31.ひまわりを臨む月

 やることのないこの邸で、ただただ“その時”を待つ、と言うのは時間の経過がいつもの何十倍も遅く感じる。本当に彼はやってくるのだろうか、それともあれは冗談だったのだろうか。そわそわとして仕方ないので、城にある本を何冊か頂戴して、蝋燭の明かりで本を読み始めた。
 タルカスとブラフォード ―――スコットランド王国の女王、メアリー・スチュアートの守護をしていた騎士。この本はジョースター邸にもあり、昔よくジョナサンと一緒に読んでいた。しかし、本に集中することはやはり出来なく、どうしても閉ざされた扉に神経が行ってしまう。あの扉が開け放たれたら、ディオに連れられて一緒のベッドで寝ることになる。こんな時に思い出してしまうのは、彼にされたファーストキスだ。もう何年も前のことなのに、やはり初めてのキスは忘れられない。ディオは、あれはキスではないと言っていたけど、何と言われたってナマエにとってはあれはキスなのだ。そのファーストキスの相手と、一緒のベッドに寝る。

(ジョナサン様……どうすればいいですか……ああ、ジョナサン様、目は、まだ覚めないのでしょうか?)

 さまざまなことがナマエの頭の中にめぐりパンクしそうになるが、ふと思い出す傷だらけのジョナサン。彼のことを思い出すと、一筋涙が流れた。ジョナサンのこと、ジョースター家のこと、最近あった数々のまだ癒えぬ心の傷を、連鎖的に一つ思い出してはまた一つ思い出し、ひとり、静かな部屋でむせび泣く。大好きなジョースター卿。穏やかな毎日。ずっとあの日々が続くと思っていた。ずっと、ずっと。呆気なくその日々は崩れてしまった。

 
「ナマエ」

 扉を開けると、ナマエは本を手に、ベッドにうつ伏せに倒れこんでいた。

「ナマエ?」

 近寄り顔を覗き込むと、ナマエは瞳を閉ざしてすやすやと寝息を立てていた。蝋燭の灯りに照らされて、涙の跡が見える。ナマエは泣いていたということか。持っている本はタルカスとブラフォードの本。確かにハッピーエンドではないが、そんなに泣くような内容だっただろうか。

「失礼するぞ」

 ディオはナマエの横に自身も横たわり、ナマエの様子を観察する。ナマエとは七年一緒に過ごしてきたが、さまざまな表情を見てきた。笑顔、泣き顔、怒った顔、傷ついた顔、悲しい顔。けれども寝顔というのは、思い返せば見たことがなかったかもしれない。一般的に寝顔のほうが幼く見えるというが、ナマエも例外ではなかった。普段よりも幼い彼女の寝顔に、暫し無心で見入る。
 人間を辞めて以来、気の休まる時がない。ジョースター邸での戦いで負った傷もなかなか癒えぬし、太陽の光に当たらぬよう細心の注意を払わなければならない。けれどナマエと二人、一緒にいるときは気が休まる。つまり今、ディオは久々に安息を手にしていた。
 ワンチェンは今のところ、駒として動いているが、腹心の部下、と言う訳でもない。彼は一度、毒薬を提供していたことを自供している。かと言ってナマエのことを信じている、と言ったら語弊が生まれるかもしれない。信じているわけではない。けれど彼女は恐らく自分のことを殺そうとはしない。彼女の愛するジョナサンに瀕死の重傷を負わせたと言うのに、まだ情を持っているようだ。そういう点では安心を覚えている。

「……迎えに行くから待っていろと言ったのに。寝ていたらダメではないか」

 髪を撫でながら、ディオ自身も瞳を閉ざした。

「……ん」

 どうやら眠っていたらしい。ナマエは寝ぼけ眼で、まるで彫刻のような美しい肉体を捉えた。美しい肉体には痛々しい火傷の跡がある。これは、ディオ様? ナマエのまだ回転しきれてない頭で隣にいる存在を認識し始めたときに、急激に目がさえた。

「!?」

 ぱっと手に持っていた本を離し、上体を起こす。ディオがナマエのすぐ横で添い寝していたのだ。ディオはナマエの動きに目を覚まし、んん、と唸りながら片目を開けた。

「ナマエ」

 ディオが少しかすれた声で名前を呼ぶと、片手で抱き寄せられ、その腕の中に閉じ込められた。

「ディオ様!?」
「煩いぞナマエ。もう少し寝る」

 ディオの吐息がナマエに掛かり、ドキリとする。寝れるわけがない。すぐ近くにディオの顔がある。どうしろと言うのだろう。

「ディオ様……」

 誰かと一緒に寝るのなんて初めてだ。身体密着して、吐息がかかり、こんなにもドキドキするのだろうか。身動き一つとるのも躊躇ってしまう緊張感。こんな夜を毎日過ごすしかないのだろうか。何とも言い表しがたい感情がナマエの中を巡った。

「ナマエ」

 パチリと目を開き、その宝石のような紅い瞳がナマエを捉えた。

「はい……」

 それまでナマエを閉じ込めていた腕は、腰に添えられる。それだけでゾワゾワと身体の芯がしびれるような感触。その手はナマエのボディラインを滑り、ナマエの頬に添えられた。

「ずっと、傍にいるのだ」
「ディオ様、何を言って―――」
「永遠はすぐ隣だ」

 ニヤリ、口角が上がった。そしてディオは上体を起こしナマエの肩を押すと仰向けにさせて、そのまま馬乗りになった。男性経験がないナマエでも、それなりに年を重ねてきているのでこの体勢の通称、及び状況について理解しているつもりだ。
 所謂、押し倒されている、と言う状態であろう。

「ディオ様……?」
「そうだ、そうやっておれのことを意識しろ」

 もう何も考えられなかった。ディオが何をしているのか、何をしようとしているのか、何もわからない。

「おれを見ろ、おれをひとりの男としてみてみろ」
「わたしは、ディオ様をひとりの男として見ています……なぜこのようなことを」

 ナマエの必死な顔がよほど面白かったのか、ディオは小さく笑うと、ナマエの上から退いて、そのまま部屋を立ち去った。ようやく収まった鼓動に安心しつつ、一つ息を吐いた。相変わらずディオと言う人物は、ドキドキさせることが得意なようだ。男なのに妙に醸し出す妖艶な色気は、吸血鬼になってからますます増加している気がする。ジョナサンもナマエをドキドキさせるが、それとはまた別のドキドキの種類だ。息が止まってしまうような、そんな感覚。それにしても、

「一体どうしちゃったんでしょう」

 ディオのことがますます分からなくなった。