おかえりなさいとただいま

本作品については、原作の第132話「自由の翼」以降最終話までのネタバレを含むものです。
また、原作を改変したストーリーとなっています。

 いつその番がやってくるのだろうと、ずっと考えてきた。そしてついにその番がやってきたのだと思った。迷いや葛藤、恐怖は勿論あった。けれどついに使命を果たす時が来たのだ、と。
 眼前には無数の超大型巨人が列を成して、大地を、人を蹂躙している。大地が揺れ、空気が震える。距離で言えばまだそれなりにあるが、彼らの足ならば山を下り程なくしてここへーーー港へと到達するだろう。

「もう……これしかない、僕が残って足止めを―――」
「お前はだめだ! エレンを止める切り札はお前しかいない!! ここは俺が―――」
「だめに決まってるだろ! 巨人の力はもう一切消耗させるわけにはいかない!!」

 アルミンの言葉をライナーが遮り、ライナーの言葉をハンジが遮る。ハンジの腹はもう決まっていた。ハンジの両手には雷槍が装備されている。

「みんなをここまで率いてきたのは私だ。大勢の仲間を殺してまで進んだ。そのけじめをつける」

 “地鳴らし”が発動して一心に歩みを進める超大型巨人の群れが、地鳴りの音を低く重く響き渡らせているのに、なぜかこの空間だけは切り取られたようにしんと静まり返っていて、皆がハンジの言葉を固唾を呑んで待つ。
 ―――船にしがみついてきたイェーガー派のフロックが、最後の力を振り絞って銃を構えて、飛び立つはずの飛行艇の燃料タンクに穴を開けた。修理をするにも、超大型巨人は待ってくれない。超大型巨人はもう、すぐそばでやってきている。もう、どうすればいいのか分からなかった。身体に重くのしかかった暗澹たる絶望が、皆の思考を停止させた。しかし、ハンジは違った。
 ハンジは一呼吸おいた後、アルミンに向き直る。

「アルミン・アルレルト。君を15代調査兵団団長に任命する」

 アルミンですら既に思考は止まっていて、ハンジから告げられた団長任命の言葉は脳で理解をする前に通り抜けていく。

「調査兵団団長に求められる資質は、理解することを諦めない姿勢にある。君以上の適任はいない、みんなを頼んだよ」

 誰も何も言えないでいた。けじめとはつまり、ハンジが自ら足止めをするということだ。今まで駆逐してきた巨人とは比にならないくらい大きな巨人に、たった一人で挑むというのだ。
 たくさんの屍を築いてここまでやってきた。その決断は団長として下してきたし、己の手を汚すこともやってのけた。けじめをつけるなら、責任を取るならば、今、ここでだ。
 巨人の群れはもはや大地が移動しているかのような光景だった。項に近づくだけで燃え尽きてしまうのではないかというくらい、巨人からは蒸気が立ち込めているのがこの距離からでもわかる。それでもハンジは、己の命を文字通り燃やし尽くして、エレンへの道のりを繋げようとしているのだ。たった2本の雷槍を携えて。
 覚悟は決めたが、あの約束を反故してしまうな、とハンジの脳裏には愛する妻の顔が浮かんできた。未練があるとすれば、彼女のことだ。最後に会ったときの姿がちらつくが、瞼を閉じて振り払う。ごめんね、ナマエ。と心中で謝る。しかし彼女とて覚悟をしているはずだ。

「というわけだ。じゃあねみんな」

 それまでの真剣な表情から一転、ハンジはいつもの軽い調子で言う。まるで、仕事から帰るみたいな、そんな風に言うのは、勿論ハンジが今から死にゆくことについて皆に重く受け止めてほしくないからだ。犠牲だとか、礎だとか、自分たちのために死んでしまっただとか、そんな風には受け止めてほしくない。これがハンジに与えられた使命なのだと、ハンジは理解している。たくさんの仲間の命を繋いでここまでやってきて、彼らと同じようにハンジもその心臓を捧げるのだ。そうやって、覚悟を決めた。

「あーリヴァイは君の下っ端だから、コキ使ってやってくれて」

 そのままの調子でそう言い残して、ハンジは皆に背を向けて巨人の方へと歩みを進める。道のりの先にはリヴァイがいた。

「……オイ、クソメガネ」

 久々に言われたその呼び名に懐かしさを覚えつつ、リヴァイの横で立ち止まる。
 頼むから決心を揺らがさないで欲しい。彼からの言葉で、決心が揺るぎそうな気がして。雷槍を握る手に力が込められる。

『ハンジさん、絶対に生きて帰ってきてくださいね』

 またナマエの姿が脳裏に浮かぶ。大きなお腹に手を添えながら、不安そうな顔で言うナマエ。
 もう、覚悟を決めたまま行ってしまいたかった。だから、リヴァイが何かを言う前に牽制するように言葉を紡ぐ。

「わかるだろ、リヴァイ。ようやく来たって感じだ……私の番が。今、最高にカッコつけたい気分なんだよ。このまま行かせてくれ」

 目を合わせずにハンジは告げる。リヴァイは何か言おうと口を開いて、すぐに閉ざした。代わりにハンジの胸ぐらのマントを掴み、向き合った。ハンジの瞳は揺れていた。

「お前はこんなところで死んでる場合じゃねえだろうが。ナマエやお前らの子どもはどうなる? お前は親になるんだろ」

 ―――死にたくない、死にたくない。こんなところで死ねない。生きて帰らなくてはいけない。―――

「……だめだよリヴァイ、このままだと私達は全滅だ。行かせてくれ」

 ハンジは言葉を絞り出し、縋るように言う。やっぱりリヴァイは決意を揺るがす。心臓が嫌に早鐘を打ち、耳鳴りがする。
 ―――ナマエに会いたい、生まれてくる子どもに会いたい。そばで成長する姿を見守りたい―――
 封じ込めた気持ちがどんどんと肥大化して、ハンジの決意を根幹から崩していく。気がつけば雷槍を握る手が震えていた。
 ここで自分が足止めをしなければ、全滅するのだ。一人死ぬか、全員死ぬか、答えは決まっている。けれどそれとは裏腹に、どんどんと己の願いが強く顔を出す。

「さっきお前は団長を退任したんだったな。ただのクソメガネの言葉には何の力もねぇ。まだ間に合う可能性があるんだ。仲間を信じろ」

 そう言うとリヴァイは胸ぐらをつかんでいた手を離して、未だ固まっているアルミンたちのもとへと向かう。

「お前ら、考えることをやめるな。手を動かせ」

 リヴァイの言葉に、魔法が解けたように一同は我に返って、「ハンジさん!!」と口々に呼ぶ。

「そうですよ、まだ、間に合わないって決まったわけじゃありません!!」

 それでもアルミンは言葉とは裏腹に、絶望の中を漂っている。かなり際どい賭けだが、少しでも可能性があるならそれに賭けるべきだ。こうしている間にも巨人は近づいている。

「みんな、行こう! 僕たちにもなにかできるはずだ! 諦めたらおしまいだ!!」

 アルミンの力強い言葉が、皆の止まった時を動かす。アルミンたちは飛行機の格納庫へとばたばたと走り出した。取り残されたハンジは、膝から崩れ落ちた。

「……まだ、死ねないよ。ナマエと約束したんだ。絶対に生きて帰ってくるって」

 呆然と呟くハンジの肩に、そっとリヴァイの手が置かれる。

「わかったなら戻るぞ。工作は得意だろ」

 死する覚悟から解き放たれたハンジは、少しの罪悪感と、安堵感によって一筋涙が流れた。しかしすぐに己を奮い立たせて、リヴァイの言葉に大きく頷くと、アルミンたちに遅れて格納庫ヘと駆け出す。

『ハンジさん、絶対に生きて帰ってきてくださいね』

 大きなお腹に手を添えながら、不安そうな顔で言うナマエ。ハンジは安心させるように微笑みを浮かべて、ナマエのお腹を撫でる。

『当たり前だろう。ナマエとお腹の子を遺して死ねるわけがない。ね、名無しちゃん?』
『帰ってきたら名前、考えましょうね』
『そうだね。約束だ』

+++

「あぁエレン……思い出した……エレン……!」

 パラディ島の病院の一室、ベッドの上でナマエは唐突に記憶を取り戻し、そして巨人の力が身体からなくなったことを本能的に感じ取った。涙がぽろぽろとこぼれ落ちて、寂しくて、悲しくて、愛おしくて、ナマエは自分の体を抱きしめて、声を上げて泣いた。ナマエのベッドのそばにある小さなベビーベッドで眠っていた赤ん坊が、ナマエの異変を感じ取り、それが伝播したように泣き声を上げる。ナマエは涙を流しながら、けれど微笑みを浮かべて子のことを優しく抱きかかえて優しく揺れてあやす。

「あなたのことを一生忘れないよ、エレン。ありがとう、大好きだよ」

 きっとこの声はエレンには届かないだろう。けれど胸にこみ上げてくるこの想いを言わずにはいられなかった。

 地鳴らしが止まり、エレンとの記憶を取り戻してからどれくらい経っただろうか。もはやローゼ、シーナ、マリアを仕切るものはなにもない。ただそこに壁があった痕跡と、壁だった巨人たちが歩んで行った道のりが残っている。
 ナマエは病院を退院し、ヒストリアが用意してくれた家に身を寄せていた。今、イェーガー派がパラディ島を牛耳っているため、反逆者ハンジの妻であるナマエの保護をヒストリアがしてくれたのだ。ジャンの家族やコニーの母親も同じようにヒストリアは保護してくれていて、本当に感謝してもしれきれない。
 一人では少し大きなこの家には、たまにヒストリアが訪ねてくれる。殆ど同じ時期にヒストリアの子とナマエの子は産まれたため、母親同士悩みを相談したり、助け合ったりしている。女王様と子育ての話をするとは、ナマエは考えたこともなかった。
 ハンジさんは絶対に生きてます、と会うたびにヒストリアは言ってくれて、そうだよね、と頷くものの、それでも心配だった。責任感が強く、団長としての務めを果たすことを考えていたから、どこかで命を賭して仲間を助けているのではないかと考えてしまう。
 島の反逆者となってしまったみんなの内、誰が欠けても辛いが、それでも愛する夫には、一番生きていてほしいと願うことくらいは許されるだろう。
 ただ、生きていても、反逆者の烙印を押されている以上、なかなか帰ってくることは難しいと踏んでいる。彼らは世界的にはエレンを討ち取った英雄だが、この島では反逆者だ。仕方のないことだが、早くハンジに産まれた子どもを抱っこしてほしかったし、一緒に名前を考えたい。何より、ただひたすらにハンジに会いたい。一人でいると―――正確には子どもがいるため一人ではないが―――色々と考えてしまって、気分が暗くなってしまう。もう二度とハンジと会えないのだろうか。最後に会ったときのハンジの姿を思い出すと、自然と涙がこみ上げてきた。会えない間に少しずつ輪郭がぼやけてしまい、最後には記憶の中に溶けて、掬い上げられなくなってしまうのだろうか。

「ハンジさん……」

 ナマエの腕の中で眠る子は安らかな顔で寝息を立てていて、窓から降り注ぐ陽光は暖かい。椅子に座って日向ぼっこをしていたナマエは、意識が微睡み始めた。寝ている間に時間が過ぎて、このままハンジに会えるときまでスキップしたい、とぼんやり考えていると、玄関からノックの音が聞こえる。意識が急速に現実に戻り、ナマエは立ち上がり玄関へと向かう。ヒストリアだろうか? と思いながら歩みを進めるうちに、がちゃ、と鍵が解錠する音が聞こえてきた。ヒストリアは鍵を開けたりしない。ドキドキと心臓が嫌に早鐘を打つ。まさか、イェーガー派の人間が? だとしたら逃げなければ。向かっていた足を止めて、身を潜めようとしたその時、扉が大きな音を立てて開け放たれる。

「ナマエ!?」

 聞き覚えのある声とともに、来訪者が姿が現した。ナマエはあっけにとられて固まる。その声を随分と聞いていない気がした。眼帯を巻いて眼鏡を掛けて、栗色の髪の毛を雑に括りあげたやけにボロボロな懐かしの兵団服を着た人物。
 存在を認める前に涙が溢れる。来訪者はナマエに気づくと、目を見開いた。

「ハンジさん……!」
「ナマエ!!!」

 駆け寄ってきたハンジに子どもごと抱きすくめられる。ハンジが帰ってきた、生きて戻ってきた。見たところ目立った怪我もなさそうだし、元気そうだ。背中に回された腕の感触は、幽霊なんかじゃなくて本物の人間だ。ハンジだ。愛する夫だ。約束通り、生きて帰ってきた。

「ハンジさん、ハンジさん、ハンジさん……!」
「ナマエ、大好きだよ。愛してる。もう二度と離れるものか」

 ナマエの腕の中で、自分もいるぞと言わんばかり赤ん坊が泣き声を上げる。その声でハンジは離れて、ナマエに抱きかかえられている赤ん坊に目をやると、嬉しいとも、驚愕とも、どちらとも取れる表情になり、感嘆の声を漏らす。

「あぁ……産まれたんだね……私達の子どもが……!」
「はい。抱っこしてあげてください」

 ぎこちない動きで赤ん坊を受け取ると、「これで合ってる!?」とナマエに不安そうに確認をする。頷けば、安心したように、腕の中で泣き声を上げる赤ん坊を見つめる。

「名無しちゃん、パパですよ」

 ナマエが赤ん坊の頭をそっと撫でて言えば、赤ん坊の泣き声は少しずつ収まっていく。

「こんにちは名無しちゃん、パパのハンジ・ゾエだよ……」

 感慨深そうにハンジが言う。すると、赤ん坊が顔をくしゃっとして笑う。
 聞きたいこと、伝えたいことが山ほどある。けれど今のところはまず、この言葉を言いたいのだ。

「おかえりなさい、ハンジさん」
「ただいまナマエ」

 そしてゆっくりと、会えなかった時間を埋めるように、どちらともなくキスをした。