたことだろう。
そんなことあるのか、そんなすれ違い……
「ふふっ……」
気がつけば、込み上げてくる笑いが抑えられずに、溢れ出てしまった。
「あははっ! 逆によくここまで気づかなかったよねぇ」
「本当に……びっくりです……もういまだに信じられません。ハンジさん、わたしのこと好きなんですか? 本当ですか?」
本当に信じられないと言った様子でナマエが言う。無理もない、あの時のハンジだって同じように信じられなかった。
「好きだよ。だからキスしたんだよ」
「わたしてっきり、わたしのこと遊びの女にしようとしてるのかと思いました」
「さりげなくひどいこと言うよね。私のことそんな最低のやつだと思ってたの?」
冗談めかして言えば、ナマエぶんぶんと頭を振って否定をする。
「いえ全く! でも夢みたいで……だって、ハンジさんがわたしなんて……」
「あのねぇ、告白されて私がどれだけ嬉しかったか知らないでしょう? 私の方こそ、ナマエが私のこと好きだなんて全く気づかなかったんだから」
嬉しくて、嬉しくて。立場も外聞も何も考えずに咄嗟に付き合おうって言ってしまうくらいだったのだから。
するとナマエはボソボソと言葉を紡ぐ。
「だって困らせちゃうかなって思って、一生懸命気持ちに蓋をして、ずっと自分の中にとどめてました。せめてハンジさんに恋人ができるまでは想わせてほしいって思ってて……」
どうやらお互いが同じようなことを考えていたらしい。先週お酒に呑まれてあんなことにならなければ、お互いが好き同士なのに最後まで混じり合うことがなかったのかもしれない。そう考えたら、奇跡のような今この瞬間が尚更愛おしく思えた。告白をしてくれてありがとう、今度は―――
「ねえ、記憶にないならさ、とっても狡いけど、今度は私から告白させてよ」
初めから約束された未来がある状態での告白なんて狡いけど、告白したことを忘れられていたのはよく考えればちょっとショックなので、これでおあいこと言うことで、と心中で言い訳を並び立てつつ、一週間前に紡いだ言葉をなぞっていく。
「ナマエ、私はナマエのことが好きだよ。部下としても好きだけど、一人の女の子としても大好きだ」
「う……あ、はい」
「ナマエは私のこと好き?」
「大好きです。何よりも誰よりも、大好きです」
熱にうかされて紡がれたうわ言みたいにナマエは言った。頬は紅潮し、瞳は潤んでいる。もはや本当に熱があるみたいだ。
胸に刺さった小さなトゲが、抜ける時が来た。ハンジは真っ直ぐにナマエを見て、口を開いた。
「改めて、私と付き合ってくれませんか」
「はい、ぜひ。こんなわたしですがよろしくお願いします」
目を細めたその瞳の奥、烈火の如く赤い感情を見つけてハンジは吸い寄せられる。ハンジのことを求めてやまないその眼差し、その目でずっと見ていて欲しい。性も根も尽き果てるまで求め続けて欲しい。
「今度は忘れない?」
「忘れられません」
言いながら、ハンジはナマエの頬に手を添える。
「キスしても泣かない?」
「幸せすぎて泣いちゃうかもしれません」
「それならいいよ、私が拭ってあげる」
ゆっくりと、まるで最初から決められていたみたいにハンジが顔を近づけて、ナマエは目を瞑る。あまりに強く瞑るものだから、まつ毛が小刻みに揺れている。
そして唇は音もなく重なり合った。すると、頬に添えていた手に生暖かい何かが伝う。確認せずともその正体はわかる。ハンジは顔を離して見つめ合う。ナマエの顔は悲しみに暮れてなんてない。眉をハの字にして、困ったように、でも幸せそうに涙を流しながら笑っている。約束通り涙はハンジの指で拭うが、拭っても拭っても際限なく溢れてくるので、これには二人で笑った。
「それじゃあ涙が止まるくらい夢中にさせてあげる」
ハンジはそう囁いて、ナマエの手の指を絡めてそのまま押し倒してベッドに縫い付ける。緊張と、期待と、ないまぜになった表情で見上げるので、ハンジは堪らず息を呑む。脳裏ではスキンシップの順番が反芻されていた。キスのあとは……しかし、流石に早すぎるだろう。ぐっと己の欲を抑え込む。ところが、そんなハンジの気も知らず、ナマエはどばどばと油を注いだ。
「もうこれ以上ないくらい夢中なのに、ですか……?」
「……もう、煽らないの」
どうなっても知らないよ、と小さく呟いて、キスの雨を降らせる。
勘違いを拗らせた二人はすれ違い、漸くかみ合った歯車が急速に回りだす。
