IF 箱庭の片隅で悼む(リヴァイ)

IFストーリー
最終回後の話ですので、未読の方はご注意ください。世界観については、原作とアニメを見たのちの独自解釈多々です。

※ハンジの死を受け入れられないヒロインと、一緒に生きていくリヴァイ。

 マーレの空は狭い。空の輪郭は建物によって象られていて、何か轟く音が聞こえたかと思えば、飛行艇が空を羽ばたいている。マーレの空を見上げるたびに、壁の上で見ていたパラディ島の空を思い出す。そこには空しかなくて、遮るものは何もない。どこまでも空が続いていた。そしていつだってその隣にいるのは−−−

「まーたぼーっとしてる。置いてくよ、ナマエ!」

 少し先で、ガビがよく通る声で叫んでいる。その隣のファルコも車椅子を押す手を止めてこちらを見ていた。
 ナマエより幾分も年下の少女は年の離れた妹のようでありながら、しっかりものの姉のようでもある。この年齢差を感じさせない遠慮のなさが、ナマエにはとてもありがたい。そしておそらく、彼も。

「今行くよー」

 小走りに向かって追いつけば、車椅子に乗ったリヴァイはちらりとナマエを見上げた。

「何かあったか」
「いいえ。ちょっと考え事していただけです」

 ナマエの答えに、リヴァイは、そうか。と小さく呟いた。
 リヴァイの右目はもう何も写すことができない。その時受けた傷の縫い跡が二つ、顔を縦断している。一つは右目から口唇にかけて、もう一つはそれに並行するように右頬から顎にかけて。その縫い跡を見るたびに、ナマエの胸の奥底が疼くのを感じた。そしてその度に顔を出そうとする記憶に蓋をする。慣れたものだった。
 ガビとファルコに付き添われて買い物から家に戻ると、二人はこれから、この間に植えた木の様子を見に行くのだという。ナマエも一緒に行こうかと申し出ようとしたが、ファルコは二人で行きたいに違いない。年寄りはとっとと退散、ということで、二人にお駄賃のクッキーの包みを渡して、見送った。
 賑やかな二人がいなくなったことで一気に静寂に包まれると、リヴァイは玄関で車椅子から降り、松葉杖を使って家の中を歩き出した。
 リヴァイは右目の視力と、右手の人差し指と中指を無くし、左足の膝から下が動かない。外では車椅子を使って移動することが多いが、室内では主に松葉杖を使って移動している。曰く、室内に車輪の跡が付くのが嫌らしい。なんともリヴァイらしい理由だ。風呂や排泄もひとりで問題なく行えるため、そこまで日常に支障をきたすことなく生活をしている。
 ナマエも最初は何かと気を使って、甲斐甲斐しくリヴァイの身の回りのことをやろうとしたものだが、元来彼が人の助けを必要としない性分だということを知っているし、リヴァイからも、必要ねえ。とばっさり切り捨てられたため、今となっては特に気にせずに、必要な時だけ手助けをしている。
 ナマエは先ほど買ったものたちを収納し終えると、リビングで新聞を読んでいるリヴァイに声をかけた。

「兵長、お茶にしませんか」
「ああ」

 ナマエはカップとソーサーと、今日買ったクッキーをダイニングテーブルに並べる。その間にリヴァイは紅茶の準備をする。
 この家での二人の役割は大方決まっていて、今更言葉にするわけでもなく、それぞれ黙々と動く。相手の動きを予想して自分も動く、元調査兵団としては慣れたものだ。
 準備が完了して、ダイニングテーブルを挟んで向き合って座ると、ナマエはリヴァイの淹れた紅茶を一口含んだ。口の中にふんわりと芳醇な香りが広がって、安心感に包まれる。温かいこの紅茶はまるでリヴァイそのもののように思えた。
 正直味の違いが分かる方ではないが、自分が淹れた紅茶よりもリヴァイが淹れた紅茶の方が格段に美味しい、と分かるくらいには、リヴァイの淹れた紅茶は美味しい。
 昔はリヴァイに淹れてもらうなんて考えたこともなかったが、今ではそれが当たり前になっているのだから、不思議なものだ。
 刹那、ナマエの頭の中に懐かしい声が雪崩込んでくる。

『ナマエ聞いてよ、リヴァイってばさぁ』

 反射的にその記憶に蓋をした。ナマエはその声から逃げるようにティーカップを置いて、視線をティーカップに落としたまま、早口に言った

「知ってますか、ジャンってばまた髭も髪も伸ばし始めたんですよ。年頃の男の子って不思議ですよね。そう言う時期って言うんでしたっけ。ってことは、ファルコもそのうち伸ばしたりするんですかね。あ、でもガビがピシャッと言いそうですよね、似合ってないからやめなよって、ふふ」
「……違いねえな」 

 視線を上げれば、リヴァイは紅茶を飲んでいた。そのカップの持ち方は独特で、今更なんの違和感も抱かない。リヴァイは取っ手の部分を持たないで、カップ自体を手で持って飲むのだ。
 それからカップを置くと、まるで独り言のように言葉を零す。

「お前と過ごしてもうすぐ一年か」

 そうか、一年経つのか、とその年月を感慨深く思う。調査兵団で長い月日を共に過ごしてきたが、同じ班だったわけではないため、密度で言えばこの一年の方が断然濃いものとなっている。

「一年経つんですね」

 ナマエも呟きを落とす。もう一年か、まだ一年か、どちらともつかないものの、ナマエの思考は今日に至るまでの道のりをたどり始めた。

+++

 あれは、後に天と地の戦いと言われる戦いが終結を迎えたあとのことだった。
 パラディ島にいたナマエのもとに、ミカサがやってきた。その腕の中にはまるで眠っているかのような穏やかな表情のエレンの首があって、息を呑んだ。エレンが何をして、どうなったか。分かってはいたが、改めてその骸を見れば、込み上げてくるものがあった。
 しかし、感慨に耽る暇はないようだ。ミカサは、今すぐキヨミの船に乗ってマーレへ向かい、リヴァイ兵長のところへ行ってほしいと言った。
 それからミカサはキヨミの船が停泊している場所を伝えて、封筒を渡した。

「これはハンジさんからです。リヴァイ兵長から預かりました」

 瞬間、心臓が凍りついたような心地になり、呼吸が止まった。
 けれど今はそのことについて考えを巡らせるべきではないと判断した。そんなことをしたら、もう動けなくなると思ったからだ。
 その代わり、ミカサはこれからどうするの、と問う。するとミカサは、いつもエレンが居眠りをしていた丘の上の大樹の下に、エレンを埋めるのだと言った。エレンを見るその瞳は慈しみで満ちていた。
 そうか、ミカサはきちんとお別れができたんだ。辛かっただろうし、悲しかっただろう。でもきちんと自分で決めたのだと思った。

「いってらっしゃい」

 ナマエの言葉にミカサは、ナマエさんもいってらっしゃい、お元気で。と微笑んだ。
 それから簡単に荷物をまとめて、言われた通りの場所へ向かいキヨミと合流すると、船はマーレへと向かった。
 道中、キヨミは見てきたこと、体験したことを伝えてくれた。
 キヨミの乗っていた船は、最終決戦へと向かうファルコが巨人化したことによって大破した。今乗っている船は別の小型船で、被害を免れた地域に奇跡的に置いておいた船なのだという。
 そして戦いを終えたミカサをパラディ島に送り届けるためにここまでやってきて、そして今度はナマエをマーレへと送り届けてくれるらしかった。ヒィズル国がどうなったかはわからないが、キヨミだって大変だろうに、それでもミカサやナマエのために時間を使ってくれて、キヨミには頭が上がらない思いだった。もしこの機会を逃していたら、パラディ島からマーレへなんて絶対にいけなかっただろう。
 波をかき分け白い飛沫をあげながら船はマーレへ向かって進む。潮風に頬を撫でられながらも、今このときが現実なのか夢なのか、ナマエはわからなくなった。
 壁になっていた超大型巨人が動き出したのも、その巨人たちが大地を踏みしめていった幾つもの足跡も、全部全部見てきたのに、あまりに現実味がなさすぎて、悪い夢なのではないかと思ったのだ。
 こんなことをハンジが聞いたらどう思うだろうか。現実逃避してる場合じゃないよ、考えるんだ。と現実へと向き合わせてくれただろうか。
 そんなことを思って、慌ててその考えを振り払った。
 ハンジのことを考えると、いやでも目を背けたい現実と事実が押し寄せてくる。けれど今はまだ向き合いたくなかった。とにかくリヴァイに会う。そのことに集中して、それ以外を頭から排除して考えないようにした。
 だからミカサから渡された手紙はすぐに読むことができなくてずっと鞄の中に入れていた。けれど、到着を待つ以外やることのない船の中で、どうしてもそのことについて考えてしまって仕方がなかったので、ようやく覚悟を決めて、鞄から手紙を取り出した。
 震える手でハンジからの手紙を開いて、目を落とす。

◆◆◆

 ナマエへ

 この手紙を書いている時、ナマエはベッドで寝ていて、私は貴女を起こさないように、窓から差し込む微かな月明かりを頼りに手紙を書いています。急いで書いてるから、字が汚いことには目を瞑ってほしいな。

 ナマエ、ちゃんとご飯食べてる? 寝れてる?

 どんなに辛いことがあっても、その二つだけは絶対に忘れちゃいけないよ。なんて、しょっちゅうその二つを忘れていた私が言っても説得力ないね。

 もしも私の身に何かあった時はリヴァイのことを頼って欲しい。リヴァイならナマエのことを任せられる。知っての通り、彼はああ見えて面倒見がいいからね。

 こんな手紙、渡さないで済むことを祈っているけど、念のため書いておくよ。

 人類を守るため。それからナマエが心の底から笑って、誰にも蹂躙されることのない幸せな人生を送るために戦ったこと、誇りに思うよ。
 どうか幸せになることから逃げないで。約束だよ。
 それじゃあ、またね。

 ハンジ・ゾエ

◆◆◆

 心のどこかでは覚悟していた。あの日、家を出ていく背中を見送ったあの時から。いいや、きっとそれより前からずっと覚悟していた。
 だからだろうか、ナマエはこの手紙を読んでも、心が取り乱れることはなくて、寧ろ怖いくらい凪いでいた。
 そして理解した。

 ハンジはその命を使い果たしたのだと。

 けれど理解することと、受容することはまた別だ。理解すると同時に、心のどこかで扉が閉まるような音が聞こえた気がした。
 妙に冷静な一方で、頭が割れるように痛んで、何も考えたくなかった。まるで、受け入れることを身体が拒否しているようだった。
 もしかしたら、その最期を目の当たりにすれば、その事実を受容することもできたかもしれない。
 しかし、ナマエの知らないところでハンジはいなくなってしまった。
 だから実感が湧かないのだ。この世界のどこかにまだハンジがいる気がして。だって世界中を探したわけではないのだからもしかしたらいるのかもしれない。文末には、またね。と書いてあったのだから、またどこかで会えるはずではないか。
 それに、もらった手紙にはもしもの時のことが書いてあるだけで、ハンジが亡くなったなんてことは書いていない。ただ、ハンジが書いた手紙をリヴァイが持っていて、それをミカサに託して、ナマエのもとへと届いた。ナマエが知る事実はただそれだけだ。
 ハンジは命を使い果たしたのだと理解する一方で、まだ生きているのではないか、という相反する考えが頭の中でないまぜになり、とにかく頭の中が混沌としていた。
 それに、

『すべてが終わったら、伝えたいことがあるんだ』

 ハンジからまだ聞いていない言葉がある。
 だから−−−

 どんどんと深み嵌まっていく思考に気づいて、頭を振った。
 それからそれ以上考えることはやめて、ひたすら海原を眺めた。何も考えたくなかった。叶うことなら、目を瞑り、耳を塞いで、そのままゆっくりと消えてしまいたかった。

+++

 身体も心も疲れていることもあったため、思考を遮断するためにも眠りに就こうとするのだが、全く眠ることができなかった。休める内に休まなくてはいけないのに、目を閉じても余計な雑念ばかりが訪れて、心が蝕まれるようだった。パラディ島にいるときからもう暫くまともな睡眠をとれていない。
 そして限界が来ると殆んど気絶のような形で意識を手放して、すぐに目を覚ます。そんなことを繰り返していると、船はついに終末の大地と化したマーレへとやってきた。
 定規を使って真っ直ぐ線を引いたかのように、地慣らしで巨人に踏み潰されて平らになった場所と、被災を免れて建物が残る場所が分かれていて、地慣らしの恐ろしさを改めて思い知り、戦慄する。一体何人の人が巨人に踏み潰されたのだろうか。皆、痛い思いをしないで逝けたのだろうか。あの平らな大地には何か人がいた痕跡が残っているのだろうか。それとも、何も残らないくらい踏みしめられているのだろうか。そんなことを考えた。
 船を降りれば、ここでキヨミとはお別れだ。最後に礼を述べて、これから先の無事を祈り、まだ建物の残る地域へと歩き出した。
 そしてたくさんの導きのもとついにリヴァイと再会を果たした。彼は車椅子に乗っていた。

「よく……来た」

 リヴァイは本当に驚いたように目を瞠った。パラディ島からリヴァイのもとまで、正確な位置がわかるわけでもなしに、こうして巡り会えたのはたしかに奇跡のようなものだ。
 そしてリヴァイは視線を落として言う。

「すまねえ、本当は俺がパラディ島へ向かうべきだったが、こんなザマでな」

 自重気味に言ったその言葉にナマエは何もいえなかった。彼がどんな気持ちで今ここで生きているのか、考えるだけで胸が張り裂けそうだった。
 リヴァイは顔を上げて、言葉を続けた。
 
「お前のことはハンジから言われている。もっとも、俺がお前に世話になるかもしれねぇがな」

 “ハンジ”という言葉に、心がざわめき立ち、心臓がギュッと縮こまった。
 聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。何も聞きたくない。頼むから何も言わないで欲しい。
 そんな願いは届かず、リヴァイはややあって重い口を開くと、再びその名前を出した。

「……ハンジのことだが」
「やめてください!」

 ナマエは咄嗟に声を荒げていた。リヴァイは沈黙し、ナマエは唇を噛んだ。そうして二人は痛いくらいの静寂に包まれた。
 何も聞きたくなかった。聞いた瞬間、現実が容赦なく襲いかかってきて、足元からすべてが瓦解して二度と立ち上がることができなくなってしまう気がした。
 心を落ち着かせるために数回深呼吸を繰り返したのち、ナマエは口を開いた。

「……兵長、生きていてよかったです。よろしくお願いします」

 そしてナマエはリヴァイの住む家に一緒に住むことになった。
 家についてからは、リヴァイは様々なことを教えてくれた。

 −−−地鳴らしで、人口はそれまでの二割にまで減少した。生き残った人類は身を寄せ合って被害を免れた地域で暮らしていて、平らになってしまった大地を再び人が住めるような場所にするため、尽力している。
 アルミンたちは世界を救った英雄として、残った人類の中枢となって忙しく働いている。リヴァイも英雄の一人だが、曰く、ここから先は俺の役目ではないらしい。必要であれば勿論手助けするが、基本的にはこれからを担っていく若い世代が中心となって、リヴァイは必要な時があれば力添えをするとのこと。
 それからリヴァイが今住んでいるこの家は、オニャンコポンが手配してくれたという。
 そして、いつ来るか、そもそも来るかどうかもわからないナマエのために、リヴァイはわざわざ個室を用意してくれていた。部屋を見ると、ベッドがあり、テーブルと椅子があり、クローゼットもある。生活に必要なものは大方揃っている上に、埃ひとつなかった。今日からここがナマエの部屋だ。

「ひとまず風呂に入って小綺麗にして、ゆっくり休め」

 お言葉に甘えさせてもらって、久しぶりに湯船に浸かり、身体の汚れを落とした。暖かい湯に浸かると、身体の疲労が少しずつ癒えていくのを感じた。風呂から出た頃には日が暮れていて、家の中には電気を使った明かりが灯っていた。ボタンを押すと、点いたり消えたりするらしい。そしていい匂いが鼻腔を掠めて、急速に空腹感に苛まれた。見ればキッチンで器用に料理をしているリヴァイの姿があった。手伝いを申し出れば、次から頼むから座っていろと言われて、ナマエは大人しく従った。
 リヴァイが作ってくれた温かい食事を食べると、不意に微睡みが押し寄せてきた。リヴァイと会えて安心して、風呂に入り、食事を摂って空腹も満たされたからだろうか、漸くまともに眠れるのかもしれない。
 食後の紅茶までいただいたのちに部屋に行き、ベッドにゆっくりと身体を横たえて目を瞑り、微睡みに身を任せ始める。うつらうつらと意識が沈んでいく中で、不意にどこからともなく温かい記憶が波のように押し寄せてきた。

『おやすみ、ナマエ』
『この報告書書き終わったら寝るから、先に寝てて』
『明日の壁外調査も絶対に私から離れてはダメだよ』
『なんだか疲れたよ、ナマエ』

 慌てて身体を起こして、両手で顔を覆った。心臓が早鐘を打って、息が苦しい。気持ちを落ち着かせるために大きく深呼吸を繰り返して、再び身体を横たえた。
 それから再び寝ようと試みても、やってくるのは安らかな眠りではなく、ハンジとの記憶の数々だった。
 やはり駄目だ。一人になると嫌でも考えてしまう。ハンジがいたことを。そして今、ハンジがいないことを。
 悩んだ末、藁にもすがる思いでナマエはリヴァイの部屋へと赴くと、リヴァイはベッドの上で本を読んでいた。どうした、と尋ねたリヴァイに、無礼を承知でお願いした。

「兵長、一緒に寝てもいいですか」

 兵長は珍しく戸惑っていたが、ややあって「構わねえ」と承諾してくれた。
 平時の自分であれば、付き合っているわけでもない、なんなら人類最強と称された元上官の男性と同じベッドに寝ることなんて、考えられないことだ。しかし今は平時ではない。終末の大地の片隅で、全てを忘れて誰かと身を寄せ合いたかった。
 同じベッドでリヴァイの存在を感じていると、張り詰めていた糸がゆっくりと弛緩していくのを感じた。

「手を握ってもいいですか」

 誰かの温度に縋って、それに溺れたかった。

「好きにしろ」

 そう言ってリヴァイはナマエの手を握った。初めて触ったリヴァイの手は冷たかったけれど、微睡みへと連れて行ってくれる心地よさがあった。このまま眠りについて、もう二度と目が覚めなければいいのにと願った。

 その日は夢も見ず、泥のように眠った。

 翌日も、その翌日も、ひとりで部屋にいると記憶の渦に飲み込まれて息ができなくなりそうになったので、リヴァイの部屋を訪れて、手を握って一緒に寝させてもらった。そうすると、ハンジのことを考えずに寝ることができた。
 そうしていつしか、一緒に寝ることが当たり前になっていった。
 一緒に暮らし始めて暫く経ったある日、朝食を食べているときだった。リヴァイの三白眼にじいっと見つめられていることに気づいて顔を上げると、リヴァイは静かに言った。

「だいぶ顔色が良くなってきたみてぇだな」
「顔色……悪かったんですか」

 自覚がなくて、思わず聞き返す。そもそもここ最近、自分のことを鏡で見たのがいつだったか思い出せないくらい、自分のことに無頓着だった気がする。

「ここで初めて会ったとき、クソが詰まって仕方ねぇ顔をしてた」

 リヴァイらしい物言いに、思わず抜けるように笑う。そのとき、いやに顔の筋肉が強張っていることに気づいた。そこではたと気づき、それを言葉にする。

「久々に笑った気がします」

 思えば暫く、顔の筋肉を使ってこなかった気がした。ただ生きて、その日が過ぎるのを待って、現実に耐えて、生きているのか死んでいるのかもわからない屍のように日々を生きていた。リヴァイに言われなければ、そんな事も気づけないでいた。
 パラディ島を抜け出して、リヴァイのもとにやってきてよかった、と改めて思った。あの島には思い出がありすぎて、ひとりでいたらその思い出たちに飲み込まれていつか息ができなくなっていただろう。

「調子が出てきたなら、身体を動かすか」

 リヴァイの言葉に対して深く考えることなく頷いて、そして後悔した。

「なってねぇ」

 リヴァイは松葉杖をついて窓辺まで移動すると窓枠に指を這わせて、わずかに付着した埃を見て低い声で言った。リヴァイの表情はいつもより三割増して険しくて、場違いながら懐かしさすら感じた。
 てっきり、身体を動かすと言うものだから、外で仕事をするのかと思っていた。平らになってしまった大地を元に戻すため、瓦礫を撤去したり、木を植えたり、畑を耕したりしていると聞いたから、そちらで思う存分汗を流せと言うことかと思っていたが、今回はそうではなく、家の掃除をしよう、ということだった。身体を動かすのはまずそこかららしい。
 そして今更ながら思い出す。リヴァイの潔癖症ぶりを。

「お前、掃除舐めてんのか」
「舐めてません!」

 思わず心臓を捧げかけた。
 それからリヴァイの手となり足となり掃除を完遂し、やっと合格点を貰うと、外での仕事をやらせてもらえることになった。リヴァイに連れられて、ガビやファルコと共に荒れ果てた土地を少しずつ元通りにしていく作業に従事し、家では掃除をみっちり扱かれて、とにかく夢中で身体を動かした。何かやることがあると言うのは、考え込む暇を与えないので好都合だった。
 そうして共に過ごす日々の中でナマエは一度もハンジのことを話さないし、リヴァイも話さなかった。どこかで根回しをしたのだろうか、ナマエが顔を合わせる面々も皆揃ってハンジの話をしなかった。
 それなのに時折、ナマエの頭にはハンジのことが浮かんだ。日常の些細な瞬間、ナマエの意志とは関係なく、顔や声、思い出がふとした瞬間に現れて、ナマエの頭の中で邂逅を果たすのだ。そのたびに、心の均衡を保つためそのすべてに蓋をする。
 不健全なことだとは分かっていた。いつかはきちんと向き合わなければいけないことも分かっていた。けれどそれは今ではないと先延ばしにし続けていた。
 どうして自分は生きているのだろう。
 どうして自分が生きているのだろう。
 ハンジに会いたい。そのためならなんでもする。命だって惜しくない。

 そして一年経った今もまだ受け入れられずにいる。

+++

「心の整理はついたか」

 長い沈黙の末、リヴァイがナマエをじっと見据えて問うた。主語はないけれど、勿論あのことに決まっていて。だとしたら答えはずっと変わらない。

「……いいえ」
「そうか」

 あの日あの時、ミカサと会った時から時間が止まってしまったようだ。どこへも進めず、ただじっと息を潜めて何かに耐えるように生きる日々。
 けれど、それで良かった。
 目を閉じて、耳を塞いで、何も見ず、何も聞かず、すべてを遮断する。何も感じず、何も思い出さず、何も認めない。

 もう、放っておいてほしい。このまま消えてしまいたい。
 そんな気持ちが通じたのか、それからリヴァイがその話題を出すことはなかった。

 それから二年の月日が経った。

2023-11-07