IF 黒猫は意気地なし前編

 たまたま猫を見かけて、珍しいこともあるものだとナマエは思った。
 ウォール・マリアの壁が破壊されてからというものの、家畜を飼えなくなっただけでなく、犬や猫などもあまり見なくなった。人類の活動領域が後退して、人類が生きていくのですら儘ならないウォール・ローゼでは、愛玩動物を飼う余裕はなくなってしまったのだ。
 窓辺に寄り、すっかり暗くなってしまった窓の外の世界を見遣り、カーテンを閉めようとした時、窓の先でその黒猫を見つけた。
 その猫は宵闇に溶ける黒猫で、いかにも野良猫らしい獰猛な目つきをしていた。きっとボス猫に違いない。ナマエの中では、黒猫といえば黄色い瞳のイメージだったが、その猫の瞳は濃紺に黒いインクをひと滴垂らしたような色をしていた。
 部屋から割と近い位置にいたその黒猫は、部屋の明かりに照らし出されてその黒い体の輪郭が浮き彫りになり、じっと窓越しにナマエを見ていた。怖がりもしなければ、動じることもない。何とも逞しい精神を持った野良猫だ。
 ナマエは久しぶりに見かけた野良猫に、心臓が高鳴るのを感じた。それから好奇心に駆られて窓を開けて、その黒猫に呼びかけてみた。

「こんばんは、黒猫ちゃん」

 黒猫は逃げるわけでもなく、かと言って呼びかけに応じるわけでもなく、身動ぎひとつせずただじいっとナマエを見上げている。

「どうしてこんなところにいるの?」

 返事が返ってくるなんて思っていないが、問いを投げかける。沈黙が落ちる中、ナマエの心臓が忙しなく動く音ばかりが聞こえる。
 久しぶりに見る猫は少し怖くもあるが、やっぱり可愛い。野生の動物は病気を持っていることもあると聞くが、やはり部屋の中に入れたら怒られるだろうか。いや、部屋から出さないようにすればギリセーフだろうか。
 そんなことを考えていると、やがて黒猫はそっぽをむいてどこかへ行ってしまった。その姿は程なくして夜の闇に溶けてしまって、見えなくなってしまった。
 懐いてくれるとは思わなかったが、いなくなってしまうとやはり寂寥感が胸に広がっていった。ナマエは大人しく窓を閉じ、カーテンを閉めると、気を取り直して食堂へ向かった。
 翌日、このエピソードを誰かに聞いて欲しくて、会議室でミーティングが始まる前にニファにその話をした。そして最近猫を見たか聞くと、見ていないという。
 その話の中盤くらいにやってきたハンジが、二人の会話が終わったのを見計らって、

「その話、私にも詳しく聞かせてくれないかい」

 と言った。詳しく語るほどの内容はないが、先程ニファに伝えた内容よりも事細かに昨日のことを説明すると「へえ、なるほどねえ」と、どこか愉しそうな笑みを浮かべて言葉を続けた。

「またその黒猫、来ると思うよ」

 やけに断定的な言葉を不思議に思い、ナマエは尋ねる。

「どうしてそう思うんですか。もしかしてその仔のこと見たことあるんですか」
「まあ、そんなところだね」

 さて、会議を始めようか、とハンジが宣言したので、それ以上の追求は阻まれた。含みのある言い方が気になりつつも、思考を仕事モードに切り替えて猫のことは頭の端っこへと追いやった。

 そしてその日の夜、ハンジの宣言通り、本当に黒猫はやってきた。
 食堂でご飯を食べ終え、お風呂も入り、次の日の準備も終わってあとは寝るだけというときに、窓の外から何か声のようなものが聞こえて、窓の外を覗いたら、部屋から漏れ出た明かりに黒猫が照らし出されていたのだ。
 ハンジの予言が当たったことに驚きつつも、本当にまた会えると思わなかったので、心が躍り立つのを感じた。
 窓枠に手をかけ身を乗り出しても黒猫が逃げる気配はない。観察するようにじっとナマエのことを見詰めている。人慣れしているのだろうか。よく見れば、毛艶もいい気がする。もしかしたらどこかで飼われているのかもしれない。だからきっと、部屋に入れても大丈夫だ、と部屋に入れても問題ない理由としてこじつける。
 ナマエは猫に安心を与えるために微笑みを貼り付けて、猫へ語りかけた。

「こんばんは、また会えたね黒猫ちゃん。お部屋、入る?」

 すると黒猫は、にゃあ。と鳴いた。初めて猫の鳴き声を聞くことができたことに感動と高揚感を覚えつつ、これは肯定と取っていいのだろうか、と考える。猫が人の言葉を理解するわけないが、そうとしか思えないタイミングで猫が鳴いたので、ナマエは肯定と取ることにした。
 身体を引っ込めて「どうぞ」と部屋の中へとお招きすれば、猫は軽やかに地面から飛び上がり、音もなく窓枠に着地して再び優雅に舞い上がり部屋の中に入り込んだ。
 招いたものの、本当に入ってきてくれるとは思わず、ナマエはテンションが上がって堪らず「わあ!」と歓声を上げた。

「本当に入ってくれた! 何のお構いもできませんがゆっくりしていってください。なにかなかったかな」

 言いながら部屋の中を家探しするが、猫用の餌なんて無論あるわけもなければ、人間用の食料を隠し持っているわけでもなく、部屋の中には猫が飲み食いできるようなものは何もなかった。
 こんなことなら購買で菓子でも買っておけばよかったと後悔するが、後悔したところで天から恵みがやってくるわけではない。
 ナマエはしゃがみこむと、黒猫に謝罪した。

「……ごめんね。なにもないんだ。次来てくれるときには何かあげられるようにするからね」

 そう言って恐る恐る手を伸ばす。猫を撫でようと思ったのだ。猫はじっとナマエを見るだけで逃げる様子はない。そのまま慎重に手を動かして、猫の頭を触ると、最初にぴくりと体を震わせたものの、嫌がる様子はない。なのでナマエはゆっくりとその毛並みを撫で付ける。毛並みはふわふわで、伝わってくる温度は温かい。

「かわいい……はぁぁぁ」

 その次に手を喉元へとやり、優しく撫で付ける。すると、喉がゴロゴロと鳴る。確かこれは、猫が悪くないと思っている時に鳴る音だと記憶している。
 もう頭の中では、可愛いという単語しか浮かばなくなっていた。そして可愛い猫ちゃんをもっと近くで拝みたいという願望がむくむくと膨らんだ。

「もし良かったらベッドの上どうぞ」

 ぽんぽんとベッドを叩いて言えば、黒猫は意図を汲み取ってベッドの上に飛び乗った。
 ナマエはベッドの横にしゃがみ込み、ベッドに手を置いて黒猫を観察する。黒猫はきょろきょろと部屋の中を見渡している。

「初めてくるところだから落ち着かないよね。ふふふ」

 黒猫を見ていると、やることなすこと全てが可愛くて、つい顔が緩み切ってしまう。きっと今、見たこともないくらい顔がふやけているに違いない。
 やがて黒猫の瞳がナマエを捉えた。なぜだがその瞳が妖艶に見えて、心臓が飛び跳ねた。
 黒猫はにゃあ、と鳴き声をあげると、優雅な足取りで近づいてくる。

「どうしたの、猫ちゃん」

 黒猫の顔はどんどんと近づいてきて、ついにナマエの顔面の目の前までやってきた。
 そしてナマエの鼻先に黒猫が鼻先をくっつけた。湿って冷たい感覚が鼻先から伝わってきて、なんだかまるでチューをしているようだと思った。
 次の瞬間、ぼんっと爆発するような音が聞こえてきて、白煙が上がり、反射的にナマエは仰け反って距離をとった。
 少し離れた場所で瞼を開ければ、目の前に驚愕の光景が広がっていた。

「……へ?」

 なんと、先ほどまで猫がいたベッドには、一糸纏わぬ男の姿があった。膝を折り曲げて、うまい具合に大事なところが隠れている。
 突如現れた全裸の男へ困惑し、かつ目のやり場に困りながらも状況を理解しようと考え男を観察すると、程なくしてそれがよく知った人物だということに気がついた。

「へ……ちょ?」

 男の正体はなんと、リヴァイだった。
 リヴァイは不機嫌そうに眉を寄せ、低い声で言った。

「削がれる覚悟はできているな」
「え!? わたし殺されるんですか!? なんで!?」

 理不尽にもほどがある。
 リヴァイは丸腰なのに、その手にはまるでブレードが握られているかのような錯覚に陥り、本当に頸を削がれるのではないかと不安になるような凄みだった。反射的に両手を上げてしまうのは生存本能が故だった。
 とにかくこの全裸の人類最強に何か着るものを渡さなければならないだろう。ナマエは上げた両手のうち片方で目を覆い、リヴァイのことを見ないようにしクローゼットへと向かう。クローゼットを見ている分にはリヴァイは視界に入らないため、目を開けてその中から比較的大きな服を見つけると、再び目を閉じてベッドへと歩み寄り、ベッドに投げてリヴァイに渡した。ワンピース型の寝間着だ。

「服を着たら教えてください」

 言いながらリヴァイに背を向ける。布が擦れる音を聞きながら、心臓に手を当てて短く息を吐いた。おおよそ理解を超えた今の状況に、心臓が忙しなく動いている。ナマエの後ろには全裸のリヴァイがいるなんて、一体何が起こっているのだろう。

「着た」

 短く告げた言葉を契機にリヴァイに向き直る。リヴァイはベッドの淵に腰かけて、ワンピースの裾を摘みながら「すーすーしやがる」と苦い顔をした。

「仕方ないですよ。あとで兵長のお部屋に取りに行きますから」
「……ッチ」
「それで、どういうことなんでしょうか」

 ナマエはテーブルに備えてあるイスに腰掛けて、改めてこの状況について問う。それに対してリヴァイが口を開こうとしたその時だった。扉をノックする音が聞こえてきて、来客の声が扉越しに聞こえてきた。

「ナマエ? いるかい?」

 この声はハンジだ。なんとも悪いタイミングやってきたものだ。二人は自然と眼差しを交わしあっていた。リヴァイが首を横に振って、ナマエは頷いた。
 即ち、居留守だ。

「ナマエ? 留守ー?」

 このまま諦めてください、ハンジさん。そんな心の声が通じたのか、通じたからこそなのか、扉のノブが回されて、そして遠慮なく扉が開け放たれた。

◆◆◆
後編へ続きます!!!

「削がれる覚悟はできているな」

と言う言葉を言ってほしいというところから始まった、猫の日のお話です。

2024-02-22