巨人を生け捕りし生態調査を行うことについて、よく思わないものは少なからずいる。大多数は内地の貴族たちだ。彼らは壁の中に巨人を入れることを恐れる。
調査兵団とて組織である以上、上の決定に逆らうようなことはできない。そして組織の一員である以上、ハンジとて強行することはできなかった。
「……クソ」
漏れ出るように呪詛が口から出ていた。気が付けば研究室はまるで泥棒でも入ったかのように物が散乱し、荒れ果てていた。犯人であるハンジは、荒々しく椅子に腰かけると、深く息をつく。
―――いつだって人類は巨人に対して知識が足りない。敵のことを知らずにどうやって勝つのだ。それなのになぜ認められない? それとも、私がおかしいのか? 私だけがやりたいのか?
例え茨の道でも進む心積もりだ。しかし、こうもうまくいかないと弱気にもなってしまう。ハンジとて人間だ。否定されれば傷つくし、この壁の中のどこにも居場所がないのではないかと言う気さえしてくる。
どんどんと負の感情の渦に落ちていく中で、控えめなノックののち、「ハンジさん?」と呼ぶ声がした。声の主は扉を開かずともわかる。
「どうぞ」
声の主、ナマエは研究室に入るなり、研究室の荒れ具合に一瞬眉を顰める。そして、何か虫の居所が悪いことがあったのだろう、と瞬時に状況を察する。ナマエが何かを言う前に、
「虫がいたんだ」
と、ハンジは先に言い訳をした。ナマエは、そうですか。と特段気にすることもなく頷いて、入り口近くに無残に横たわっていた椅子を起こして、ハンジの近くに持っていくと自身も座り込んだ。
なんとなくだが、ナマエもこの部屋がどうしてこうなったのかの経緯については察しがついていた。恐らく、ハンジの行おうとしている実験についてどこかからかケチがついたのだろう、と。
ナマエは前方に広がる荒れた景色を見ながら、呟くように言った。
「時々思うんです。わたしが巨人になれたらどれだけハンジさんの役に立てるんだろうなあって」
「はは。ナマエが巨人だったら、私は弄りまわせないよ」
巨人になったナマエの痛覚を確認する実験なんて、どうしたってできるわけがない。ハンジは苦笑いをするが、ナマエは首を横に振る。
「ハンジさんに解剖してもらえるなら本望ですよ。……あるいは、内地の貴族だったらハンジさんの研究に資金援助できるのになぁ、とか。いずれも、実現できるわけもない絵空事ですけど」
現実は、ハンジの実現したいことの手助けどころか、襲いかかる言葉のやりに対して盾にもなれない。もどかしいがそれが現実だ。もっとわたしに力があれば、と何度思ったことか。ナマエは自分の手元に視線を落として言葉を続けた。
「怖いのは、知らないからです。闇を恐れるのは闇の中に何があるか分からないからです。灯かりが燈ればすべてが晒され、何があるのかは明白になります。そうすれば、そこに書類が散らばっているから避ければいい、って対策をすることが出来ます」
実際に書類が散らばっているところを指したので、ハンジは、ふっと口元を釣り上げて、「そうだね」と同意する。
「ハンジさんがしていることは灯りを燈すことです。灯りを燈すのを恐れるのは愚か者です。そんな愚か者のいうことなんて、無視すればいいんです」
「ところがこの世界は愚か者が牛耳っているんだよねぇ」
「そうなんです。だからわたしはその愚か者たちを蹴散らしてやりたいです……!」
ナマエが貴族たちに啖呵を切って大暴れする様を想像し、ハンジは今度は声を上げて笑った。
「こんな可愛い女の子が急に怒鳴り散らして来たら、相当怯むだろうね」
「……こんな大口叩いたって、結局蹴散らすことなんてできないんですけどね。わたしには何もできないですけど、ハンジさんは特別な人です。ハンジさんにはそれができる。とってもかっこいいです。ハンジさんがいることを、同じ調査兵団として心の底から誇りに思いますし、恋人としても尊敬しています。ハンジさんは誰より特別で、すごい人です」
少しでも伝えたい。いつだってハンジの味方だということ、ひとりじゃないこと、特別だということ。ナマエは手を伸ばしてハンジの手を取り、包み込んだ。ハンジのひび割れた心の隙間が、じんわりと温かいもので満たされていくのを感じる。
「参ったなぁ」
ナマエは何もできないなんて言うけれど、ハンジはいつもナマエの言葉に救われている。ナマエが自分を認めてくれるから、前を向けて、進める。さっきまでの負の感情はどこへやら、いつも通りの自分に戻れているのだ。
「君が私を特別だと言ってくれるから、私は生きていけるんだよ。私のやっていることは意味があるのだと思わせてくれる」
「そそそんなことないですよ! でも、わたしの言葉でハンジさんの背中をちょっとでも押せたなら、本望です。ハンジさんなくして人類の勝利はありえませんから」
ナマエは小刻みに首を横に振って否定するも、今度はハンジがナマエの手を取り包み込んだ。
「これからもずっとそばにいて欲しい」
覗き込むようにナマエを下から見上げれば、ナマエは顔を真っ赤にして小さく何度も頷いた。
「は……い。任せてください! わたしとモブリットさんが時に背中を押し、時に羽交い絞めにしますから!」
分隊長! 生き急ぎ過ぎです!! と叫ぶモブリットの姿がハンジのナマエの脳裏に浮かんで、堪らず吹き出すと、同じタイミングでナマエが笑う。と、そのとき、扉がノックされ、「ハンジ分隊長はいらっしゃいますか?」と、声が聞こえてくる。まさに今、脳裏に浮かんでいたあの人の声だった。二人は目を見合わせて、声を上げて大笑いをした。やがて笑い声が聞こえてきたことにハンジがいるであろうことを確信したモブリットは「入りますよ」と断って扉を開けてると、訝しげな顔でやってきた。どちらともなく手を離して、ハンジは、やぁ。と手を挙げた。
「やっぱりいましたか。何を笑ってらっしゃるんですか?」
「いやぁ、いいタイミングだったからさ」
「丁度モブリットさんの噂をしていたんです。一緒に掃除しませんか」
「まぁた派手にやりましたね」
