20.七年経っても太陽は昇る

「切り裂きジャックですよね、気を付けます」
「ああ、そうだ。くれぐれも気を付けるんだよ」
「はい、わかってます」

 ナマエは心配そうに眉毛を下げる執事長に対して、にこっと微笑み頷いてみせた。
 切り裂きジャック――ロンドンの街で、夜な夜な人目のつかないような場所で殺人が行われていて、しかも対象はすべて女性であった。殺された女性は臓器を取り上げられていて、残忍かつ猟奇的な犯行はロンドン中を恐怖に陥れた。
 執事長は、ナマエが町に行くと聞いたときには決まって気を付けるように言うのだった。こんな人の良い執事長を、ナマエは変わらず好きだった。
 けれども切り裂きジャックが狙うのは決まって売春婦であることと、夜中に行われていることから、ナマエはそこまで心配はしていなかった。

「それより、本当にありがとうございます、わたしのわがままで半休をいただいてしまって……」
「いいや、いいんだよ。いっておいで。坊ちゃんたちの勇姿を見ておいで」

 今日はジョナサンとディオの通っている大学、ヒュー・ハドソン校で行われるラグビーの最終決戦の日であった。どうしてもナマエはその試合が見たくて執事長にお願いしたところ、快諾してくれたのであった。

「ありがとうございます。では、いってきます」
「ナマエちゃん、くれぐれも切り裂きジャックには気を付けるんだよ! 暗くなる前には帰っておいで」
「ふふ、はい。わかってます」

 また切り裂きジャックのことを言うものだから、思わず笑ってしまった。

(ジョナサンさま、それにディオさま、頑張ってほしいです)

 ナマエとジョナサンの関係はというと、七年経っても相変わらずであった。ナマエはジョナサンに焦がれているままで、最近ではジョナサンの考古学の研究の手伝いなんかもしたりしている。あの時から何の波風もたつことなく、平行線のままであった。あの時、というのはつまり、彼が失恋したときからである。
 ナマエはエリナのことには触れなかった。そのうちに、ジョナサンのほうから、エリナは消えて、二人の仲は終わったのだということを聞かされた。それきり、エリナの話題がのぼることはなかった。ナマエは進展を望むわけでも、かといって諦めるわけでもなく、すぐそばにいるその場所を望み続けた。なぜならば元いたその環境が喉から手が出るほどほしかったからだ。その場所に戻ってこれた今、甘んじてその環境を受け入れいてる。
 もちろん、進展が出来ればそれほどいいことはない。けれどそれを望まないのは、やはり自分の立場をわかっているし、無理だとわかっているからだ。メイドが主人と結ばれるなんて、どんな小説にもない。ご主人様は淑女と結ばれる運命なのだ。だから今だけ、もう一度ジョナサンと親しくできる距離の女性になれたのだから、今この時を楽しもう、そう思ったのだ。
 いつかまた、ジョナサンも好きな人ができるだろう。その時は笑って応援できるようになりたいと思う。一度経験したのだから、今度は大丈夫だ。ジョナサンが幸せならそれでいい、と思う。
 自分がメイドでなければ、と考えたことはもちろんある。けれど、そんなことは考えるだけ無駄である。自分はジョースター家のメイドであるという事実は、不変の事実なのだから。逆に考えればジョナサンが誰と結婚しようが、ずっとそばにいれる。生まれたときから一緒なのだから、ジョナサンと離れて生活することが想像すらできない。ジョナサンと一生一緒にいることは、別の形で可能だ。七年の歳月でこう思うようになった。
 先ほど、焦がれたままだと述べたが、厳密にいえば若干変わっていることは否めない。七年前には、少し期待していた部分もあった。もしかしたら、いつか、と。けれど七年の歳月が彼女を大人にした。もうジョナサンとどうこうなることは無理なんだと悟っている。けれども好きなことは変わらないので、いつかまたジョナサンに好きな人ができたら、今度こそ踏ん切りがつくだろう、そう思っている。
 けれども、自分がエリナの立場であったら、どれほど幸せだったのだろう。何があったって、絶対にジョナサンから離れたりしないのに、悲しませることなんてしないのに。と、メイドの立場を嘆くわけでなく、去って行った“あの子”にそんなことを思ったりもする。あの子が去ったからこそ、前のように戻れたというのはわかっているのだが、そう思ってしまう。

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 無事に試合開始前にたどり着いたナマエは、観客席の一番端でこっそりと二人の試合を見守っていた。ラグビーの試合を見に来ている人たちはみな大学生で、この場所にメイドである自分は場違いであると思ったからだ。
 フィールドではジョナサンが機関車のように突進し、そこに敵校の人たちが一人、また一人で食らいついていく。195cmと高身長に成長し、トレーニングで鍛えぬいた体は一人や二人じゃ止まらない。しかし、四人目でさすがに膝をつきそうになる。そこで、ジョナサンがパスを渡す。その先にいるのはディオだ。一見、無茶なパスであったが、ディオは見事にキャッチをし、華麗な走りを見せて、見事トライ。
 試合はヒュー・ハドソン校の勝利で飾られた。ナマエは二人の勇姿に、終始釘づけだった。特にジョナサン。叫びだしたいくらいの興奮だった。
 ジョナサンとディオの二人はこの七年間でとても仲良くなった。きっかけはそう、恐らくだがあの殴り合いだったと思う。当初ジョナサンはディオに対して警戒していた。が、それ以降ジョナサンからディオのそういった話を聞くことがなくなった。寧ろその殴り合い以降、ディオがジョナサンに心を開き始めたのか、二人はよくつるむようになった。ナマエとしても二人が仲良くなるのは非常にうれしいことであった。今も二人はがしっと手を組んでいる。
 しかしこれには七年も前から練られていたディオの思惑があることをナマエは知る由もない。

「……よかった」

 ナマエはそんな二人の姿をしっかりと目に焼き付けると、勝利を喜ぶ歓声に背を向けてその足で近くの街へ向かった。試合の後は久々に買い物をしようと思っていた。切り裂きジャックの件もあるのであまり遅くならないようにと留意しつつ、休暇を楽しんだ。
 だがしかし、楽しいことというのは実にあっという間に過ぎてしまうものだ。特に買い物は、その最たるである。気が付けばあっという間に日が落ちて、夜になっていた。最後に寄ったお店の店先で1時間ほど悩んだのがいけなかったのだろう。しかも困ったことに雪までも降り始めてきた。
 ここはロンドンの市街地ほどの賑わいはないにしても、やはり切り裂きジャックは怖かった。切り裂きジャックだけでなく、夜は恐怖が蔓延っている。一人の夜道はさすがに危ない。仕方がないので、馬車を使おうと考え馬車乗り場に向かう。お金で安全を買うと思えば安いものだ。荷物も増えて重いし、ちょうどいいだろう。
 しかし、馬車乗り場はあいにく混雑していて、長蛇の列ができていた。

(お仕事終わりの方々がいっぱいです……この天気もありますし、仕方ないですね)

 馬車乗り場の列でしばしその時を待つ。あともう少しだ、というところまで進んだところで、

「ナマエ!!」

 思ってもなかった出来事が起こった。自分の名前が呼ばれているのだ。周辺を確認しようとしたその時、くいっと自分の結わいていた髪が後ろから引っ張られた。

「ナマエがまだ帰っていない?」

 ジョナサンとディオが同時に発した。それに対し、執事長は、ええ、と非常に言いにくそうにうなづく。二人がラグビーの試合の結果を父に報せたあと、執事長がこそっと二人にいったのだった。
 ジョースター卿は、病に伏せっている。ただの風邪だったはずなのだが一向に良くならず、ベッドで過ごすことが多くなっていた。そんなジョースター卿の身体に障ってはいけないと、執事長が気を聞かせてジョースター卿の部屋を出て暫く行ったところで言ったのだった。

「暗くなる前には帰るといっていたのですが……」
「いつ頃ナマエはでていったんですか?」

 ジョナサンが問う。

「お昼前には……お二人の試合を見に行くんだと申しておりました」
「何をやってるんだ……アイツ!」

 ディオがそう言い残し、真っ先に駆け出した。

「ディオ! 待てよ、ぼくもいく!!」

 遅れてジョナサンも駆け出しそうになるが、踏みとどまって、

「父さんにはくれぐれも内緒で頼むよ、いってくる!」
「もちろんでございます……! よろしくお願いします坊ちゃま」

 執事長にそう言うと、今度こそジョナサンは駆け出した。その後姿に執事長は深々と頭を下げた。
 一方ディオは苛立ちながらも全力で雪の降る道を走っていた。

(あのバカ女……どうしてこう、心配をかけるんだ! 切り裂きジャックがまだ捕まっていないっていうのに、何をしているんだ! 大体、試合を見に来たなら一言くらい声をかければいいものを! どうせまた変に遠慮したに違いない!!)

 失踪したというのに心配というよりか寧ろ悪口ばかりが浮かんでくる。屈託のない笑顔を浮かべている様子がディオの頭に浮かぶ。

(ナマエのことだ、そのまま買い物に向かったに違いない。市街地へ行ってみよう……!)

 ディオは市街地に向かった。
 一方ジョナサンも、ディオに遅れながらも市街地に向かっていた。ジョナサンもナマエが買い物好きなことは知っていた。本当に買い物するだけでなく、ウィンドウショッピングも好きなナマエがついでに市街地に行くことは想像たやすい。

(ナマエ、無事でいてくれ……! まだ君に、試合の結果を直接報告できていないんだから!)