33.その先へ、いつまでも

 一体いつまで夏は続くのだろうか。もしやこのまま永遠に暑いまま、夏は終わらないのではないか。容赦なく照りつける太陽に肌がじりじりと灼ける日々が続き、ふと心配に駆られたこともあったが、気がついた時には日が暮れるのが早くなっていて、吹き抜ける風も冷涼なものとなり、生を謳歌するように盛況に生えていた緑たちはセピアのフィルターを通したようにくすんでいた。季節の変わり目はいつだって曖昧で、気がついた時には過ぎ去っている。夏はいつの間にやら終わり、夏と冬を繋ぐほんの僅かな過ごしやすい気候、秋になっていた。
 夏を超えた生徒たちは、ひとまわり大きくなって学校に帰ってきた。学校事務のわたしですらそう思うのだから、担任なら尚更感じるだろう。消太さんと付き合うようになって、生徒たちの話をよく聞くようになったわたしは、付き合う前よりも生徒たちに親近感を持つようになった。顔の見えないぼんやりとした存在だったものが、今はちゃんとわたしの中で実体として存在している。そんな生徒たちの成長に、ほんの僅かだけれど携わることができることを嬉しく思う。
 わたしは消太さんが受け持っている生徒たちのことを知っているものだから、たまに話しかけてしまいそうになってその度にハッと我に返る。一方的にわたしが知っているだけであって、彼らからしたらわたしは名も知らないなんの仕事をしているかもわからないただの雄英関係者だ。そんな人間から話しかけられても怖いに決まっているし、お前誰? と言う話だ。引き続き気をつけなければならない。
 林間合宿で会えない日々が続いたのは寂しかったけれど、今となってはいい思い出だ。合宿中はタイミングを見計らって通話をしてくれていたのだが、電話の奥から生徒たちが談笑する声や他の先生達の声が聞こえてくるときもあって、ドキドキしたものだ。

『相澤先生ー、ってあれ、通話してる! もしかしてカノジョ!? 例の事務員さん?!』
『うるせぇぞ。……すまん、またかける』

 あの時は、現地にいないわたしの方が無駄にドキドキしてしまった。やっぱり生徒達にもバレてたんだ、なんて居た堪れない気持ちになりつつも、ニヤニヤが止まらない。公認みたいな感じがして、嬉しかったのだ。
 帰ってきた消太さんは林間合宿での話を聞かせてくれた。生徒たちの成長を語る姿はすごく先生って感じがして、かっこいいなあと思うと同時に、そんな表情をさせられる生徒たちが羨ましいなあとも思う。
 聞き終えた後でわたしは「いいなあ」としみじみ呟く。

「消太さんの生徒になってみたいです」

 消太さんの生徒になって、消太さんに成長を見てもらって、今みたいに優しい顔で喜んでもらいたい。

「生徒だったらこうはならんぞ」
「こうって?」

 わたしと問いに答えるように、消太さんはくちびるを重ねた。

「こういうことをする関係ってことだよ」

 キスをひとつするだけで一気にあたりの空気が艶を帯びる。隣同士で触れ合った肩が急に熱く感じる。なんだか照れてしまって、わたしはおどける。

「えー、だめですか。卒業して成人したらな、とか言って数年後付き合うとか」
「まず生徒をそういう目で見ないからな。それに俺はそもそも彼女とかいらなかったんだよ。誰が相手だろうと関係なくて、名前が特別だから付き合ってるんだ」
「そうでしたね」

 不必要で、非合理的な存在なのに、わたしを求めてくれた。たくさんたくさん考えて、わたしを好きだと言ってくれて狭い円の中にわたしの入るスペースを作ってくれた。
 その眩いほどの奇跡はいつだってわたしの胸の真ん中で光っている。いまわたしは、たくさんの奇跡が積み重なった上で消太さんの隣にいることができる。この奇跡がいつまでも続くように、出来る限りの努力を重ねなくちゃ。

「でも名前だったら生徒の立場でも俺を絆してきそうだな」

 消太さんの手がわたしの頬に触れて、そのまま顎を掬う。消太さんが消太さんであるならば、どんな立場だってわたしはその引力に導かれてしまうだろう。愛おしい、ずっとそばにいたい、そんな思いが身体の中を駆け巡る。消太さんも同じことを考えてくれていたら嬉しい。

「恐ろしい女だ、名前は」

 わたしたち以外の全ての時が止まったみたいに、気配が消えた。激しく脈打つわたしの鼓動だけが聞こえてくる。じっと見つめるその目はいつも通り静謐を湛えているけれど、その奥に深い情念の炎が見える。愛情を伝え合うかのような甘やかなキスを交わし、ベッドの上でいつまでも抱き合った。
 その数日後のことだ。

「ところで」

 消太さんの家で、ソファを背にして並んで座り込み晩酌をしている時だった。不意に消太さんが話を切り出して、わたしは飲んでいた缶を置いた。お風呂を済ませて髪を一つにまとめた消太さんは今日もかっこいいなあ、なんて考えながら。

「はい」
「いつになったら敬語をやめるんだ」
「……敬語を、やめる?」

 考えてもなかったことを言われて、わたしは初めて聞いた外国語をこれで合っているのかと確認するようにおうむ返しした。しかも恐らくだいぶ変な顔をしていたのだろう、

「そんな変なこと言ってるか」

 と消太さんは困惑したように言った。慌ててかぶりを振って否定する。とはいえわたしは、いまの今までそんな考えは一切なかったので、消太さんの言葉をうまく理解できなかったのは確かだ。
 敬語をやめるということは即ち気安いタメ口で喋るということだ。考えてみれば恋人同士ならば至極当然のことだが、どうにもすっぽり抜けていた。それは多分、わたしにとっての消太さんは年上で、先輩で、敬語を使うのが当たり前だという考えが根幹にあるからだろう。

「……考えたこともなかったです」
「恋人同士なんだし、二人でいる時くらい敬語じゃなくていいと思うんだが」
「確かに、そうですね」

 わたしはタメ口を使った消太さんとの日常を想像してみた。
 職場ではもちろん、敬語だ。「相澤先生、お疲れ様です。インターン申し込んだヒーロー事務所からオッケーいただきましたよ」といえば、「ありがとうございます。生徒に言っておきます」なんて消太さんが無表情で小さく頭を下げる。
 でも放課後、雄英高校から出て少し歩き、人気がなくなってくると、わたしはタメ口になる。「なんか今日、寒いね。消太さんまだ上着着ないの?」なんて聞いちゃって。消太さんは、「まだ大丈夫だろ。今からそんな着込んで、真冬大丈夫なのか」なんてニヤリとする。「真冬にはもっと防御力高い上着を着るから大丈夫なの」とわたしは反論する。……ちょっと想像しただけで胸が甘く疼いた。
 で、そんな日々が続く中で、職場でも二人っきりの時はポロッとタメ口きいちゃったりする。誰もいない廊下で偶然出会って、わたしは消太さんの引力に導かれて吸い寄せられて、消太さんもわたしのことを待ってくれる。

「相澤先生、お疲れ様です。授業ないんですか」
「ええ。飲み物でも買いに行こうかと思って。一緒に行きますか、奢りますよ」
「やった、行く」

 あ、と慌てて口を手で塞ぐんだけど、消太さんはふっと抜けるように笑う。……なんてね。

「どうした、急に黙り込んだと思ったらニヤニヤして」

 消太さんの言葉ではっと我に返って、「いえ」とかぶりを振る。
 こんなことを一瞬で想像できるなんて、自分はなかなか想像力が豊からしい。
 結論としては、なかなかいいかもしれないと思った。何より距離がグッと近づくような気がする。これは呼称が相澤先生から消太さんに変わった時も思った。親しいもののみが許される特別な場所を与えられたような気がして、心臓がくすぐったい。
 だが、問題がある。

「でもわたし、敬語やめる自信ないです」

 すっかり染み付いてしまったこの敬語をなくすのは容易ではない。服にこぼした醤油だって、時間が経てば経つほど取りにくくなるのと一緒だ。過ごした時の長さだけ、わたしの中で強固に染みつく。

「まぁ無理にとは言わないが、考えてみてくれ」

 そこに浮かんだ笑顔に、ほんの少しだけ寂寥感のようなものが垣間見えて、胸がぐっとつまるのを感じる。そしてハッとした。わたしはつい先日、これからもずっと一緒にいられるように努力を続けたいと思ったばかりなのに、早速躓いてるではないか。
 敬語をやめる自信はない。けれど、消太さんのために変わりたい。わたしは消太さんの受け持ちの生徒ではないけれど、消太さんの期待に応えることはできるはずだ。

「いや、頑張ります!! できるようになるまで頑張ります!」

 拳を握って宣誓すれば、消太さんは一瞬瞠目したものの、可笑しそうに顔を緩めた。

「急に体育会系でびっくりしたわ」
「だってわたし、消太さんに相応しい人間になりたいですし。そのための努力はし続けたいなってしみじみ思ったんです」

 たかだか敬語をやめるくらいで大袈裟に聞こえるかもしれないが、そう言う細かいものの積み重ねだって大切なのだろう。
 消太さんの彼女は、努力もせず諦めるような女ではない。ダメかもしれないけれど、とりあえず努力する女なのだ。そうやって消太さんと縁を結び合えたのだから。自己暗示、自己暗示。

「へえ」

 消太さんは意味深に微笑んで、「んじゃあ」と言う。

「練習がてら何か言ってみようか」
「え……と、そう言われると恥ずかしいと言うか……自然な会話の流れでほら、ね」
「いいからいいから」

 ちょっと面白がっているではないか。憎らしいけれど、そんなところも好きだ。本当にわたしって、消太さんのこと好きなんだな。自然と泳ぐ目をそのままに、わたしは口を開いた。

「消太さんのことが好き……だよ」

 いや無理、やっぱ恥ずかしい。そもそも言う内容から間違えてる気がする。好きだなと思ったから好きだと言ったのだけど、すごくぎこちないし、むず痒い。身体が内側から熱くなってきた。
 様子を伺うため、わたしは消太さんを見た。すると消太さんは湯上がりみたいにほんのり紅潮している。もしかして、照れているのだろうか。なんと珍しい光景。すると消太さんは照れをいなすのように唇を噛み締めて、わたしを睨め付けた。

「お前は、本当に……はぁ」
「なんでため息つくんですか!」
「なんでもない。もっと言ってみて。頑張ったらご褒美やるよ」
「ご褒美ってなんですか」
「何がいい」
「ちゅうがいいです」
「……そんなの、俺だってしたいんだからご褒美にならねぇだろ」

 わたしは抱きしめられて、消太さんの胸の中に閉じ込められる。頭を優しく撫でる手は大きくて、熱くて、心は満たされるのに、身体は甘く切なく疼いてもっともっとと消太さんを求める。

「今すぐしたい、ちゅう」
「ん」

 どきどきと心臓が忙しなく動くのを感じながらも至近距離で消太さんを見上げれば、抱きしめられながらゆっくりと床に押し倒されて、望み通りキスをされる。一度、二度と角度を変えて唇が重なり、三度目で舌がにゅるりと侵入してきた。迎えるように舌を差し出して、想いが伝わるように懸命に消太さんの舌に絡みつく。消太さんからはお酒の味がした。わたしの頭は、身体は、舌での交歓に夢中になる。もっと近づきたくて、わたしは消太さんの背中に手を回してグッと抱き寄せれば、消太さんはわたしに体重を乗せないようにしながらも、ぴとっと寄り添ってくれる。こういう細やかな気配りを感じるたびに、消太さんのことが好きで好きで堪らなくなる。

「大好き、消太さん、ずっとそばにいて」

 それがわたしにとっての、これ以上ないご褒美だから。

「当たり前だろ。この先片時も離すつもりはない」

 そうして身体に刻み込まれ、心も身体も消太さんで満たされていく。あなたの吐息すら、わたしの身体に刻み込まれればいいのに。そんなことを思った。