IF 箱庭の片隅で悼む 後編

 ミカサがやってきたあの日からずっと、目を閉じて、耳を塞いで生きてきた。三年経ち、リヴァイにこじ開けられて、目を凝らし、耳を澄ませてみれば、日常の至る所で記憶の中のハンジと邂逅を果たした。今はもう蓋をすることなんてしないで、ナマエの中で生きるハンジを慈しむことができる。泣いてしまうこともあるけれど、いつもリヴァイが傍にいてくれて、お互いに記憶を持ち寄って懐かしみ、最後には笑顔になれた。
 先の見えない真っ暗闇だと思っていたのは目を瞑っていたからで、本当はずっと前からリヴァイは目の前で種火を抱えて待ってくれていた。そんなことにも気づかずに、全てを拒絶して蹲ったまま三年も経ってしまった。
 どうしてもっと早くこうなることができなかったのだろうと今となっては悔やまれるが、きっとすべて必要な時間だったのだろうとも思う。
 不幸は比べるものではないが、リヴァイだってたくさんの仲間を、部下を失い、自分たちのために命を燃やしたハンジの最期を見届け、更には身体に深い傷まで負って、生き残った。一体どれほどの嘆きと後悔を繰り返したのだろうか、と考えるだけで胸が張り裂けそうな思いになる。しかし彼のそんな姿も素振りも、今までひとかけらも見ていない。きっと自分のことよりも、ナマエのことに心を砕いてくれたからだ。もっと自分がしっかりとしていて現実を受け入れていれば、彼のことを支えられることができたかもしれないのに。そう後悔しても、すべてはもう遅い。ナマエにとっては必要な三年だったが、彼にとっては大切な三年間をふいにしたも同然だった。
 だからこそナマエは、リヴァイには自由になって欲しいと強く願った。これ以上ナマエに縛られることはないはずだ。
 あれからも相変わらず夜寝るときは同じベッドだが、手を繋がなくても寝られるようになっていた。だから最近はもう手を繋いでその体温を感じることはない。正直言えば、三年間ずっと感じていた体温に触れられないのはとても寂しいし、違和感すら感じるが、そうやって自分を少しずつ自立させていった。
 お互いの熱を確かめるようにまぐわったのは、リヴァイの宣言した通りただの一度あの晩だけで、それからはそんな匂いを微塵も感じさせないそれまで通りただの同居人として過ごしている。まるであの夜の出来事自体が夢や幻のようだった。
 そんな日々が一月ほど続いて、ようやくナマエは決心を固めた。大丈夫、きっと一人で歩けるはずだ。まだすべての準備は整っていないが、決心が濁らないうちに伝えてしまおうと思った。
 寝る準備を全て済ませて二人で寝室へ向かい、ベッドに身体を乗せて座り込むと、意を決したナマエは身体ごとリヴァイに向き合って、緊張で乾いた喉で話を切り出した。

「リヴァイさん、お話があります」
「なんだ」

 切れ長の涼しい瞳がナマエを見遣る。緊張をいなすために無意識に握った拳にじんわりと汗が滲むのを感じながら、ナマエは生唾を飲み込み、唇を開いた。

「わたしのこと諦めないでくれてありがとうございました。わたしはもう大丈夫です。なのでリヴァイさんが生きたいように生きてください」
「……あ?」

 リヴァイは訳がわからないと言ったように顔を顰めた。確かに、急いた感は否めないし、突然そのようなことを言われても困惑するだろう、と言いたいことを言って幾分冷静になった頭で考える。ナマエはもう一度、言葉を変えてリヴァイに伝える。

「リヴァイさんはもうわたしに囚われなくっていいんです。三年もの間わたしはリヴァイさんを縛り付けてしまいました。わたし、地に足ついてひとりで頑張って生きていこうと思ってます。だから住むあてを見つけたら出ていきます。とってもお世話になりました」
「オイオイオイオイ。待て、どうしてそうなった」
「どうしてって……それが当然の流れかなって思いまして……え……?」

 リヴァイは益々困惑し、それがナマエにまで伝播する。ナマエとしては、一緒にいてはリヴァイの自由を制約してしまうと思ったのだ。このままでは恋人を探すことも、人生の伴侶を見つけることも、パラディ島に帰ることだってできない。(尤も、帰るつもりはないだろうが)
 リヴァイと離れることが寂しくないかと言われれば嘘になる。叶うのならばこれから先も一緒にいたい。だがこれ以上迷惑をかけることはできないし、己の中に決して忘れることのできない人がいるのだから、そんな状態で一緒にいるのも不誠実だと思った。だから、お別れを口にしたのだ。
 リヴァイは困惑をそのままに口を開いた。

「お前はなにか勘違いしていやがる。俺がいつ、縛られていたなんて言った」
「言われてないですけど……そういうのって、思ってても言えないものかと」

 口や態度は粗暴だが、本当はとても優しい人だということをナマエはよく分かっている。そんなリヴァイが自分からナマエのことを切り捨てられるわけがない。だから自ら切り捨てられにきたのだ。
 対するリヴァイは座学ビリの物分りの悪い生徒を見るような目でナマエを見て、教えを説くように言った。

「俺が言ったことを忘れちまったのか。俺は、お前と生きていきたいと言ったんだ。お前というのはナマエ・ミョウジ、いま俺の横にいる女だ」

 救いようのない馬鹿に物を教えているような丁寧な説明はひとまず置いておいて、確かにそういった。そしてその言葉に救われて、今がある。
 ナマエが小さく頷けば、リヴァイは静かに言葉を続けた。

「それなのにどうして俺がお前から離れなきゃならねぇ。お前が離れたいって言うのなら分かるが。それともあれはその場の雰囲気に合わせた社交辞令だとでも思ったか」

 言葉に詰まった。まさにリヴァイの言った通り、社交辞令だと思っていたからだ。そしてそれは表情でリヴァイに伝わったらしく、舌打ちをするとナマエの左手を取って、その感触を確かめるよう握りしめた。リヴァイの冷たい左手に僅かに意識を取られながらも、久しぶりに聞いたリヴァイの舌打ちは、場違いながら懐かしさすら感じるものだった。

「俺がハンジとの約束を果たすためだけにお前のそばにいるとでも思ってたのか。それだったら近くに住んでたまに様子を見るだけでも充分だ。だが俺は一緒に住んで、同じベッドで手を繋いで、たまに抱きつかれながら寝て、違うものを食べていれば分け合う。なぜだと思う」

 たまに抱きついているというのは初耳だ。このタイミングで暴露されて心臓が飛び跳ねたが、ナマエの喉はまるで声の出し方を忘れてしまったかのように震わせることができなかったし、リヴァイの問いに対して考えを巡らせることすらできなかった。
 リヴァイの手は冷たいのに、触れられた部分は火傷しそうなほど熱い。
 やがてリヴァイの低くて静かな声が、ナマエの耳をくすぐって、沁み込んでいく。

「全部、お前だからだ」

 不覚にも胸が深く脈打ち喜びに打ち震えるのを感じた。リヴァイを自分から解放するために話を切り出したというのに、どうしてこんなことになっているのだろうか。

「だから、悪くねぇと思った。確かに始まりはアイツとの約束だ。だがそれとは別で、俺は俺の意志で、残りの人生をナマエと生きていきたいと思っている」

 リヴァイの言葉が鼓膜を通じて心臓に到達し、胸が熱くなって鼻の奥がツンとなる。正直に言えば、リヴァイがそんな事を考えていたなんて全く気づかなかった。ハンジに頼まれたからただ一緒にいてくれるだけだと思っていた。それなのに、そのように思ってくれて、とても幸せだと思う傍らで、チクリと針が刺さったような痛みを感じた。
 頭に浮かんだのは、ハンジだった。
 ナマエのなかにはやっぱりハンジがいて、きっとこれからもずっとナマエの真ん中の一番深くて大切なところに居続ける。まさに、ナマエの全てだ。だからハンジを忘れて誰かと生きていくことが想像できないのだ。忘れようとすればするほどその姿は色濃くなり、愛しき想いが胸をつき、忘れたくないと叫ぶ。だからこの胸の中で生きているハンジのことを忘れられるとは思えなかった。
 そんなナマエに誠心誠意向き合ってくれているリヴァイだからこそ、今思ってること全部を正確に伝えられるかわからないが、きちんと伝えたいと思った。ややあって口を開く。

「……なんて言えばいいのかわからないんですけど、わたしの中にはまだハンジさんがいるんです。多分、これから先もずっと忘れることなんてできなくて……あ、前は向いてるんです。もう前みたいに閉じこもってるつもりはありません。でも、ハンジさんが心の中にいるままで、また誰かを好きになることが想像できないんです」

 リヴァイに握られた手を握り返して、その感覚を頼りにまとまりのない感情を言葉にして放つ。拙い言葉だが、今の自分の中にある紛うことなき本心だ。ナマエの思い描いていた未来の地図にはすべてハンジがいて、もう会えることはないとわかっていても、その地図を他の誰かと隣にいるものに書き換えることなんてできなかった。もしかしたらいつかはハンジのことを乗り越えて、他の誰かを想うこともできるかもしれない。しかし、それは今ではないし、いつになるかもわからない。もしかしたらいつまでもハンジのことを想ってその生涯を終えるかもしれない。それはそれで構わないと思っていた。
 だがリヴァイは、そんなことはとっくにお見通しだと言わんばかりに薄っすらと微笑んだ。

「別に俺のことを好きになれなんざ思ってないし、お前の中にハンジがいるのは勿論分かってる。お前の中にはこれから先もずっとハンジがいて、おそらく一生、俺がそれを超えることはない。それも分かってる。だがそんなナマエだからこそ俺は一緒にいたいと思った」

 ハンジを忘れられないナマエだからこそリヴァイは一緒にいたいと言うならば、ハンジを忘れたナマエだったら一緒にいようとは思わなかったということだ。ナマエにはうまく理解できなかったが、リヴァイはすべてを受け入れた上で一緒にいたいと言ってくれているということだろうか。好きにならなくてもいい、と。それでリヴァイは、本当にいいのだろうか。
 そう考えると、調査兵団時代からずっと知っていて、三年も一緒に住んでいたというのに、ナマエはリヴァイのことをまるで理解できていなかったということに今更ながら気づいた。
 戸惑いをそのままにリヴァイを見る。リヴァイの表情はいつも通りで、何も読み取ることはできない。繋がれたリヴァイの手はいつの間にか、まるで体温を分け合ったかのように同じ温度になっていた。
 そしてナマエの思考は、己の中に深く根付いているハンジへと向かう。ナマエはまだハンジから聞いていない言葉があった。すべてが終わったら伝えたいことがあると言って、その結果、ハンジは還らぬ人となった。今となってはその言葉を知る手立てはない。その代わり、様々な人の手を渡って、ハンジの遺した手紙が届いた。

 ―――どうか幸せになることから逃げないで。約束だよ。

 一度しか目を通していないにも関わらず、ハンジからの手紙の一節は鮮やかに蘇る。
 自分は今、幸せになることから逃げようとしているのだろうか。それを見越してあの一節を残したのだろうか。
 もし、こうなることを予想して残したというのならば、一体どこまで見通していたのだろうか。改めて、亡き恋人はいつだってナマエではおおよそ見ることの出来ない遥か先のことを見据えていたのだと思い知る。

 ―――わたしの幸せが、望んでいる未来が、なんなのかまだわからない。でもハンジさんの望んだ未来が手紙に記された通りなのだとしたら、わたしは……

 リヴァイから示された、考えたこともなかった選択肢の輪郭が明確に浮かび上がり、戸惑いながらもそれを口にしていく。

「ハンジさんのことを忘れられないわたしと、一緒にいてくれるんですか……?」

 そしてそのまま、偽りのない自分の気持ちを言の葉に乗せて連ねていく。

「わたし、リヴァイさんと離れたくないって気持ちもあるんです。ハンジさんのこと忘れることなんてできないけど、もしリヴァイさんと一緒にいられるのならば、一緒にいたい。すごく自分勝手ですけど……。それにわたし、自分がリヴァイさんをどんな風に思っているのか、どうして一緒にいたいって思ってるのか、自分の気持ちがよくわからないんです。それでも、いいんですか」

 リヴァイへ抱く気持ちの正体は分からないが一緒にいたい、だなんて、口にしてみればその自分勝手さを改めて実感して、自分で辟易する。しかしこれが嘘偽りのない自分の気持ちだ。
 次の瞬間にリヴァイが言った言葉に息を呑んだ。

「分からないことがあるなら、分かればいい。そうだろ」

 刹那、驚くほど鮮烈にハンジの姿と声で頭の中で再生されて、胸がつかれる。思わず笑みがこぼれてしまうほどに、その言葉はあまりにもハンジそのものを表すかのような言葉だ。先が見えなくて苦しいとき、ハンジはいつもそう言っていた。
 本当に、そのとおりだと思った。そうやって今まで生きてきたのに、なぜ思い至らなかったのだろうか。その結果がたとえ望まないものだったとしても、真実を求めることを忘れてはいけない。それが調査兵団だ。なんだかリヴァイには気づかせてもらってばかりだ。
 自分の中にある感情の正体が分からないのならば、分かろうと努力すればいいのだ。そんなことも忘れていた。

「……そうですね。ハンジさんがここにいたらきっとそう言っています」

 視線を繋がれた左手に落として、胸の内に問いかける。

 ―――ハンジさん。リヴァイさんが、ハンジさんを忘れられないわたしと一緒に生きていきたいと言ってくれました。わたし、リヴァイさんと一緒に生きてもいいですか。一緒にいて、この感情の正体を突き止めてもいいですか。

 すると、ナマエの記憶の中の自由の翼を背負ったハンジがニッと笑う。

『当たり前だろう。リヴァイになら任せられるよ。うんと我儘を言ってごらん。きっと舌打ちするけど、なんだかんだで付き合ってくれるからさ』

 ナマエは顔を上げてリヴァイを見る。

 ―――そうかもしれませんね、ハンジさん。

 そしてリヴァイは凪いだ水面のような穏やかな声で告げた。

「ナマエの中にいるハンジごと、まるごと俺に預けろ。ここから先の人生、俺を選んだことを後悔させない」

 ほとんどプロポーズのような言葉に、心臓がぎゅっと縮こまる。「まあ幸せかどうかは分からねえがな」と口許を僅かに上げてリヴァイは続けた。
 その言葉に導かれるように、今まで過ごしてきた日々を思い返していた。
 思い返せば、いつだってリヴァイが支えてくれていた。それなのに自分はずっと自分の殻に閉じこもって、何も見ていなかった。
 潔癖症(と言ったらリヴァイは、潔癖症じゃねぇと否定するだろうが)まがいのリヴァイが人の食べたものを口に含むことは、よく考えれば奇跡みたいな出来事ではないか。キスをして、身体を交えたのも、特別な相手だと思ってくれたからではないか。そして自分も、すべてリヴァイだったからいいと思ったのではないか。
 三年間も待ってくれたのも、全てを拒絶しようとするナマエを受け止めてくれたのも、明るい方へ導いてくれたのも、全部全部リヴァイだ。愚かな自分は、ようやくそこに散りばめられていた思いに気付いた。
 振り返れば、ずっとリヴァイは行動で示してくれていたのに、どうして今まで気づかなかったのだろうと悔やむ。改めてこの三年間は、何も感じることなくただただ生きていただけなのだと思い知った。今はただ彼と過ごした日々のひとつひとつが堪らなく愛おしい。幸せかどうか分からない、なんて彼は言ったが、これまで一緒に歩んできた三年間は、確かに幸せだったと断言できる。
 気がつけば止めどなく瞳から雫がこぼれ落ちていた。

「いいん……ですか……」

 こんな自分と一緒に生きてくれると言ってくれている。ハンジを忘れられないままのナマエを預けろと言ってくれている。リヴァイへ抱く気持ちの正体はわからないけれど、少なくとも一緒にいたいと思っていることは確かだ。
 ナマエの問いかけにリヴァイは微笑みで応じ、ずっと握っていたナマエの左手を改めて下から掬い上げて、ナマエの瞳をじっと見つめた。

「残りの人生、俺と一緒に生きてくれないか」

 様々な感情が一挙に込み上げてきて、止まることを知らない涙が零れ続ける。
 時間がかかったが、これから少しずつ前へ進んで、時には振り返って、ハンジのいない世界を歯を食いしばって生きていく。それを見守って、時には手を差し出して、一緒に歩いてくれる人がいる。なんと幸せなことなのだろうか。
 初めてリヴァイと出会った日から今日に至るまでの全ての出来事は、今日この時、リヴァイに左手を取ってもらうためにあったのかもしれない。そう思った。
 今、ナマエの気持ちはひとつだ。
 
「……はい、よろしくお願いします」

 ハンジが繋いでくれた時間を大切に生きていく。リヴァイと二人、手を取り合って。
 リヴァイはナマエの返事を聞くと、左手薬指にキスを落とした。
 描いていた未来とは違うけど、彼とだったら新しい未来を描けるかもしれない。そんな希望が薬指から流れ込んできた気がした。

+++

 夜は更けているものの、すっかり寝る雰囲気ではなくなってしまったので、二人はリビングに戻って紅茶を飲むことにした。いつも通り互いの役割をこなしながら夜のティータイムの準備を進める。いつもはダイニングテーブルを囲って飲むが、今回はリビングに備えているソファに並んで座って飲むことにした。なんとなく、隣に座りたかったからだ。ナマエはいつも通り、彼の左側に座る。
 リヴァイのチョイスはハーブが香り立つ紅茶だった。曰く、リラックス効果や安眠作用があるらしい。まずは香りを楽しみ、それから一口飲む。紅茶が身体を内側から温めてくれて、ほっと息をついた。

「リヴァイさんの淹れる紅茶がこれからも飲めるなんて幸せです」
「いつから出てくなんて考えていやがった」

 ティーカップをテーブルに置いて考えを巡らせる。

「ええと……あの日からです、あの日っていうのは、その、あれをした次の日です……」

 言い淀むものの、あの日がどの日を指すのかは伝わったらしい。リヴァイは「あぁ」と納得したように言い、

「だからあれから手を繋がずに寝てたのか」
「……その通りです」
「それじゃあもうその必要はねぇな」
「ですね」

 リヴァイはナマエの手を絡め取って、ぎゅっと握りしめた。今握られているのは手なのに、まるで心臓を握られているように締め付けられた。
 と、ふと浮かんできた疑問を口にする。

「わたしたちの関係って一体なんなんでしょうか」
「さあな」

 同居人、恋人、婚約者、パートナー、どれにも当て嵌まるようで、その実どれにも当て嵌まらないような気がした。だが今は、関係性を示す名詞も、自分がリヴァイへ対して抱いている気持ちの名前もどうでもよくて、この世界の片隅で二人、手を取り合って生きていくことが大切なのだと思った。

「でもまさか、リヴァイさんと一緒になるなんて、昔の自分では考えられませんでした」

 調査兵団がまだ壁外調査をしていた時代の自分からすれば、まさか人類最強と人生を共にするなんて思いもしなかったし、そもそも描いていた未来はすべてハンジとのものだった。けれど今、リヴァイが隣にいて、手を繋いで、同じ方向を見ている。

「エルヴィンだって想像もしなかっただろうよ」
「ふふ、確かに」

 懐かしい名前に目を細めた。これからもきっと、たまに故人を思い出して、その思い出を二人で手のひらに乗せて眺めて、時に偲ぶのだろう。そうする限り、二人の中で彼らは生き続ける。そしてそれは生きている人にしかできない。
 と、そこで、彼にずっと謝りたかったことが、水沫のように頭の中に浮かんできた。ナマエは繋がれている手に僅かに力が入るのを感じつつ、懺悔に似たことを口にしていく。

「……リヴァイさんも辛かったのに、わたしのことばっかり心配させてしまって本当に申し訳なかったです。わたしは自分のことしか考えてなくて、リヴァイさんの色んな気持ちを感じ取ることができませんでした。自分ばっかり辛いみたいな行動ばっかして……本当に、自分が情けないです」
「それは違う」

 やけにきっぱりと言い放ったので思わず彼を見れば、リヴァイもこちらを見た。そして言葉を続ける。

「お前がいたから、俺は立ち上がれた。俺は……奴を仕留めることだけを考えていた。そしてそれが果たせた後のことはもうどうだってよかった。ところがどうやらあの人使いの荒いクソメガネは俺を休ませる気はなかったらしい」

 久しぶりに聞いた“クソメガネ”という呼び名は、午後に降り注ぐ温かな日差しのような穏やかで優しい響きだった。ナマエは自然と口角が上がって、リヴァイの言葉の続きを待った。

「……ミカサに手紙を託して、怪我の治療やらリハビリやら生活の基盤づくりやらをしていたら、気丈に見えて放っておいたら今にも死んじまいそうな奴が現れた。それからはとにかくお前のことを考えていたら、もういい意味でどうでもよくなった。俺は生きていて、これから先もこうやって生きていく、ただそれだけだ」

 ずっと燻っていた後悔がすべて昇華していくような気持ちになった。と同時に、深い感謝の念が胸いっぱいに広がって暖かくなる。リヴァイには沢山迷惑をかけて、一生かかっても足りないくらいの恩を受けた。これからの日々の中で、少しずつリヴァイに返していきたいと改めて思う。
 ―――ねえ、ハンジさん。ハンジさんにはやっぱり、全部お見通しだったんですね。

「頼りないですが、これからはわたしも一緒に悩ませてください。何でも分けっこです」
「そうだな。頼りにしてる」

 ふっとリヴァイが笑う。それだけで、この決断は正しかったのだと思った。
 そもそも、人生を分かつための話を切り出したのに、真逆と言っても差し支えない結論に至った。人生とは不思議なものだとつくづく思う。

「さようならをするためにお話を切り出したのに、今は隣で手を繋いでて、なんだか不思議ですね」
「お前が急に変なことを言うから何の用意もしてなかったじゃねぇか」
「なにか用意してくれる予定だったんですか」

 仏頂面の下で色々なことを考えてくれていたことを思い知らされて、心臓がくすぐったい。

「まぁな」
「その代用として左手薬指にキスを―――いっ!!」

 どこからともなく現れたリヴァイの右手の残った三本の指すべてで頬をつねられて堪らず声を上げる。リヴァイの目は、それ以上何も言うんじゃねぇ、と言っているようだった。元人類最強につねられる頬は結構痛いが、口元が緩んでしまう。
 だって、嬉しかったのだ。何かを用意してくれようとしてくれたことも、まるで誓いを立てるように薬指にキスを落としてくれたことも、全部全部。リヴァイがそんなことを考えてくれたなんて夢にも思わなかったから。

「何をニヤけてやがる」
「だっふぇ……ほっふぇはなひてくだはい」

 指が離されたので、パワハラですよ……と恨みがましく言えば、俺はお前の上司じゃねぇ、と突っぱねられる。すると先程つねられたところに、リヴァイが唇を押し付けた。思わず息が止まる。

「……嫌か」

 低く、僅かに掠れた声で問われる。
 嫌ではない、と思った。だから首を横に振る。リヴァイは「そうか」と言い、

「少しずつ確かめていけばいい。アイツらが迎えに来るにはまだ時間がかかるだろうからな」
「……はい」

 沢山の調査兵の命が襷のように繋がれて、最後にハンジから託されたこの襷がリヴァイに手渡された。皆が紡いだ命の果てに、残された時間がある。もう二度と、この時間を無駄になんてしないと誓う。リヴァイと二人、一秒一秒を愛おしみながら大切に生きていくのだ。
 リヴァイはそのまま唇をナマエの耳元へとやって、低い声で囁いた。

「キスはしてもいいか」

 その問いに、なぜだか先日の情事で彼の身体動きに合わせて揺れる彼の黒い髪が断片的に思い返されて、心臓がどきりと飛び跳ねる。しかしそれはおくびにも出さず、小さく言う。

「今、したじゃないですか……」
「唇だ」
「……どうぞ」

 顔をリヴァイの方へ向ければ、彼はゆっくりと近づいて、あの日ぶりに二人の唇が重なった。
 ぴたりと重なった唇を伝って、温かい何かが身体中に行き渡って満たされていくのを感じた。瞳から透明な雫が零れ落ちる。生きていてよかった、と心の底から思った。
 
+++

 残された人類は、地鳴らしで受けた傷を癒やしていくために、何もなくなってしまった大地に木を植えて、人の生活できる場所をつくり、少しずつ復興に向けて尽力している。木が成長していき枝葉をつけるように、人類も少しずつ立ち直っていくのだろう。
 けれど、その景色の中をどれだけ目を凝らして探しても、そこにあなたの姿はない。そうわかっていても、きっとあなたの姿を、声を、植えた木が木陰を作るような年月の果てにも探してしまうのだろう。
 それでもそんな自分を丸ごと受け止めてくれる人が隣にいてくれる。本当に、感謝でいっぱいだ。
 いつの日かあなたと再会したときに胸を張ってお話ができるように、『よく頑張ったね』と褒めてもらえるように、あなたが繋いでくれた今日という日を、一生懸命生きていく。
 人を愛する喜びも、愛される幸せも、身が張り裂けるような喪失の痛みも、そしてその痛みを乗り越える強さも、すべてあなたが教えてくれた。だから、これから先もきっと色々なことを乗り越えていける。
 それでもやっぱり時には躓いてしまうこともあるだろう。そんな時、隣で支えてくれる人がいる。今の自分にとって何よりも大切で、かけがえのない存在だ。たまに怒られるし、舌打ちもされるけれど、なんだかんだで優しくて、導いてくれる。こんな大切な人にはもう二度と巡り会えないだろう。
 愛には色々な形があるというけれど、きっとこの感情も数ある愛の形のひとつなのだと思う。だからきっと自分は、共に生き、支えてくれる彼のことを心の底から愛している。
 この箱庭のような世界の片隅で、あなたを悼む。愛する人と二人で。

◆◆◆
ひたすら暗いのが続いたお話をお読みいただきありがとうございました。そのうち続きを書けたらいいなと思いつつ、傷だらけの二人のお話はひとまずは完結です!

2023-11-25