35.夢と現実の狭間

 ふと、女性がナマエの前に現れた。その女性の姿を見た途端、ナマエは驚愕に息を呑んだ。女性は、自分自身だった。はじめて自分を、何も介さずに自分の目で見たが、このような姿をしていたのか、と場違いながら少し感心した。
 というかここはどこなのだろう。時間からも空間からも切り離されたようなところだった。自分と目の前の“ナマエ”以外何も存在しなかった。

「わたしは……」

 ナマエに対峙した”ナマエ”の瞳は、悲しみに沈んでいるように思えた。

「わたしは、誰も救えない」

 その口から発せられた言葉に、ナマエは一気に絶望の深淵に引きずり込まれた。胸に突き刺さった鋭利なナイフのような言葉せいで、呼吸が乱れる。嫌な汗が背中を伝う。

「誰一人も、救えないの」

 もうやめて!! 言ってしまいたかった。“ナマエ”の言葉はナマエの心の奥底に閉じ込めていた暗い気持ちを無理矢理こじ開ける。
 間違いない、これは自分だ。自分の心の闇を知っているのは自分しかいない。拒絶の言葉は喉までやってきて、今にも出て行きそうになるのだが、なかなか声に出せない。まるで“ナマエ”の視線のせいで石にされてしまったかのように、身体が動かなくなる。

「わたしはいつでも傍観しているだけ」
「やめて……!」
「ルーベンスさんも、エメロードも、目の前で死んでしまった」
「うるさい…っ」

 やっとこさ絞りでた声はひどく力なく、哀れであった。けれども、今にも崩れてしまいそうなナマエに意を介さずに“ナマエ”の心をかき乱す言葉は止まらない。

「だけど、もしもサンドラがアレクサンドルが、アレックスさんだったとしたら、わたしはきっと許してしまう」
「いや……! うるさい!!」
「だって、彼が好きだから」
「うるさいうるさい!」
「けどそのアレクサンドルは、蛍姫さまを愛している」
「だったらどうしたっていうの?!」
「わたしが、蛍姫さまだったらいいのに」
「違う! わたしは、わたしでいいの! アレックスさんが好きなわたしでいいの!!」

 頭を抱えてしゃがみこむ。もう何も“ナマエ”から聞きたくない。こいつはなんなのだ。なぜ心を引きちぎるようなことを言うのだ。アレックスからの愛されようなんてまるでお門違いな話しだ。ただの一方的な片思い。そりゃあ好きになってほしい。振り向いてほしい。けれどそれはアレックス。アレクサンドルは、別人。

「でも、アレックスさんとアレクサンドルは同じ人でしょう?」

 にこり、“ナマエ”の口角がゆっくりと上げられた。

「何を、言ってるの……? アレックスさんと、アレクサンドルは、別人に決まってる」

 いやに早くなる心臓はまるでナマエをあざ笑うかのようだった。何を言っているんだお前、と。身体は嘘をつけない。そんなナマエに、“ナマエ”は近寄ってきて言う。

「ひどい顔してるよ」
「誰のせいだとおもってるの」

 とてもイライラする顔だった。自分はこんな顔もできるのかと思うとそれもイライラする。

「でもわたしが言ったことは本当だよね。だからこそそんなに心を狂わせる。違う?」
「……悔しいけど、そう。あなたはわたし。でもなぜわたしをそんなに苦しめようとするの?」
「苦しめようなんて思ってないよ、ただ、あなたの本当の気持ちをまっすぐ言ってみたかっただけ。いつも閉じ込めてて、見て見ぬ振りをするあなたにね」

 そうだ。いつだって認めたくなくて、見えない振りをしていて、そんな気持ちまるでないように振舞っていた。すべてが不都合な事実だった。
 だっていやに決まっている。何人もの珠魅がサンドラによって殺されていて、最初は憎しみを抱いていて、絶対に赦さないくせに、と心に決めていたくせにアレックスに似ている男性が正体だと知った瞬間、自分の中の信念が揺らいだ。
 信念は日を追うごとに段々と崩れていく。なぜか、といえば、珠魅の過去を知ったから、アレクサンドルの思いを知ったから、蛍姫の状態が非常に危険であるから。そして、そういう理由に加えて、彼を恋い慕う故の情が確かに潜んでいた。
 そういうひどく個人的な自分の想いが瑠璃や真珠に申し訳なかった。彼らは珠魅の再興のために頑張っていると言うのに。
 だからそんな心内は鍵をかけて、誰にも悟られぬように深い深いところに閉じ込めていた。まんまと自分によって鍵を開けられて、目の前へ持ってこられてしまったが。

「……それで、どうするの? わたしにそれを言って、どうするつもりなの?」
「いい加減目をそらさないで。ちゃーんと自分の本当の気持ちを認めて、がんばるのです」
「あ……れ、あなたは、誰なの……?」

 今まで自分の姿をしていた“ナマエ”は、段々と微妙に姿が変わっていく。最後には別人になり、しかしどこか自分に似た顔の―――

「珠魅……?」

 珠魅になった。彼女の胸元には宝石が輝いていた。見たことのない珠魅だった。

「わたしはあなたです。そしてあなたはわたし」
「……わたしは、わたしだよ」
「あなたはかつてわたしだったの。これで、わかるかしら?」
「わたしはかつて、あなただった……。じゃあ、もしかして……」

 ナマエの中に一つの可能性が芽生えた。まさか、と思いつつも、有り得るその可能性に心が捩れそうな思いになる。もしその可能性が合っていたとしたら、今までの出来事に納得がいくことがいくつか出てくる。

「わたしはあなたがあなたになる前のあなた。珠魅、だったんですよ。」
「そんなまさか……」
「本当ですよ。かつてレディパールがわたしの騎士を勤めていました」

『おいで、古の記憶を持つものよ、貴女が開くのです』

 レイリスの塔の運命の部屋の前で、聞こえてきた言葉が蘇る。だから、瑠璃では開かなかった扉が開いたというのか。

『……君は私の古の友に似ている』
『ナマエがここにいる理由、珠魅とかかわる理由、私にはわかる気がするよ』
 運命の部屋でレディパールに言われた言葉が蘇る。そういうこと、だったのか。

「珠魅を救えるのはあなたです」
「……どうでしょう」
「自信を持ちなさい。あなたの気持ちが、珠魅を救うのです」
「はぁ……」

 なんとなく腑に落ちないが、一応返事をしておく。不純さすら混じっているこの自分の心が、珠魅を救えるとは到底思えない。大体、先ほど夢とはいえアレクサンドルに『君は珠魅の、私の希望だった』なんて見限られたような発言された手前、まるで信じられない。

「そのことを、あなたの心が最近揺れ動いているので教えに来ました。大丈夫です。その救いたいと願う気持ち、赦したいと思う気持ちが扉を開く鍵なのですから」

 救いたいと願う気持ち、赦したいと思う気持ち――――本当に、本当に自分が珠魅を救えるのだろうか。気休めではなく、本当に。彼女の表情からは何も伺えない。ただ微かに口角を上げて微笑んでいるだけ。

「それではおやすみなさい。よい夢を……」

 珠魅の女性はくるりときびすを返してゆっくりとどこかへ歩いていった。