34.月に愛された男と

 込み上げる不思議な気持ちはさておき、身体を洗って着替えなくてはならないことを思い出し、ナマエは着替えをもち、今度はまっすぐバスルームまで向かった。もうあの声は聞こえてこなかった。
 熱いお湯で身体を洗いながらも、頭の中で反響を繰り返す女性の嬌声。静まったはずの鼓動がそのたびにまた活発に動き出す。

「ああ……もう……」

 その声は脳にこびりついたみたいに消えなくて、お風呂から上がって身体はすっきりしたのに、心が晴れなかった。この感情がよくわからないのだ。モヤモヤしているのは確かなのだが、なぜモヤモヤしているのかが全く分からない。やがてそんな感情の正体などどうでもよくなり、気晴らしにナマエは街に下って行った。冷たい夜風が頬を撫でて、気持ちが落ち着く。
 もう何度かこの街をぶらぶらしているので、最初は見慣れぬナマエの姿や、決まって太陽が落ちた頃に街を歩いていると言うことで、好奇のまなざしを向ける者もいたが、最近は“丘の上の城の使用人”として認知を受けているので、馴染みになりつつある。

「ああ、ナマエちゃん。療養中の人の容体はどうなんだい?」

 療養中の人――これはディオのことである。前に食材を買っているときに「一体誰が引っ越してきたんだい?」と言う問いに対して、慌てふためき、若干の間をあけた後、「病気の療養のため、ここへやってきました」と説明したことから、すっかりこの街にその噂は広まった。

「ううん……そうですね、少しずつ良くはなってきています。お気遣いありがとうございます」

 さらさらと嘘をつける自分に嫌気がさしながらも、頭を下げた。けれども火傷の跡もだいぶ癒えてきたのであながち嘘と言う訳でもない。
 ぶらぶらと町を歩くが、取り立て目を引き付けるものもないし、既に街は眠りに就きかけているので、仕方なしに城へと戻っていく。傾斜を登りきり、陰鬱な雰囲気の城の重い門を開く。買った食材をキッチンに運び、自室に通ずる通路を歩いていると、途中、広間から喋り声が聞こえてきた。先ほどの一件があるので何となく気まずいが、好奇心から、ちらり通り掛けに覗くと、いつも通りチェアに腰かけたディオと、その傍らでひとり男性がいた。パッと見ただけでも体格が大きくて、ワンチェンではなかった。何者だろうか? ナマエは立ち止まり、じっと見ていると、視線に気づいた男性がナマエの存在に気づき「何者だ!」と声を上げた。

「え、あ……」

 突然のことに身体が緊張し、こわばる。

「ジャック!」

 ディオが制するように叫ぶ。彼の名はジャックと言うらしい。

「彼女はこのディオの使用人だ。決して手を出すな」

 手を出すな――つまり、彼は今ディオの言葉がなければナマエに襲い掛かり害を与えるつもりだったのだ。ぞわっと戦慄が奔った。

「ナマエ、こっちへおいで」

 ディオは、まるで警戒する猫を呼ぶようなやさしい声色でナマエを呼ぶ。ナマエはじりじりと距離を詰めると、ディオは立ち上がり、「紹介するよ」と言って男を手で差す。

「ジャック・ザ・リッパー。切り裂きジャックと言ったほうがわかるかな。彼は先日おれの下僕となった」

 切り裂きジャック。ついこの間も執事長に気をつけなさいと言われた、あの切り裂きジャック。心配して探しに来てくれたディオも、切り裂きジャックのことを言っていた。あのロンドン中を恐怖に陥れた切り裂きジャックがディオの下僕になったと言った。改めてディオの力の大きさを知った。

「ジャック、下がるのだ」
「はい、ディオ様」

 ジャックは一礼をすると、広間から立ち去った。残されたナマエは気まずい気持ちになり、「ではわたしも」と言ってそそくさこの広間を出ていこうかと考える。そんなナマエの背中にディオの声が届いた。

「ナマエ、ここウインドナイツロットの港には行ったことがあるかい?」
「あ、いえ、ないです」
「そうか、ならば来るのだ」
「ええ?」

 来るのだ? 不思議がるナマエの横を通り、ディオはすたすたと歩いていく。呆然とその後姿を眺めていると、扉の近くで立ち止まり、くるりと振り返る。

「どうした?」
「えと、あの」
「置いていくぞ」

 置いていくといわれると、なんとなくついて行ってしまう。小走りにディオのあとを追いかけた。

「どこにいくのですか」

 少し先を歩くディオの背中に問いかければ、振り向かずに答える。

「先ほど言っただろう阿呆。港だ」
「なぜです?」
「行ったことがないのだろう?」
「ないですけど……」

 ナマエには理解が出来なかった。港に行ったことがないから、港に行く。ならば海底にも行ったことがないのだが、それを言ったら連れていかれるのだろうか。彼に「海底に行ったことがあるか?」と聞かれたら用心して「行ったことがあります」と答えることにしよう。
 城の外に出ると眼下に臨むウインドナイツロットの街が月明かりに照らし出されていた。街は既に眠りに就いていて、家々の明かりはちらほらとある程度だったが、それはそれで美しく見えた。ずんずんと進んでいくディオの姿もまた、月明かりに照らし出されていて、歩くたびに揺れるその金色の髪に見入る。ジョナサンが太陽に愛された人だとしたら、ディオは月に愛された男。こんなにも月明かりが似合う人はきっといない。
 坂を下り、ウインドナイツロットの街を行く。思えば二人でこの街を歩くのは初めてのことだった、だからどうという訳では無いが、一種の感慨を感じながらもディオについて歩いていく。
 二人の間には一定の距離があり、離れすぎず、遠すぎず。ディオは何度か振り返り、ナマエがついてきているかどうか確認をしつつ、ついに港までやってきた。港も月明かりに照らされていて、風でゆらゆら揺れる水面が何と綺麗なことだろう。港に身を寄せて、眠るように泊まっている船がたくさんあった。思わず水辺まで駆け寄っていた。

「わあ……」

 想像していたよりもずっときれいな光景が広がっていて、思わず感嘆の声が漏れだした。その様子を眺め、ディオは満足そうに鼻を鳴らす。

「綺麗です、ディオ様……」

 くるりと振り返り、ディオと目が合うとドキリと心臓が飛び跳ねた。白い肌、妖艶な紅い瞳、美しい筋肉の隆起。その月明かりを受けた姿は芸術作品のようだった。それと同時に、あの時の声がフラッシュバックする。

『ディオ様……! ん、ディオ様、あっ……!』

 さまざまな感情が一気に込み上げてきて、その感情をどうにも消化できず、ナマエはディオから目を逸らす。

「気に入ったか?」
「はい」

 ナマエは曖昧に微笑み、ディオが何かを察する。

「どうかしたか」
「いえ、別に」

 憮然と言ったナマエに対し、ディオは腰に手を当てて顔を顰めた。

「あのなあ」

+++

 眼下のナマエはあくまで視線を合わせようとはしなかった。美しい水面を見て急にジョナサンのことでも思い出したのだろうか。ならばこの落ち込んだ様子にも説明がついた。

「分かりやすいナマエの機微に気づかないとでも思うのか?」
「わ、分かりやすいですかね……」
「ああ、分かりやすい。今ものすごく落ち込んでいるように見えるぜ。で、どうかしたか。ジョナサンでも思い出したのか」

 まるで僻んでいるような言い方になってしまい、ディオは自分で自分の物言いに嫌気がさした。

「いえ、そうではなく」

 しかも違うらしい。益々ディオは嫌な気持ちになる。が、ジョナサンのこと以外でこんな落ち込む様子、ディオはなかなか見たことがなかったので、それはそれで興味が湧いた。

「では、どうしたというのだ」
「その、なんて言うか」

 とても言いにくそうに口ごもるナマエ。早く言え、と急かしたいのを堪えて逡巡するナマエを見守るが、

「なんでもないです」

 結局ナマエは言わなかったので、ディオは意地でも口を割らせたくなった。

「言え」
「いやです」
「言え」
「お断りします」
「言えと言っているのだ」
「いやです」
「早く言え頑固者」
「いやったらいやです」
「ゾンビにするぞ」
「……いやです」
「では言え」
「見てくださいディオ様! きれいな景色です!」
「それで誤魔化したと思ってるのか阿呆」